【050】野犬
野犬の跳躍が見えた。
それだけだった。
次の瞬間には体に鈍い衝撃が加わり、地面へと倒れ込む。いや、ロズリーヌ自身は何がなんだかわからず、自身が転倒したことにすら気がついていなかったかもしれない。
目の前が暗くなり、次いで訪れるであろう痛みに恐怖する。
――きゃん!
再び、甲高い悲鳴が上がった。
「……良かった……」
頭上から安堵に満ちた声が降ってくる。
その声の主の正体を頭で認識する前に、ロズリーヌの体からふっと力が抜けた。
同時に、目の前が暗いのは自身が目を閉じているからだとも。
「あ……」
緊張が解けていく。
ゆるゆると瞼を持ち上げると、目の前を一筋の汗が伝うのが見えた。その人の首筋に頭を埋めるようにして、片腕で抱き込まれている。
そこにいたのは、ずっと心の中で名前を呼んでいた婚約者だった。
「ロズ――」
セレスタンがロズリーヌの名を口にする前に、ロズリーヌはその首元に腕を回した。
視界の端に、走り去っていく野犬の姿が映る。そこでようやく、いつの間にか森を抜けていたことに気がついた。
飛びかかられそうになったロズリーヌを地面に押し倒すようにして抱きかかえつつ、野犬に反撃したのかもしれない。ロズリーヌを抱えるのとは逆の手に、鞘に刃を収めたままの剣を握り締めている。
「――待ってたの……」
巻きつけられた細い腕から、微かに震えが伝わってくる。
セレスタンはたまらない気持ちになって、婚約者の華奢な体を力いっぱい抱き締めた。
「ちょっと、君ねえ」
そこに聞き慣れた声が割り込んでくる。
「遠目に婚約者が見えたからって、無言で護衛たちを置いて行くのやめてくれる? なんのための護衛なのかな? ん?」
複数の護衛たちと共に追いついてきたリンが、馬の上から呆れたように言った。
その中に、一頭だけ人を乗せていない馬がある。おそらくセレスタンが乗ってきた馬だろう。
目の前の出来事に集中しすぎて、蹄の音さえ聞こえていなかったらしい。
「……犬一匹ならどうにかなると思って」
悪戯を叱られた子どものように、視線を逸らしながら言うセレスタン。
いつの間にか、この二人は親しくなったようだ。
「にしても……まあ、随分と酷い格好だねえ」
次いで、リンはロズリーヌに気の毒そうな視線を向けた。
酷いというか――。
ロズリーヌが自身の足下を見下ろす。まあ酷いわね、と苦笑した。
自分でドレスを引き裂いたのだから仕方ないが、とても人前に出られる格好ではない。
セレスタンははっとすると、自分の身につけていた上着を脱ぎ、ロズリーヌの腰に巻きつける。レディに恥をかかせないようにとの配慮か、護衛の男たちはできるだけロズリーヌを視界に入れないようにしているようだった。
「ごめん、気がつかなくて」
「いえ、それどころではなかったんですもの。それより、わたくし……追手から逃げて……」
「追手?」
警戒心露わに、セレスタンが周囲に視線を走らせる。ピリッとした空気が流れた。
「あ、そんなに近くにはいないと思うわ。あの中を随分と走ったから」
『あの中』というのは、言わずもがな森のことである。
愛する婚約者が野犬に追いかけられ、森の中から飛び出してくるのをセレスタンも目撃していた。
「とりあえずここから離れよう」
そう言いながら、セレスタンはロズリーヌを抱え上げ、自身が乗ってきた馬の上に持ち上げる。
「城に戻る!」
自分も馬上に戻り、ロズリーヌの腕を自分の腰に抱きつかせると、セレスタンは周囲にそう声をかけて馬を操りだした。
「あの、彼らを捕まえなくていいの?」
淡い茶色の髪の毛が風に靡くのを見つめながら、ロズリーヌが訊ねる。
「彼らが隠れていた屋敷ならもう押さえてあるよ」
答えたのは、馬を併走させるリンだった。
「というか、先にそちらのほうに行ったからね。君が捕われていると思って」
だが、そこにロズリーヌはいなかった。
だから捜していたということらしい。
「じゃあ、彼らは捕まったということ?」
「うん、とりあえずね。君がさっき言っていた『追手』がどうなったかはまだわからないけれど、屋敷に置いてきた兵たちには屋敷の周囲を捜索し、取りこぼさないようにと指示してある」
「そう……」
なら、あのお頭も捕まったのだなとぼんやりと考える。誰かに依頼されたのだとしても、貴族の娘に危害を加えたのだから、これはたいへんな罪だ。
依頼主であるルフィナ・トノーニはただの貴族令嬢――しかも他国のだ――に過ぎないので、彼らを庇う力などないだろう。
「そう言えば、なぜわたくしがあの屋敷にいるとわかったの?」
ロズリーヌが再び疑問を口にする。
「このあたりはサックウェル侯爵が収める土地なんだけど……かつては、とある伯爵が預かる領地だったらしい」
今度答えたのはセレスタンだった。
前方を見たまま口を開く。
「……とある伯爵?」
「そう。それが侍女長――ゾーイ・トレースの父親」
「侍女長の……」
「うん、その辺はまたあとで説明するね」
気にはなった。
しかし、疲弊しきっていたロズリーヌはそれ以上訊ねることはしなかった。
気がついたら、きつく握り締めていたはずのペーパーナイフはなくなっていた。
どれくらい経っただろう。
王宮に辿り着いた時にはもう、ロズリーヌの意識は朦朧としていた。
(意外と近かったのね……)
一日もかからずして城に着くということは、かつて侍女長の父親が収めていたというあの領地は王都のすぐそばにあったのだ。
不幸中の幸いというところだろうか。距離があれば、その分救出にもっと時間がかかっていた。
「馬を頼む!」
ロズリーヌの状態を把握していたセレスタンが、護衛の男に自身の馬を引き渡し、ロズリーヌを抱え上げる。
なるべく人目につかないよう道を選びつつ、そのまま足早に侍医のもとに向かった。リンはついてきていないようだ。
「これはこれは……また無茶をしたものですな」
連絡を受け、以前、ロズリーヌが保護されていた使用人部屋で待ち構えていた侍医は、セレスタンの腕の中を覗き込んで眉根を寄せた。
「侍医……」
熱い息を吐き出しながら、ロズリーヌが小さく会釈する。
「彼女をベッドに下ろしたら、別室で待機していただけるかな」
「いや、私は――」
「私が信を置いている女性医師を呼んでおきました。この男社会の中で生き抜いてきた優秀な医師です。彼女がすぐに駆けつけてくるでしょう。そうすれば、私も席を外すつもりですよ。さすがに女性の体を見るわけにはいきませんからな」
「そう……ですか」
「それでも心配なら、リンダ嬢を呼んできなされ。あの娘はロズリーヌ嬢のことを一番に思っているようだから」
この侍医は、長いこと王家に仕えている。
立場上、ロズリーヌと関わる機会はほとんどなかったが、幼い頃はエミールと王子宮を中心に駆け回っているのをよく見た。
いつも一緒というわけではなかったが、リンダが心配そうに二人の姿――というより、ロズリーヌの姿を眺めていたのも知っている。
当時はリンダも若く、初々しかった。きっとロズリーヌを妹のように思っているのだろう。
「……それでは、よろしくお願いします」
侍医に言われた通り、ロズリーヌをベッドに優しく下ろしたセレスタンはそのまま退室する。
声が掛かるのを今か今かと待っていたリンダと共に、件の使用人部屋まで戻ると、廊下で診察が終わるのを待つことにした。片時も婚約者のそばを離れたくなかったのだ。
帰城する道中、本当は聞いておくべきことがいくつかあった。
主には誘拐されてからのことだが――たったそれだけのことが、セレスタンにはできなかった。
自分の吐き出す言葉によっては、彼女が傷付くかもしれない。それが恐ろしかった。
そうして結局、城にまで辿り着いてしまった。
(情けない……)
攫われてから何があったのか。犯人たちとどのようなやり取りをしたのか。どうやって屋敷を抜け出してきたのか。
どれも必要な情報だ。
それなのに、相手がロズリーヌだと思うだけで、ほんの少しでも傷付ける可能性があることはしたくないと思ってしまう。
待機しつつ自己嫌悪に陥っていると、リンダが扉から顔を覗かせた。診察が終わったらしい。
「ロズ……」
飛び込むようにして部屋に入り、名前を呼ぼうとして口を噤む。
ロズリーヌは静かに眠っていた。
ベッドの脇に立っているのが侍医の言っていた女性医師だろう。彼女は柔らかく微笑み、ロズリーヌの状態を口頭で説明した。
多数の傷を負っているので発熱するかもしれないが、命に別状はなさそうだと。他人に暴行された様子はないので安心してほしいとも。
同時に「それなのに掠り傷が多いのはどういうことなのだろう」と首を傾げてもいたが。
しかし、セレスタンはひとまず少しだけ安心することができた。
「旦那さま、どこに?」
すぐに部屋を出て行こうとしたセレスタンに、リンダが声を掛ける。
「あ、ああ、殿下にご報告を。リンダ、彼女のことを頼んだよ」
ふにゃり。
気が抜けたようにセレスタンは笑った。泣き笑いのようなその表情に、リンダも笑みを返す。「もちろんです」
きっと、一足先にリンもアーロンのもとへ戻っていることだろう。
人目憚らず『愛する娘』と口にするぐらいだ。
自分もロズリーヌのことが心配でたまらないだろうに、思い詰めた様子のセレスタンにすべて譲ってくれたのである。
――彼女は愛されている。
愛している。
そんな彼女を悪意をもって貶めようとする人間を、セレスタンが許すことはない。




