【005】最後に見たい顔
――あなたと婚約したく思います。
出会い頭にそう告げた時の、セレスタンの顔といったら。
「……え……」
セレスタンは、手に持っていた書類をバサリと落とした。常に隙のない笑みを浮かべているセレスタンにしては、妙な表情だった。
そんなセレスタンに、ロズリーヌはくすりと肩を揺らす。
「ですから、求婚をお受けいたします、と……というか、セレスタンさまに謝らなければいけないことがあるのですけれど」
「……え」
「実は……父にもう『アンドレアン伯爵に求婚された』と伝えてしまったんです」
それからロズリーヌは、父との会話で何があったのかを話した。
自らの与り知らぬところで、別の婚約話が纏まろうとしていたこと。そして、その相手がバルテル男爵だったこと。自分の一存で、咄嗟にセレスタンからの求婚のことを伝えてしまったこと。
次いで、自分の都合の良いように答えてしまったことを謝罪する。
「勝手なことをして、申し訳ありません」
視線を伏せて、ロズリーヌは口早に続けた。
「あの、ですが、もうお一方よりセレスタンさまのほうが、と比較するように決めたのではなくて。もともとお受けするつもりではいたのですけど、心の準備をする時間が欲しかったので……セレスタンさま……?」
言いながら、そろそろと視線を持ち上げて、ロズリーヌはハッと息を呑んだ。
セレスタンの顔から、一切の表情が抜け落ちていたからだ。
――やはりお怒りなのだ。
それはそうだろう。父に先に話を通してしまっては、セレスタンがわざわざロズリーヌに許可を求めた意味がない。
貴族同士の婚約となると、家を通すのが一般的だ。にもかかわらず、そこをあえてロズリーヌに話を持ってきたのだから、セレスタンなりのこだわりがあったはずなのである。
とはいえ、ここでセレスタンの怒りを買って求婚をなかったことにされては、ロズリーヌは件の男爵に嫁ぐことになってしまう。
純粋に求婚してくれた相手を前にして、そんなことを考える自分の浅ましさを恥じながらも、ロズリーヌは再び謝罪の言葉を口にしようと唇を開いた――が。
「なるほどね……」
その前に、セレスタンがやけに静かな口調でそう言った。
形の整った唇が薄く弧を描く。
「……君の父親は、相変わらず面白いなあ」
ロズリーヌは、笑みを浮かべたセレスタンの目の奥がちっとも笑っていないことに気がついていた。
しかし、それもまた、セレスタンが時折見せる表情だったので、いつものことだとむしろ安堵を覚える。
どうやら、これ以上謝罪を重ねる必要はなさそうだ。そう判断して、ロズリーヌは微笑んだ。
「あ、の……それで、婚約のお話ですが」
「……あ、ああ、ごめん。そうだ。そうだった。って、え、婚約? 本当に私と婚約してくれるの? それって、近い将来結婚するということだけど、いや、うん、ロズリーヌ嬢の反応から、たぶん承諾してくれるだろうなと思ってはいたけど、いざそうなってみると……え?」
白い肌がうっすら色付いている。
自分で言い出したことではあるが、実際にそうなってみると、どう反応したらよいものかわからなくなったらしい。
――かもしれない、という想像ではない。
自分は本当に好かれていたのか、とロズリーヌは不思議な気持ちになった。そこに、ほんの少しの喜びが入り混じる。
ロズリーヌは、改めてセレスタンに向き直った。
「セレスタンさま、わたくしと婚約していただけますか?」
婚約も、返事も王宮内――それも、少なからず人通りのある廊下で。
不適切に思われるかもしれないが、これはセレスタンなりの気遣いだろう。そして、ある意味、ロズリーヌに断る隙を与えないようにしたとも言える。
ロズリーヌの言葉を受けて、セレスタンはふわりと花が開くように笑った。
「――諦めるしかないと思っていた君と婚約できるなんて、これ以上の幸せはないよ」
うれしそうに、幸せそうに。
そうして、収まるべきところに収まった、アレグリア侯爵令嬢の婚約話。
二人の婚約が結ばれるのに、そう時間はかからなかった。
ロズリーヌが自覚しているように、この婚約に政治的な意図はほとんどなかったが、アンドレアン伯爵家にそのようなつながりは必要なく、セレスタンの生家であるルンデル公爵家は、王族のことを考えるとこれ以上力を付けたくないとのことで、むしろ丁度良かったとさえ考えられたのである。
そのうえ、国王が二人の婚約を後押ししたことも大きい。
ロズリーヌは、曲がりなりにも妃教育を受けた娘だ。目の届かないところに行かれるより、王家と近しい家に嫁いでくれたほうが良いと判断したのだろう。
だが、ロズリーヌにはまだやりたいことが――いや、やらなければならないことが残っていた。
(……王子妃になれると思ってなり損ねた彼女は、どうしているのかしらね)
こつり、こつり。
ドレスの裾を持ち上げながら、階段をおりていく。足を進めるにつれ、ひんやりとした空気が肌を包んだ。
――地下牢。
こんなことでもなければ、一生訪れる機会のなかった場所だ。
「お待ちしておりました」
階段をおりた先に姿勢良く佇んでいた牢番に軽く会釈をし、さらに足を進める。
追いかけてくる囚人たちの視線を振り切るように、ロズリーヌは強張った表情のまま、最奥を目指した。
「なによ、あんた……」
マルチェナ男爵令嬢ダニエラ・バリエ。
彼女はそこにいた。
冷たい石に囲まれ、簡素なベッドが一台置かれた部屋とも言えないそこに、しかしベッドを使うことなく、壁にもたれかかるようにして座っていた。
「卒業パーティー以来ね、ダニエラさま」
檻の中のダニエラに向き合ったロズリーヌは、この場に似つかわしくない丁寧な礼を披露する。
ダニエラは鼻で嗤った。
「……あたしのこと、笑いにきたわけ?」
「いいえ」ロズリーヌが首を振る。
しかし、そのあとすぐ「ああ、でも――」と言い直した。
「今、あなたがどんな顔をしているか気になっていた、というのは確かだわ」