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世界のはじまりは指先から【連載中】  作者: 桜木彩


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【049】遭遇

 ――はあ。

 ロズリーヌは木に左手をついて息を吐いた。

 苦しい。

 疲れた。

 そんな言葉ばかりが頭の中を巡る。


「……ふふ」


 落とした視線の先で、()()()()がロズリーヌの顔を見上げた。

 ロズリーヌはつぶらな瞳に力なく笑いかける。


「お前はどこまでついてくるの?」


 ピクピクと動く耳が可愛らしい。

 この切羽詰まった状況において、それは少なからずロズリーヌの癒やしになっていた。


「あ……」


 可愛い子が視線を逸らし、初めてロズリーヌから離れ駆けて行く。

 半ば無意識に、ロズリーヌはその小さな背中を追いかけた。歩き続けた足はとっくに限界を迎えていたはずなのに。

 その子もまた、少し進んでは振り返り、また少し進んでは振り返りを繰り返した。まるでロズリーヌを待っているかのような仕草で。

 一人と一匹は、やがて開けた場所に辿り着く。


(水だわ……!)


 ロズリーヌの目に細く流れる小川が映った。


「もしかして案内してくれたの?」


 覚束ない足取りで小川に近付き、座り込む。もはやドレスが汚れることなど気にしなくてよかった。


「……そんなわけないか……」


 苦笑じみた笑みを作り、可愛い子を眺めたロズリーヌは、次いでそっと水の中に手を浸す。

 ――冷たい。

 両手で皿の形を作り、透明なそれを掬い上げる。零れ落ちる前にと口をつけると、生き返る心地がした。喉を伝い、熱の籠もっていた全身に冷たいものが広がっていく。


「美味しい……」


 今まで、ただの水をこんなにも美味しいと感じたことはなかった。

 疲労感さえ和らいでいくようだ。

 今度は豪快に顔を濡らしてみる。

 ()()()()であるロズリーヌ・ミオットなら絶対にやらない行動だが、しかしここには誰の目もないのだと思うと、躊躇う必要もなかった。

 水に濡れた顔を拭くこともせず、ロズリーヌは空を見上げる。


(……今日は晴れていたのだったわ)


 随分長いこと、鬱蒼とした森を抜けてきたせいですっかり忘れていた。

 人間には日の光が必要なのだと改めて実感する。

 そのまま頭を傾けて、体ごと倒した。背中越しに草の柔らかい感触が伝わってくる。


(気持ち良い……)


 この場所があまりに穏やかすぎて、自分の置かれている状況を忘れてしまいそうだ。

 どこかで鳥たちが(さえず)っている。葉が擦れ合う音がする。生温(なまぬる)い風が頬を撫でる。

 ――体全部で自然を感じる。





 どれくらい経っただろうか。

 随分と体調が良くなったのを実感して、ロズリーヌは上体を起こした。

 時間は消費してしまったが、体力が回復できたので無駄だとは思いたく――ない。


「……まあ!」


 ふと、視線を下げると、()()()()()()()()はまだそこにいた。


「お前、まだいたの?」


 ロズリーヌは苦笑しつつ立ち上がる。

 ドレスに付着した汚れを払い落としながら周囲を見回した。


(人の気配は……とりあえず、ないわね)


 足音も聞こえないし、声もしない。

 ロズリーヌが再び森の中へ戻ろうと歩き出すと、もう一匹も上機嫌に跳ねながらついて来た。

 先ほどよりも足が軽くなっている。やはり休憩したのは間違いじゃなかったと思いながら、ロズリーヌは先を急いだ。

 とにかくあの屋敷から離れなければと。

 方向感覚に自信はないが、ここで立ち止まる選択肢はなかった。

 助けがいつ来るのか――それとも来ないのか、それさえわからないのだから。


(セレスタンさまのことだから、必死になって捜索してくださっていると思うけれど……)


 貴族というのは(しがらみ)も多い。

 あの優秀な婚約者でも、どこまでできるかわからないのだ。


「……あら?」


 気がつくと、相棒の姿が見えなくなっていた。

 動物に何ができるわけもないのに、不安がじわじわと芽生えてくる。

 ロズリーヌが慌てて上下左右、周囲に視線を走らせると、相棒はロズリーヌの頭上を覆うようにして伸びる枝の上に乗っていた。


「ああ、もう、そんなところに――」


 ほっと息を吐き出し、ロズリーヌが手を伸ばそうとしたその瞬間、背後にある茂みが大きく揺れた。


(……なに?)


 ロズリーヌの表情が強張る。灰色がかった深い緑の瞳が、強い緊張を映し出した。

 がさり。

 もう一度揺れる。

 グルル、と太い鳴き声を認識したその時にはもう、目の前に()()はいた。


(野犬だわ……!)


 冷たいものが背筋を伝っていくのを感じながら、ロズリーヌは無意識に一歩後退した。

 肋骨が浮き出た体は、満足に腹を満たせていないことを証明するのに十分すぎるほどで。同時に、今、自分が餌として認識されたであろうことを、ロズリーヌは察してしまった。

 こんな時に、犬を飼っている知人が「逃げると追いかけてくる」というようなことを言っていたのを思い出す。ありがたいとは思えなかった。

 だって、まともに戦って勝てる相手ではないのだ。となれば、逃げるしかない。

 ――でも、どうやって?

 獣相手では、ロズリーヌお得意の交渉術もなんら役に立たない。ひとつも面白いことなどないのに、口元が勝手に引き()り、(いびつ)な笑みがこぼれた。

 その瞬間、野犬が姿勢を低くする。今にも飛びかからんばかりの勢いだ。

 さすがのロズリーヌもこの恐怖には勝てず、弾かれるようにして走り出した。

 木々の間を擦り抜け、蛇行しながら走る。野犬が大きく吠える。呼吸が浅く、早くなる。さらに走る。背後を確認する余裕もないままに。

 いや、恐ろしくてできなかったと言ったほうが正しいかもしれないが。


(わたくし、ここで死ぬの?)


 死を身近に感じたのは初めてではないが、ここでは嫌だと心が叫ぶ。

 ――野犬が跳躍した。

 高く。

 狙いを定めて。


「あっ」


 背中からのしかかられるようにして、ロズリーヌは転倒した。

 そこからは、もうほとんど我武者羅(がむしゃら)だった。

 とにかく手足をばたつかせ、抵抗する。

 恐怖のあまり目を開けることも叶わなかったので、自分自身、何をしているかわからなかった。


(も、駄目……!)


 ――きゃうん。

 甲高い鳴き声が耳に届く。

 ロズリーヌは相変わらず手足を振り回していたが、ある時、体が軽くなっていることに気がついた。

 ハッとして目を開けると、野犬はロズリーヌから一定の距離を空け佇んでいた。


「え……」


 敵意は感じるものの、どうやらロズリーヌのことを警戒しているらしい。

 ロズリーヌを睨みつけながら、右から左、左から右へと行ったり来たりしている。


(あ、もしかして……)


 よく目を凝らして見てみると、野犬の額には血がうっすら滲んでいた。

 ペーパーナイフだ。

 ずっと握り締めていたペーパーナイフが、運良く野犬を直撃したのだろう。


(……持って来てよかった……)


 そうは思っても、状況は先ほどまでとまったく変わっていない。

 タイミングを見計らったかのように、再び野犬が姿勢を低くした。

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