【048】強いからといって
――可愛い子ね。
自分の周りをちょこちょこと動き回るその姿に癒やしを感じながら、ロズリーヌは慎重に前へ進んだ。もはや自分がどこへ向かっているかもわからないが、そうするしかなかった。
(さすがに触らせて……はくれないわよね。いえ、触らないほうが良いに決まってるわ。……いくら可愛くても、野生の動物だもの)
それが互いのためだと自分に言い聞かせ、小さく息を吐く。
(あの屋敷からどれくらい離れたかしら……)
追手の気配はない。
今のところ。
(諦めてくれる、ということはないでしょうね)
あのお頭は、ロズリーヌのことを『貴族のお嬢さま』と言った。貴族に害を加えれば、相当うまくやらない限り死罪になる。
ルフィナを後ろ盾として考えているのかもしれないが、だとしても、せっかく誘拐したロズリーヌに逃げられては困るはずだ。それこそがルフィナの指示なのだから。
彼らは今も、血眼になってロズリーヌを捜しているだろう。
屋敷を抜け出して、闇雲に走った甲斐があった。ロズリーヌ自身にわからぬ行き先が、彼らにわかるはずもない。
(行き当たりばったりも、たまには良いのかもしれない)
相手を惑わせるという意味では。
(でも……自分も追い詰められるのよねえ)
現に、ロズリーヌはこの先どうしたらいいのかを決めかねている。
(水、よね。たぶん。真っ先に入手しなければならないのは……水)
このような場所に長居したくはないが、そろそろ喉が渇いてきた。あの屋敷で目を覚ましてから一度も水分補給をしていないのだから当然だ。
一度足を止め、耳を澄ませる。
足元の可愛い子も動きを止めた。
(……何も聞こえないわ)
近くに小川でもあればと思ったが、そんなに都合良くいくわけがない。ロズリーヌは落胆しつつ、再び歩き出した。
前に進むことをやめたら、もう動き出せない――そんな予感がした。
一方、その頃。
「セレスタン……おい、待て!」
執務室から出て行こうとしたセレスタンを、アーロンが呼び止めた。
「……まだ何か?」
振り返らずにセレスタンが短く返す。
「いや、『何か』じゃないだろう。どこに行く?」
「決まっているでしょう。婚約者を助けに」
ロズリーヌの居場所がわかった。確信があると言ってもいい。
ならば、ここで無駄に時間をかける意味はないだろう。少なくとも、セレスタンにとっては。
「一刻も早く彼女を取り戻したい気持ちはわかる。だが、まずは陛下に相談して、こちらもいろいろと手続きと準備を――」
「承知していますよ、殿下。ですが、そうしているうちにも彼女は危険な目に遭っているかもしれない。公爵家から騎士を数名出して、彼女の救出に向かいます。父にも許可は取ってある」
「セレスタン、焦りすぎは良くないぞ。急いて事を進めると、うまくいくものも……」
アーロンの言葉に、セレスタンが振り向いた。
不快げな色をその瞳に宿して。
アーロンはぎくりとした。
「向こうの人数もだいたいは把握している。それに見合うだけの人員は出すつもりです。場所もわかっているのに、ここで時間を取られたくはありません。作戦なら現地に向かいながら考えます」
扉の前に佇むリンも、同調するように頷く。
国で預かった留学生に関わることなのだから、王族が何もしないというのは周囲に対して示しがつかない。そういうことなのだろうが、セレスタンは国の面子とロズリーヌを天秤にかけるつもりはなかった。無論、無視するわけでもないが。
「……殿下は陛下のもとへ。後ほど我々に合流してくださればよろしいかと」
「そうは言うが……いや、まあ、待て。彼女は今でこそ淑女の鑑と言われているが、昔は城にこっそり忍び込んだり、時には木に登ったり、相当なじゃじゃ馬姫だった。彼女は強いし、お前も知っているように賢い女性でもある。そう簡単にはやられないだろう。だから――」
「殿下の彼女へのあり方は、ずっとそうだったのでしょうね」
目を眇めて、セレスタンが言う。
すべてを見透かしたかのような言い草に、アーロンは再び肩を強張らせた。
「何を……」
「私が彼女を助けたいと思うことに、強いかどうかは関係ない」
アーロンがハッと息を呑む。
「『お前は強いのだから一人で耐えろ』というのは違うでしょう。少なくとも、私にはそんなこと言えません。彼女がどれほど強く、賢くても、一人きりで戦わせたくない。……愛しているからです」
同様に、ロズリーヌもセレスタンに対して「何をしても守りたいと思っている」と告げてくれた。
ロズリーヌはそういう人だ。
自身が弱いままであることを良しとせず、かといって相手に強くあることを強制もしない。そんな優しい人を自分も守りたいと。
「……ああ、そうだな。そうだった」
暫しの沈黙の後、アーロンは掠れた笑い声をこぼした。「そうだった、俺は……」
何を考えているのか、セレスタンにはわからなかった。しかし、そこはかとない後悔が滲んでいるような気がして、じっとその様子を見つめる。
「わかった」
ふと、アーロンが顔を上げた。そこには決意にも似た感情が滲んでいる。
「陛下には俺から話しておこう。好きにするといい。……ただし、お前のことだからわかっていると思うが、失敗は許されないからな」
セレスタンは目を伏せ、軽く顎を引いてから、リンと共に退室した。
「いやあ、素晴らしい演説だったよ」
早足で廊下を進むセレスタンに、ひゅう、とリンが口笛を吹く。
この男はいつでもこんな調子なので、セレスタンは思わず溜め息を吐いた。
もっと深刻そうにできないものかと。
「……本心を語ったまでだけど」
ここしばらく、行動を共にするうち随分と打ち解けてきたものだ。嫌々というのを隠しもせず、セレスタンが言葉を返す。
「本心! 本心ねえ」
揶揄するような響きに、セレスタンが隣を歩くリンに冷めた視線を向けた。
だが、本人にそのつもりはなかったらしい。「ああ、いや、違うよ」と苦笑する。
「ボクはね、あのお姫さまを守ってくれる人はもう現れないんじゃないかと思っていたんだ。殿下が言っておられた通り、まあ強い娘だからねえ。たいていのことは一人でなんとかしてしまうし、実際本人からしても『自分でやったほうが早い』という場合も多いのだろう」
セレスタンは黙ったまま耳を傾けた。
返事をするのが億劫だったというのもあるが。
「……でも、それだけに、あの娘には危ういところも感じていた」
細い瞳がさらに細くなる。
どこか遠くを見つめるように。
「だから、君のようにあの娘に正面からぶつかってくれそうな人が現れて、ボクは心底ホッとしているよ」
それからリンは、
「昔、約束したんだ」
右手の小指を突き出して。
「君が大人になるまで、ボクが見守ろうって」
親が責任が果たさないなら、自分が代わりにと。
それほどずっとそばについていられるわけではなかったけれど。
「……ああ、そうか」
セレスタンは歩く速度を少し上げて、小さく頷く。
不遇な環境に置かれながらもあのように育ったのは、少なからずリンの存在があったからなのかもしれないと思いながら。




