【047】鬱蒼とした
一瞬。
男の目には、貴族の娘が無謀にも窓から飛び降りた――かのうように見えた。
「なん……」
お頭が慌てて窓際に駆け寄ると、ロズリーヌは貴族令嬢にあるまじき大胆さで器用に枝を伝い、ちょうど地面に着地したところだった。
(い、ったいわね……)
勢いのあまり、ほとんど地面に転がるようにして着地したロズリーヌは、お頭の呆然とした顔を睨みつけてから、ドレスの裾を持ち上げて走り出す。
(思った通りだわ。外に見張りはいない!)
屋敷内を練り歩いている時、窓の外を眺める振りをして確認していたのだ。
おそらく、廃屋敷に彼らがいることを周囲に悟らせないためだろう。誰も住んでいないはずなのに、ならず者たちがうろついていたら不審である。
といっても、これだけ広大な敷地だ。そう警戒せずとも気付かれはしなかったと思うが。
まあ、なににしても、今のロズリーヌにとってはありがたいことに違いない。
「追え!」
遠くから男たちの怒鳴り声が聞こえてくる。
ロズリーヌは屋敷の裏に回ると、木が生い茂ったそこに飛び込んだ。
森だろうか。林だろうか。人工的に管理されていたものなのか、自然とそうなったものなのか。広いのか狭いのか、その規模さえ。
窓から見た程度ではわからなかったが、しばらくはロズリーヌの身を隠してくれそうだった。
荒く呼吸を繰り返しながら、ロズリーヌは進む。
「い、っ」
途中、枝の切っ先が頬を掠った。
薄い皮膚に赤い線が走る。
それでもロズリーヌは足を止めなかった。できるだけ遠くに行かなければと。
(とりあえず、ここで……)
しばらくの後、足を止める。
息を整えるように数度深呼吸をして、ロズリーヌは右手に握り締めたままだったペーパーナイフを大きく振り上げた。
左手で持ち上げたドレスの裾に、思い切りペーパーナイフを突き刺す。手加減なしで振り下ろしたそれは、勢いのまま腿にも浅く刺さったが、分厚い布までしっかり貫通しているようだ。
腕を横に引き、ドレスごと引き裂く。
最後にはペーパーナイフを放り投げ、両手で引きちぎるようにしてドレスを裂いた。
「は……」
大きく息を吐く。
(……小さい頃、一号に会うために木登りを習得しておいて良かった)
でなければ、あの時点で詰んでいただろう。何事も挑戦しておくものだ。
(ある程度の度胸がついていたのも……こう言いたくはないけれど……お城の皆さまに感謝だわ)
木の幹に手をつき、ロズリーヌは目を閉じる。
今すぐしゃがみ込んでしまいたいのを堪え、震える足を叱咤するように軽く叩いた。
「……諦めない、大丈夫よ」
自分に言い聞かせながら、再び走り出す。
つきんと足に鋭い痛みが走った。
誤ってペーパーナイフで突き刺してしまった傷は浅いはずだが、痛いものは痛い。
それでも、ドレスが膝丈になったおかげで随分と動きやすくなった。念のため、一度地面に落としたペーパーナイフは持っておくことにする。
(お屋敷の正面に門があるのだから、裏にもひとつぐらい出入口はあるはず……)
そんな淡い希望を持って、足を動かし続ける。
体力に限界を感じてからは、ほとんど歩くようにして、木に手をつきながら進んでいた。
そして、辿り着く。
(……あった!)
――裏門へと。
(これは……)
だが、ロズリーヌはさらに表情を硬くした。
確かに門だ。
目の前にあるのは。
鍵はかかっていないようで、人一人分ほどの隙間が空いている。逃げようとしているロズリーヌにとっては好都合な状態である。
しかし、その先に広がる光景に臆さずにはいられなかった。
木が生い茂っている。
それは、今ロズリーヌが立っている場所だって同じだが。なぜか、ここから先は本物だと感じてしまったのだ。人間の力が通用しない本物の自然だと。
「……行かなくちゃ」
唾を飲み込み、ロズリーヌは足を踏み出した。
ここまで来たら、引き返すことはできない。追手がどこまで迫ってきているかわからないのだから。
――それに。
(何があっても絶対に結婚するって言ったもの)
婚約者のもとに帰らなければ。
何をしてでも。
その気持ちが、ロズリーヌを奮い立たせた。
太陽の光が届かず、日中でも薄暗いそこを慎重に進んでいく。時折、鳥が羽ばたく音が聞こえ、そのたびにロズリーヌは肩を揺らした。
ここまでの心細さを感じたことは、今までに一度だってなかった。
足が止まりそうになると、婚約者の顔を思い出す。その繰り返しで、なんとか動き続けた。
そんな時。
かさ、と目の前で葉が揺れた気がして、ロズリーヌは思わず息を呑む。
(気のせい……?)
一歩、後ずさる。
足音を立てないように。
気のせい――なら良かった。
今度は大きく、茂みごと揺れた。
(何か……いる)
ロズリーヌはじりじりと後退していく。
こめかみに汗が流れた。
顎から伝い落ちる水滴が地面に衝突する音さえ、相手に聞こえるのではないかと思うほどだった。
下がれるところまで下がると、今度はペーパーナイフを体の前に構える。なんの足しにもならないかもしれないが、そうせずにはいられなかった。
がさり、がさり。
茂みがまた揺れる。
(こわ――いえ、怖くない。怖くないわ、大丈夫)
自分が心底恐怖しているのだと自覚してしまえば、今すぐこの頼りない武器を放り投げて逃げ出してしまいそうだった。
だが、それで本当に逃げられるわけもないことは重々承知している。
がさり。
また揺れた。
「は……」
ロズリーヌが細く息を吐き出したその時。
「あ!」
ロズリーヌが小さく叫ぶ。
茂みの奥から影が飛び出してきたからだ。やられた――そう思った。
しかし、いつまで経っても覚悟した痛みは訪れない。ロズリーヌは、半ば反射的に顔の前に持ち上げた腕を下ろし、きつく閉じた瞳を薄く開いた。
そこにいたのは、小さな動物だった。
茶色くふさふさの長い尾を揺らし、周囲を警戒しているのか、つぶらな瞳であたりを見回している。
「ああ……」
ロズリーヌは気の抜けた声を漏らした。
同時に、ペーパーナイフなどを持っていてもなんの役にも立たなそうだと苦笑する。
そもそも武器を持つことに慣れていないのだから、戦うことなどできるわけがないのだ。
それは最初からわかっていることだが、やはり手放すこともできそうにない。
いざとなれば、相手をひるませることぐらいはできるのではないかと未来の自分にすべて任せる。秘技、先送りである。
(本当は、こんな行き当たりばったりの作戦はわたくしらしくないのだけど。こんな状況じゃ、仕方ないわね。そうするしかないんだもの)
足の震えは収まっていた。
ロズリーヌは再び歩き出す。
何を思ったのか、小さな可愛い子がロズリーヌの周囲をくるくると回るようにしてついてきたので、ロズリーヌは思わず微笑んだ。




