【044】被害者で加害者
アンドレアン伯爵家に仕える侍女長ゾーイ・トレースは、混乱していた。
最近、体調が優れないとかで自宅療養を余儀なくされていたらしい雇用主が、突然屋敷を飛び出して行ったかと思うと、帰宅してすぐ使用人に指示を出した。聞きたいことがあるので、正面玄関前のホールで待機するようにと。
他の使用人が戸惑いにざわめく中、ゾーイだけは背中に冷たいものを感じていた。
(聞きたいこと……)
まさか、気付かれたのだろうか。
そもそもあの時――ロズリーヌが「国王と謁見できる立場だ」と知ったあの時に、これはまずいことになったかもしれないと嫌な予感がしていたのだ。
いや、とゾーイは思い直す。
まだそうと決まったわけではない。まだ何も言われていない段階で、大袈裟に焦る必要はない。
なんとか平常心を取り繕っていると、まず呼ばれたのはゾーイの名前。この辺は、侍女長という立場上、当然のことと言える。
雇用主の隣に平然と立っている見慣れない男の指示に従い、書斎に足を踏み入れ、椅子に座った。
「時間がないので単刀直入に訊く」
普段、誰にでも平等に向けられるヘーゼル色の柔和な瞳が、今日に限ってはほんの少しの温度も持っていなかった。
ゾーイは思わず背筋を震わせる。
「な、なんなりと」
しかし、そう言うしかなかった。
内心では恐怖に慄いていても。
「ロズリーヌと私の手紙を隠したのは君だな」
「え……」
「ああ、君かどうかが知りたいんじゃない。なぜそんなことをしたのかを訊いている」
実のところ、セレスタンは確固たる証拠を持っているわけではなかったが、侍女長の妙な緊張を感じ取り、鎌を掛けることにしたのだ。
今はとにかく時間がない。手段は選んでいられなかった。
「私、私は――」
ゾーイは何事かを言いかけて、それからまた口を閉じる。そんなことを数度繰り返すうち、セレスタンが痺れを切らしたように言った。
「この屋敷の中に、他に協力者は?」
「あ、い、いません!」
「……なるほど、いるらしい」
自白同然に、侍女長が否定する。
だが、セレスタンはそんな侍女長の些細な表情の変化を読み取ってみせた。
「それが誰か……は、またあとで聞かせてもらうとして。なぜ、と答えるのがそんなに難しいなら、こちらが知り得ている情報を先に伝えよう」
回りくどいことはしていられないとばかりに、畳み掛けるようにセレスタンは続ける。
「まず、君は生家とされている伯爵家の実子ではない。正確には、伯爵家の当主と踊り子だった女性との間にできた子で、しかし二人は破局。君は孤児院に入れられるところを、伯爵家に引き取られた。その後、件の伯爵家は没落同然の状態に陥ってしまったが、父親は一人逃げ、母親だったはずの女性に連れられ、他の貴族家に奉公に出ることになった――ここまでは合っている?」
雇用主の口から語られる誰も知らぬはずの自身の情報に、ゾーイは息を呑んだ。
貴族というものを甘く見ていたと言うほかない。自分さえ口を噤んでいればと思っていたのだ。
だが、違う。
そうではなかった。
その気になれば、調べられることだった。
今まで何もなかったからと、今後もそうだという保証はない。現にあいつは自分のことを嗅ぎつけたじゃないかと、ゾーイはぼんやりと思った。
「いえ、私は……」
否定しようとしたが、言葉が続かなかった。
「私は……違います」
そう言ってみても、まるで言葉だけが宙に浮いているかのように不自然さを持つ。
「君には否定する権利も黙秘を貫く権利もある。ただ、君は今『違う』と口にした。それが嘘だと後で判明した場合は大変なことになるけど、それは問題ない?」
有耶無耶にするつもりはないのだろう。
後出しのように言われたそれに、ゾーイは肩を強張らせた。
「……旦那さまにそのようなことをお教えしたのは誰です?」
「ボクだよ」
最後の悪足掻きとばかりにゾーイが訊ねると、すかさずセレスタンの隣にいた男が手を挙げる。
「あなたは……」
「しがない商人といったところかな。ボクは先日までヴェリアにいてね、そこでとある女性を見かけたんだ。随分と君に似ていたよ」
「そこからの詳細な経緯は省くが、彼が調べたところ、君の実の母親だろうということだった。どうも今はシュパン公爵の愛人をしているようだと」
――この人はすべて知っているのだ。
ゾーイは絶望的な気持ちになった。
同時に、もう隠すことはできないのだとも。
ここで無関係だと主張することもできるだろう。しかし、セレスタンの言った通り、後で真実が判明した場合はどんな罰が下るかわかったものではない。セレスタンは公爵家の嫡男。
公爵家、あるいは国王からの調査が入ったら、ゾーイが隠していることなどすぐに露呈してしまうに決まっている。
今までは、そもそも生家がたいした特徴のない伯爵家だったから、注目されることもなかったのだ。
「……私は……」
声を詰まらせながらも、ゾーイは言葉にした。
「そうです。私は、母と呼んでいた伯爵夫人の実子ではありません……」
「それで?」セレスタンが冷静に続きを促す。
「私は――父が逃げ、母に捨てられる直前まで、自分と母に血のつながりがないことを知りませんでした。ただ、それまでも、母とは馬が合わないと感じていました。母は私に対して、どこかいつも冷たくて。とはいえ、貴族としてはそう珍しいことでもなかった。……そう、自分に言い聞かせ、見ない振りをしていたんです」
「うん」セレスタンが相槌を打った。
手紙の件に直接関わりはないだろうが、すべて告白してくれるのならそれでいい。
「母が本当の母ではないと知ったのは、奉公に出される直前でした。……私を余所の家に預けようとする母の顔を見た時、きっと母はもう戻ってくるつもりはないのだろうと感じて、『私を捨てるのか』と――そう訊いてしまったんです。……あの時の母の顔は忘れられません」
この世の地獄を見たような顔だった、とゾーイは穏やかに語る。
「その時初めて知った事実に、ああ、私は母から距離を置かれていたのではない。憎まれていたのだと気がつきました。それで大人しく貴族家に仕えるようになり、今に至るわけですが……ある日、ルフィナ・トノーニを名乗る方に声を掛けられたんです」
「シュパン公爵家の?」
「ええ、そうです。彼女は、私に似た女性をよく知っていると言いました」
そう言いながら、ゾーイはリンをちらと見やった。そして、再び視線を下に落とす。
「……声を掛けられたのはいつ? どこで? まさかこの屋敷を訪ねて来たわけじゃないだろう?」
「いつだったか、正確にはちょっと……。旦那さまが仕事で留守にされることが多くなった直後ぐらいでしょうか。休日、彼女の付き添いだという方に街で呼び止められまして……」
ただ、相手はアディルセン語はほとんど理解していないようで、『エライヒト』『マッテル』『キテ』を片言に繰り返すばかりだった。
その出で立ちからしても、『エライヒト』という言葉からしても、背後にはきっとそれなりの立場の人間がいるのだろうと判断し、ゾーイは仕方なくついて行くことにしたと言う。
ついて行かなければ良かった、とも。
「そこで出会ったのがシュパン公爵令嬢ルフィナ・トノーニを名乗る女性です」
相手の為人もわからないうちに、馬鹿正直に素性を明かしたのかと、セレスタンは呆れてしまった。
他国とはいえ、王家の血を引く公爵令嬢。
相手が悪ければ、その場で傷付けられていた可能性もあるというのに。
「それで、彼女はなんと?」
「彼女は私の実母のことを持ち出し……出生届に虚偽があるのが国に知られたらまずいことになるのではないかと」
「……脅された?」
ゾーイが頷く。
「このことを暴露されたくなかったら、旦那さまとロズリーヌさまの手紙を破棄するようにと言われました。旦那さまが、婚約者との時間を満足に取れないほど忙しくなさっているのはご存知だったようで……。連絡手段を奪ってしまえばいつか仲違いするはずだと確信していらしたようです」
「……なるほど?」
「……それで婚約が解消されたら、旦那さまを自国――つまりヴェリアですけれど――に連れて帰るのだとおっしゃっていた記憶があります」
ということは、やはりセレスタンと婚約したいがための行動なのか。
そう思うも、あの事件のことがあるので、それもしっくりこない。ルフィナ・トノーニは自分を恨んでいるはずだ。なのに、今になって婚約したいだなどと、とても正気とは思えなかった。
そして、手紙の謎は明かされたが、セレスタンとリンが今最も知りたいのはロズリーヌの誘拐についてである。
「では、もう一つ訊きたいのだけど」
「……え、ええ」
「彼女はロズリーヌや私について、他に何か口にしていなかっただろうか?」
赤の他人に自身の計画を話す馬鹿はいないだろうが、初対面の人間に自分の身分を明かしてしまう正直者であるようなので、可能性はある。
「あ、そう言えば」
考える素振りを見せたあと、ゾーイが顔を上げた。
「何か思い出した?」
「あの、実は、先日ロズリーヌさまが国王陛下と親しくなさっているというのを知って。その時に、これ以上踏み込むのはやめたほうが身のためではないかとルフィナさまにお伝えしたんですが、ルフィナさまは『いざとなれば消すだけだから問題ない』と……」
「消す? ……一応訊くが、誰を?」
いっそう冷えたその瞳は、事実を把握しているようだったが、ゾーイは言いづらそうにしながらも言葉を紡ぐ。
「その……ロズリーヌさまです」
「ふうん」セレスタンの表情の変化を目の当たりにしてしまったゾーイは、目眩を覚えた。椅子から転げ落ちそうになって、慌てて肘置きにすがりつく。
「あの女がロズリーヌを排除しようとしたことはわかった。ちなみに、その方法については聞いている? 危険な思想を持っているというのを知ってしまった以上、それを防がなくてはならないからね」
すでに誘拐されている、とは言えない。
止むなく従ったという口振りだが、ゾーイもルフィナの協力者だったのだ。
慎重に訊ねると、再び考え込むように口を噤むゾーイ。一秒、二秒と時間が過ぎる。セレスタンは「早くしてくれ!」と心の中で叫んだ。
その時。
「あ!」
ゾーイが小さく声を上げた。
「方法までは存じ上げませんが、公爵家の伝手で汚れ仕事をしてくれる人間を知っているとか、なんとか……」
しかし、言ったあとにたいした情報ではないかもしれないと思い直したらしい。
すぐに怯えたような表情に戻り「申し訳ございません」と唇を震わせた。
(公爵家の伝手……)
なら、とセレスタンは立ち上がる。
ゾーイが慄くように肩を跳ねさせた。
「今すぐ城へ行く」
公爵家の伝手ということであれば、エジェオも知っているかもしれないと考えたのだ。
「君も一緒に来るんだ。犯した罪は償わなければならない。手紙を故意に破棄したことは伯爵家の問題だが、出生届の件については国の管轄だからね」
「……はい」
諦めたように、ゾーイは力の抜けた笑みをこぼす。
「――ああ、それから」
腰を上げかけたゾーイに、セレスタンは苦笑を向けた。
「虚偽の出生届を提出することは当然重い罪になるが、基本的に子に罪はないとするのがこの国の――ひいては陛下のお考えだ」
「……え?」
「ただし、もしそれに気がついた場合は速やかに申し出なければならない。それは年齢などにより多少考慮される部分でもあるけれど……貴族の家で問題なく働けていたというのなら、加担したうちの一人として考えられるだろうね」
ゾーイが息を呑む。
「つまり――君は、母親から事実を知らされた時点で国に申告していれば、ほんの少しも罪には問われなかったわけだ」
彼女も被害者だが、セレスタンやロズリーヌにとっては加害者も同然だった。
セレスタンが突きつけた事実に、ゾーイは不自然な格好のまま、しばらく呆然としていた。




