【040】黒
シュパン公爵――つまり、エジェオとルフィナの実父のことだ。
こんな偶然、あるだろうか。
いや、あったのだからあるのだ――と半ば強引に自分を納得させるのは容易いが。
「ただ、うまくはいっていないようだね」
リンが続ける。
「うまく……?」
「うん。そもそもボクが彼女のことを知っているのは、そこら辺の酒場で見かけたからなんだけど」
「そこら辺のって……」
「そこら辺のはそこら辺のだよ。仕事帰りのおじさんとかで賑わっている感じの」
本当に『そこら辺の』だった。
元は踊り子とはいえ、貴族社会に片足を突っ込んでいるような女性がなぜそんな場所に。
ロズリーヌは戸惑った。
「――『なぜそんな場所に』」
思考を言い当てられたようで、心臓が跳ねる。
「当たり?」
したり顔で、リンは口角を持ち上げた。
「……心の中を読まないでちょうだい」
「当たりだ。でも、まあ、そうだよねえ。彼女、酔って『自分はシュパン公爵の愛人だ』って喚いていたんだけど、まさか上級貴族の関係者がこんな場所にいるとは思わないから、ボクも最初は酔っ払いの戯言かと思ったもん」
それはそうだろう。
ロズリーヌは心の中で同意する。
貴族の末端のさらに末端――の下級貴族ならいざ知らず、上級貴族ともなれば、ひとりで外出することなどあり得ない。
いろんな意味で。
「護衛……いえ、監視はついていなかったの? あなたがこの話をするということは、つまり、彼女は本物のシュパン公爵の愛人だったわけでしょう?」
今の話の流れからすると、そのはずだ。
「それが、ついていなかったんだよねえ。たったの一人も。ぐだぐだに酔っ払って、初対面のおじさん相手にくだを巻いてたよ」
「……まあ」
ロズリーヌはなんと言っていいかわからず、とりあえず相槌を打った。
「それで『うまくいっていない』か」
今度はセレスタンが口を開く。
納得したように息を吐き出して。
同調するように、
「そうね」
ロズリーヌも頷いた。
「うまくいっているなら、一人で外出させたりしないはずだわ。堅苦しいのが嫌だと言われても、護衛の一人や二人つけるものよ。……本来は、うまくいっていなくたってつけるものなのだけど」
うまくいっていないときはうまくいっていないときで、扱いが難しかったりもする。
彼女のように、外でどんなことを叫ばれるかわかったものではないからだ。
その場合、護衛が監視という意味合いに変わる――はずだが、おそらく、彼女には、外に漏れて困る情報は教えていなかったのだろう。
もっとも、愛人だと叫ばれるだけでもだいぶ迷惑だと思うが。
「でも、なににしろ、シュパン公爵が人をつけなくて良しとするぐらい……彼女にはもう興味がなくなっているだろうということね」
「そういうこと」
よくできましたとでも言いたげに、リンは満足げに頷いた。
「それに、今は別の若い愛人に夢中なようだし?」
なるほど。
それが理由かと呆れてしまう。
上級貴族の男が愛人を持つことは――残念なことに――珍しくないが、愛人の一人も管理できないとは。
「それで? 今までの話から察するに、あなたはその女性が侍女長の実の母親なんじゃないかと言いたいのでしょう。でも、ただ似ているというだけなら、他人の空似ということもあるわ」
「確かなの?」ロズリーヌが訊ねる。
「確かだよ」リンは即座に答えた。
「なんでも話してくれちゃいそうな雰囲気だったからさあ、直接彼女に聞いたんだ」
「リン、あなた……」
なんて危ない橋を渡るのだと、ロズリーヌが咎めるような声を漏らす。
リンはそれを飄々とした顔で受け流し、続きを話した。
「そしたら、当時アディルセンでとある貴族の子を妊娠した彼女は、自分に育児は無理だと判断し、子どもを孤児院に預けようとしたと言っていた。だが、その前に父親から引き取りたいとの申し出があったため、多額の金銭と引き換えに渡したと」
「……自分の子を売ったということね」
「悪い言い方をすればね」
無論、その父親にとっても自分の子であることに変わりはないのだが。
でも、その代わりに金銭を受け取っているのだ。これは人身売買ではないか。
「その後、彼女は逃げるようにヴェリアに渡り、そしてその美貌を活かしてシュパン公爵の愛人に収まったということらしい」
「そう……。でもそれって、彼女の話ではそうなっているということでしょう?」
「ああ、うん。もちろん、その話を聞いたあと、ボク自身でこの国での彼女について調べてみたよ。君から話があったゾーイ・トレースについて深く関わっていると思ったし」
「黒?」
「黒だね。彼女がゾーイ・トレースの実の母親だ」
つまり、出生届の内容を偽って提出したということ。これが国に知られたら、とんでもない問題になるだろう。
主な罪は伯爵家の父母にあるはずだが、彼らはそろって行方を眩ましている。最悪の場合、侍女長に責任が問われることになるかもしれない。
気分の悪い話だ。
「――と、ボクにわかったのはここまで。どう?」
「ええ、十分よ。助かったわ」
ありがとうと感謝を伝えて、ロズリーヌは少しばかり考え込んだ。
婚約者同士の擦れ違いの原因になった、手紙の紛失。そこに侍女長の介入があったことを調べたかっただけなのだが、思いもよらぬ事実が出てきてしまった。まさか、血のつながった母親がシュパン公爵の関係者だったとは。
「……侍女長は、実母である彼女のことを知っているのかしら?」
国には改めて報告するとして、今は、ドロテのことも含め、ロズリーヌたちが抱えている問題について考える。
「知っていたら、あれだよね。ルフィナ・トノーニやエジェオ・トノーニと顔見知りだった可能性も出てくる。まあ、だからなんだという話ではあるけど」
まったく。
ロズリーヌは溜め息を吐いた。
なぜリンが留学生たちのことを知っているのかと。いちいち驚いていては身がもたないが、情報源はいったいどこなのかと気になるところではある。
(侍女長が手紙の紛失に噛んでいるかもしれなくて――でも、動機に覚えはない。今までの職務態度に問題があったわけでもない。そこに浮かんできた実母の存在。出生届の偽造。ルフィナさまやエジェオさまと顔見知りの可能性。シュパン公爵からあったという、セレスタンさまの婿入りの打診。母国にいるときとは態度を変えているらしいルフィナさまとドロテさま。……つながっているようでいて、全然わからないわ……)
悶々と考えるうち、ふと気がついた。
「セレスタンさま?」
自分の手を握り締めるセレスタンの手が、異様に冷たいことに。
「どうかなさ――え」
確認するように覗き込んだ婚約者の顔は、すっかり血の気を失って青ざめていた。
「酷い顔色だわ!」
珍しくロズリーヌは狼狽した。
よくよく見てみれば、額には汗が浮かんでいる。これは当然、暑さから来たものではないだろう。
「いや、大丈夫……」
「全然、まったく! 大丈夫そうには見えないわよ」
「ロズ――」
「リン。申し訳ないけれど、この話はまたあとでもいい? まだこちらにいられるのでしょう?」
「もちろん。せっかくだし、しばらくはここに滞在しようかなと思っているよ。二号とも積もる話があるし」
大人しくリンの肩に乗っていた鳩が「クルッ」と鳴いた。
鳩といったいどんな話を――いや、今はそれはいいのだ。婚約者のことが最優先である。
「リンダ、外の人たちを呼んできてちょうだい。休憩できる部屋に、セレスタンさまを連れて行ってもらいましょう。それから――」
リンダに指示を出しつつ、体調の悪さに耐えるように口元を強張らせる婚約者の背中を摩る。
セレスタンは繰り返し「大丈夫だ」と言ったが、ロズリーヌが嫌だった。必要のないところで、セレスタンに我慢を強いるのが。
留学生たちは謹慎させられているのだ。しばらくは何も起きないだろう。
そんな考えもあった。
結局、扉の外に控えていた男たちに、今にも倒れてしまいそうなセレスタンを運んでもらい、ロズリーヌたちはまた後日集まることにしたのだった。




