【004】侍女と父
アディルセン王国の第一王子エミール・イェルド・クリスティアン・オベールと、アレグリア侯爵令嬢ロズリーヌ・ジョゼット・ミオットの婚約が結ばれたのは、彼らがまだ幼い頃のことだった。
「お前が、僕の『こんやくしゃ』?」
そう話しかけられた日を、ロズリーヌは昨日のことのように思い出せる。
ギュッと寄せられた眉。
興奮から赤みの増した頬。
強く握り締められた拳。
そこにあるのは決して良い雰囲気ではなかったけれど、そんな第一王子を見て、なぜだかロズリーヌは安心した。
「はい、わたしが殿下の『こんやくしゃ』です!」
――ふと、目を開ける。
視界いっぱいに映るのは、見慣れた天井だ。まだ覚醒しきっていないのか、頭がぼんやりとする。
ロズリーヌは数度瞬きをして、それから窓の外に視線を投げ出した。
カーテンの隙間から見える空には、いまだ星が輝いている。中途半端な時間に目が覚めてしまったらしい。
「殿下……」
なんだか殿下の夢を見た気がするわ、とロズリーヌは思う。
意識していなかったが、やはり卒業パーティーでのことが負担になっていたのだろう。自分が思うよりもずっと疲れていたのかもしれない。
頭がはっきりしてくるのと共に、ロズリーヌは喉の渇きを覚えた。
ベッドから降り立ち、ナイトテーブルに置かれている水差しから、グラスにいくらかの水を注ぐ。こぽこぽ、という音が耳に心地良い。
ロズリーヌがグラスに口をつけると、冷たい感覚が喉を潤していった。ホッと息を吐き、ベッドに腰かけたまま宙を眺める。今日はもう眠れそうになかった。
「お嬢さま! 何をしていらっしゃるんです!?」
どれほどそうしていたのだろう。
専属侍女のリンダの声にハッとした時にはもう、外は明るくなっていた。
「あ……なんだか眠れなくて」
立ち上がりながら、苦笑気味にロズリーヌが言う。
「お嬢さま……」リンダは悲しげに眉を垂らした。しかし、すぐに気を取り直したように表情を引き締める。
「そういう時は呼んでくださいと申し上げているはずですが?」
「あら、それじゃあリンダが大変じゃない」
「大変だなんて! お嬢さまは、ただでさえ私にお仕事をくださらないんですから!」
「まあ、人聞きの悪い」
ロズリーヌはコロコロと鈴を転がすように笑ったが、それが空元気であることは、付き合いの長いリンダにはよくわかっていた。
それがまた痛々しい。
「お嬢さまに言われて水差しは用意しましたけどね、本当は喉が渇くたびに私を呼んでくださっていいんですよ。それが私のお仕事でもあるんですから」
「いちいちそんなことをしていたら、リンダが倒れてしまうわ」
リンダは一度廊下に出ると、すぐに朝食を載せたトレイを手に戻ってきた。
朝食の準備から着替え、入浴、外出時の付き添い、その他雑事――ロズリーヌに関することは、すべてリンダがひとりで担っている。それ以外の侍女をつけてもらえなかったからだ。
そんなこともあって、リンダは昔から、時に母のように、時に姉のようにロズリーヌの世話をしてきた。ロズリーヌにとっては、家族以上に欠かせない存在である。
「リンダはそんなことで倒れるほど、か弱くはございませんよ」
「……だとしても、万が一ということがあるでしょう」
ロズリーヌは、自分にとってリンダがどれほど大切な存在なのか、理解している。
リンダが最後にロズリーヌのそばを離れたのは随分と前のことだが、その時も、ロズリーヌは心細くてたまらなかった。見知らぬ場所で親に手を離されたような、そんな気持ちになったものだ。
「私の夢は、お嬢さまに看取っていただくことなんですから。ちょっとやそっとじゃ倒れません」
「そんな大袈裟な話はしていないのだけど……というか、看取るの? わたくしが?」
「ええ、それまではしがみついてでも、お嬢さまについていきますからね!」
「……あなた、結婚もせず……」
「あら、お嬢さま? お嬢さまこそ、結婚することだけが女の幸せだなんて思っているわけじゃないでしょう?」
「それはもちろん、そうだけど……」
「今まで結婚したいと思う方もいませんでしたし、貴族の娘としてはとうに行き遅れ。それに、実家の父も『お前は働くのが本当に好きだな』と笑っていたぐらいですから」
「……あなたのお父さま、わたくし、好きだわ」
リンダの持つ肩書きは、リッカルディ子爵令嬢リンダ・ラガルド。
彼女自身、一応貴族の娘ということになっている。
が、優しい彼女の親らしく、というべきか。リンダの両親はどこかのんびりとしていて、あまり貴族らしくない部分があるのだ。
初めてロズリーヌが対面した際も、「まあ、可愛らしい子ね!」とリンダの母に頭を撫でられた。当然、ロズリーヌは彼らの娘が仕える雇用主の令嬢なので、あり得ない態度ではあるのだが、ロズリーヌにとってはうれしい記憶となった。
ちなみに、家を継ぐことになっているリンダの弟も、両親同様、穏やかなタイプである。
「お嬢さまにそう言っていただけるなんて、父は泣いて喜ぶでしょうね」
リンダは「ああ、鬱陶しい」と言いながらも、可笑しそうに笑った。ロズリーヌも「それこそ大袈裟ね」と口元を緩める。
その時、ドアを叩く音が響いた。
二人は顔を見合わせ、同時に視線をそちらに走らせる。
この家の人間が、ロズリーヌのもとを訪れることは滅多にない。二十年近く生きてきた中で、両手の指に収まるほど言ってもよかった。
リンダはちらとロズリーヌの顔色を確認すると「とりあえず出ますね」と告げて、ドアを開けに向かう。断罪未遂劇からまだ二日。だが、このタイミングである。嫌な予感しかしない。
「旦那さまがお呼びです」
果たしてそこに立っていたのは、この家に長年勤めている家令の男だった。
老齢の男は、けれどもしゃんと背筋を伸ばして、リンダを冷めた目つきで見やると、すぐに踵を返して去って行った。主のもとへ戻るのだろう。
「……と、いうことのようです」
振り返ったリンダが、表情に翳を落として言う。
ロズリーヌは表情を変えぬまま、肩を竦めた。
「行くしかないようね」
重たい足を引きずるようにして、ロズリーヌが父のもとへ向かうと。
「お前の嫁ぎ先が決まった」
侯爵家の当主である父は、娘の姿に一瞥すらくれず、開口一番そう宣った。
「……嫁ぎ先?」
突然の話に、思わず訊き返す。
「バルテル男爵が、お前を引き取りたいと申し出てくれた。王族からの婚約破棄などという醜聞があっても構わないと」
書類を眺めながら、ほとんど片手間にそう説明する父の顔を、ロズリーヌは呆然と眺めた。
――バルテル男爵。
直接の面識はないが、妃教育で必死に貴族の名前を覚えたので、簡単な情報だけなら頭に入っている。
(確か、わたくしの祖父でも可笑しくないぐらいのお年だったはず……商人で、一代で成り上がったその手腕は確かなようだけれど、愛人が何人もいると……)
嫌だ、と思った。
いや、それ以前に、この話は可笑しい。
政略結婚であれ、恋愛結婚であれ、貴族同士の婚姻というものは契約である。なので、通常、どんなに急いだとしても、たった数日で婚約が結ばれるなどということはない。
大体は、互いの利益が最大になるよう、何度も話し合いを重ねてからサインをすることになる。
(それなのに、こんなに早く話が纏まるということは、殿下とわたくしが不仲であるという噂を耳にして、こういう可能性があったときにはと話し合っていたのでしょうね)
娘と金を交換するつもりか――と言えたなら、貴族令嬢としての矜持もまだ保たれたかもしれないが。
(嫌がらせだわ、これ)
現在、侯爵家が資金繰りに困っているというようなことはないので、おそらく普通に嫌がらせなのだろうとロズリーヌは察した。
昔から娘のことを嫌っているこの父は、とにかくロズリーヌを苦しめたくて仕方がないのだ。
(子どもの頃は、それでも好かれようと頑張ってみたりしたけれど)
唇の端を強張らせたロズリーヌは、一度目を閉じ、緊張を逃がすように息を吐き出してから、口を開いた。
ごめんなさい、と頭の中に謝罪の言葉を思い浮かべながら。
「お父さま、その縁談はお受けしないほうがよろしいかと思いますわ」
そこでようやく、父の視線が持ち上がる。
自分によく似た――正確には、ロズリーヌのほうが似ているのだが――瞳が、不愉快そうに細められた。だが、ここで怯むロズリーヌではない。
勝算はあった。
「セレスタンさま……ああ、アンドレアン伯爵に求婚されております」
「……なに?」
父は決して有能ではないが、とりわけ無能というわけでもないので、それが次期公爵を指していることに気がついたはずだ。
しかし、そのように都合が良いことが起こるわけがない。嘘を吐いているのではないか――。
そんな疑念がありありとわかる表情で、父はロズリーヌを舐め回すように見た。
(嫌だわ、気持ち悪い)
普段、顔を合わせることすらほとんどない娘が、心の中で終始悪態をついていると知ったら、この男はきっと唾を飛ばして怒鳴り散らすだろうと想像しながら、ロズリーヌは薄く笑みを浮かべた。
「彼とは、もう数年の付き合いになります。今までは当然、適切な距離を保ってきましたけれど、昨日、王宮で偶然お会いした際にそのようなお話を」
そこまで説明し、ロズリーヌは口を噤んだ。
その場が沈黙に支配される。
やけに大きく響く時計の針の音に耳を澄ませていると、やがて父がわずかに身じろいだ。
「……なるほど」
――来た。
「それは、改めて話し合いの場を設けなければならないようだな」
父は、娘を憎むように嫌っている。だが、ロズリーヌはそんな父の姿をずっと見てきた。
この男の娘を苦しめたいという、他人には理解しがたい執着心は相当なものだが、それ以上に、野心家で、承認欲求が強い人間なのだ。
どちらに天秤が傾くかは、わかりきったことだった。
なにしろ、次期公爵とつながりを持つことに比べたら、娘を苦しめる機会を作り出すことのほうが、いかにも次の機会がありそうなので。
「残念だが、バルテル男爵には断りの連絡を入れておこう」
父の決断に、ロズリーヌは無感情な笑みを浮かべたまま、小さく頷いた。
(というか、殿下に婚約破棄をされたと言ったのに、やけに静かだと思ったら……バルテル男爵のことがあったからなのね)
なぜこの根回しを、仕事に応用できないのかしら? と思いながら。