【037】この男
――翌日。
婚約者の訪れと共に目の前に現れた人物を見て、ロズリーヌは「ええ?」と困惑の声を上げた。
「リン……?」
視界の端に映るリンダの顔が、すごいことになっている。なぜここに、とも言いたげだ。
「……まさかあなたが、正攻法でここに来るなんて」
「え、そこ?」
ふにゃりと笑うその人は、自称商人であるリン――その名しか知らない彼だった。
それすら、本名なのかもわからない。
リンの肩に乗っている一号が「クルッ」と鳴いた。
「一号まで連れて来たの?」
「一号? ああ、これは二号だよ。一号は少し前に亡くなった。鳩にしては随分長生きだったけどね」
「え、あら……そうなの。もう一度、会っておけば良かったわ」
「まあ、ボクも最期は看取れなかったから」
「でも、それが新しい子だというのなら納得。この前会いに行った時、以前より警戒されているわと思ったの。しばらく顔を見せていなかったせいだと思っていたのだけど、一号ではなかったのね」
「一号は君の顔を忘れたりしないよ」
「――リン殿」
リンとロズリーヌが穏やかに会話を続けていると、セレスタンが硬い声で割って入った。
いや、その存在を忘れていたわけではない。
断じて。
ついでに言うなら、ギリギリと拳を握り締めるリンダの姿もしっかり見えている。
「リン殿は、私の愛する婚約者と会うのは久しぶりだと言っていたと思うが?」
「二年ほど前だね。ボクの愛しい娘に会ったのは」
「リン、良くない癖が出ているわよ」
セレスタンの顔がおっかないことになったので、慌てて止めに入るロズリーヌ。まったく、と思わず溜め息を吐いた。
この男、気に入った相手をついからかってしまう癖があるのだ。――おかげで、セレスタンのことを気に入っているらしいことはわかったが。
「……セレスタンさまがおっしゃっていたのって、リンのこと?」
「うん?」
「ほら、昨日、帰り際に『会わせたい人がいる』って……」
「ああ、そうだよ。リン殿がロズリーヌに呼ばれたって言うから」
「……呼ばれた」
正確には、呼び寄せたわけではない。情報を伝える手段をあえて指示しなかっただけで。
リン自身が、直接伝えたほうが良いと判断したということなのだろうが、セレスタンに事実と異なることを言ったのは、完全にからかいである。
「わたくし、呼んではいないわ」
ツンと唇を尖らせると、セレスタンは安堵の入り混じった複雑そうな表情を浮かべた。
そして、再び口を開く。
「それで? 二年前に会ったのが最後だというリン殿は、私の婚約者と随分親しいようだね」
おおよそ数年ぶりに会ったとは思えない気安い態度を取る二人に、違和感を覚えたのだろう。セレスタンはリンに刺々しい声を向けた。
珍しいその様子に、おや、と思いながらも、ロズリーヌが言う。
「まあ、リンは神出鬼没だから。二年というのはさすがに長いけれど、しばらく顔を合わせないことは珍しくないのよね」
「ボクは行きたいところに行き、会いたい人に会うようにしているからねえ」
「でも、セレスタンさまのほうこそ、なぜリンと一緒に?」
「ああ、それは」
ロズリーヌの疑問に、セレスタンは答えた。
辺境から王都へ向かう途中、辺境伯から貸し出してもらった馬車の車輪がぬかるみに嵌まってしまった。前日に雨が降っていたらしい。
御者と護衛と共に困っていたところ、そこに通りかかったのが商人の一団。気の良い彼らに王都まで同行しないかと訊ねられた。
気軽に馬車を置いてはいけないが、セレスタンとしてはできるだけ先を急ぎたかったので、御者と一名の護衛をそこに残し、セレスタンたちは王都に向かうことにした。
その中に、リンの姿もあったという。
「……あなた、お友達がいたの?」
思わず訊いてしまったロズリーヌに、リンは細い目をさらに細めて笑った。
「ボク、これでも人気者だからね。でも、まあ、彼らに関してはお友達じゃなくて、顔見知りという程度かな。行く方向が同じだったから、ボクも同行させてもらっていただけ」
それで、行動を共にするうちに、セレスタンはリンからロズリーヌのことを聞かされる。
突然、自分の婚約者の話を持ち出されたものだから、大いに戸惑ったとセレスタンは語った。
「まず、警戒するだろう? 私の婚約者という以外にも、君は上級貴族のご令嬢で、王族の婚約者だった女性なんだから。この男は何者なのかって。一度も見たことのない顔だったし」
「……リン、あなたまた、警戒させるような物言いをしたんでしょう」
「え? そんなことないよ? 『君の愛するロズリーヌのことだけど』って切り出したら、なんだか凄まれてしまったけど」
ロズリーヌは、そういうところよ、と言いたい気持ちを抑え、代わりに深く息を吐き出した。
「結局、王都に到着するまで信用に足る人物なのかわからなくて。リン殿は王宮にいるロズリーヌに会いに来たと言っていたけど、そんな怪しい人物を招き入れるわけにもいかないと、とりあえず王都で待機してもらうことにして――」
「ええ、当然ね。リンってば、見た目もなんだか怪しいもの」
「――いたら、こっそり城までついてきた」
「……リン!」
「いや、でも、門の前でバレてすごく叱られたよ。すごいよね。馬車の中から見えた一瞬の景色の中から、たった数日行動を共にしただけのボクの姿を見つけて、飛んできたんだもん」
何をしているのだ、この男は。
ロズリーヌの白けた視線にも気がついているだろうに、セレスタンはおかしそうに肩を震わせる。
(リンダの心の中が手に取るようにわかるわ……)
この侍女は、主人がからかわれることを良く思っていない。
きっと怒り狂っていることだろう。
「そこで揉めていたら、なんていうか、少し目立ってしまったというか……私の顔は割れているから、その光景を見た警備の者が、おそらくアーロン殿下に判断を仰いだのだろうね。しばらくの後、殿下の使いがやって来て、『城に入れても良い』と」
「アーロン殿下が……?」
「ああ。殿下はリン殿のことを知っておられるようだったけど……違った?」
「……いえ、わたくしが紹介したことはございませんけれど。リン?」
神出鬼没で、気の向くままに行動するリンのことは、付き合いの長いロズリーヌでもいまだにわからないことだらけだ。
エミールとロズリーヌだけでなく、アーロンにも声を掛けていたとしても不思議ではない。不思議ではないのだが――。
「ううん? 直接話したことはないねえ。でも、たぶん、アーロン殿下はボクのこと知ってはいるんじゃないかな。君といた時、よく視線を感じたから。彼からのものだったと思う」
リンが言うのなら、そうなのだろう。
人をからかったり、平気で嘘を吐いたりすることもあるリンだが、そういうのは顔を見ればだいたい察することができる。
無論、その察しが外れることもあるけれど。
「……見ていらしたのね」
呟いてから、ロズリーヌは小難しげな表情を浮かべた。――リンの身元は定かではない。今さら調べるつもりもなかった。
幼い頃のロズリーヌたちが、直感的に『味方だ』と思っただけで、本来、城に招き入れていいような人物ではないのだ。
しかし、アーロンが知っているとなると、知っていて見逃したことになる。
彼は彼で、何を考えているかわからない。
「とりあえず、リンとセレスタンさまが知り合った経緯は理解したわ。……リン、あなた、セレスタンさまと鉢合わせたのは偶然?」
「……さすがのボクでも、誰かの馬車の車輪がぬかるみに嵌まるなんて予測できないねえ」
だって、リンだから。
なんでも意のままにしてしまいそうな気がするのだ。なにしろ、誰の許しがなくとも、頑丈に守られた城に易々と入り込んでくるような人物なのだから。
「……まあ、いいわ」
偶然でも故意でも。
セレスタンがリンをここまで案内してきてくれたことに変わりはない。
「早速、本題に入ってもらえる?」
リンが直接会いに来たということは、答えを持っているということだろう。
「アンドレアン伯爵邸の侍女長について」
重々しい口調でロズリーヌが切り出すと、セレスタンが息を呑んだ。




