【036】シュパン公爵の愚か
ロズリーヌは心の中で顔を顰めた。
ついに王族に頭を下げさせてしまった。一貴族令嬢としては、とんでもないことである。
おそらく非公式扱いで、記録はされないのだろうが、それでもやはりとんでもない。
「頭を……お上げください」
躊躇いがちにそう声を掛けると、アーロンは深く息を吐き出して、静かに顔を上げた。
だが、謝罪は続く。
「必要なことを伝えなかったばかりに、あなたにしなくていい怪我をさせてしまった。しかし、それだけじゃない」
「……え」
「セレスタンを辺境に送るよう指示を出したのも、陛下だ。それで俺が手配した」
「……それは……」
なんと言っていいかわからず、ロズリーヌは婚約者を見た。
セレスタンは相変わらず険しい表情を浮かべている。ロズリーヌは再び視線を戻した。
「確かに、辺境は大事な地ですが、なぜセレスタンさまがとは……」
普段、彼のやっていることをすべて把握しているわけではないが、辺境地の事故となると、さすがに管轄外なのではないかとロズリーヌは感じていた。
「だよなあ」とアーロンが口元を歪める。
「あれは、まあ、一時的にセレスタンを逃がしたかったというのがひとつ。それから、ここにいてもらうと、我々にも多少都合が悪かったというのもある。辺境ができるだけ多くの人手を欲していたのも事実だが」
本来、それがセレスタンである必要はなかったと。なら、なぜ――。
「実は、シュパン公爵がちょっかいをかけてきた」
口を噤んだまま次の言葉を待つロズリーヌに、アーロンは躊躇いがちにそう言った。
「……ちょっかい」
ロズリーヌが短く繰り返す。
口を挟まないのを見るに、セレスタンも先日、聞かされていたのだろう。
「ああ。セレスタンを婿に寄越せと」
「婿にということは、ルフィナさまの?」
「そういうことになるな」
少し調べれば、セレスタンに婚約者がいることはわかっただろうに。
その労力さえ惜しんだのか、単にいてもかまわないと気にしなかっただけなのか。どちらにしても愚かなことに違いはないが、婚約者としては、ただ不快である。
「ルフィナさまは、ご存知だったのでしょうか」
ロズリーヌの疑問に、いや、とアーロンは曖昧な表情を浮かべた。
「本人に訊ねたところ、知らないと言っていた。だが、彼女には母国での評判もあるし、本人の言葉だけを無条件で信じるわけにはいかない。そのあたりも、もう少し詳しく調べてみるつもりでいるよ」
「調べる……。あの、例えばルフィナさまがそのことをご存知だとしても、特に問題はないかと思うのですが」
「問題があるかないかわからないから調べるんだ。そもそも俺は、彼女が大人しくしているのに違和感を覚えている」
「それは、他国だからでは」
「そういう考えもあるな。母国では、対シュパン卿以外には大人しく振る舞っているのに、我が国ではとんでもない我儘をやらかしてくれたご令嬢もいることだし」
十中八九、ドロテのことだろう。
ヴェリアでは大人しく振る舞っていたのに、アディルセンに来た途端、酷く我儘になったドロテと。
ヴェリアでは酷く我儘だったらしいのに、アディルセンに来た途端、大人しく振る舞い始めたルフィナ。
「とにかく、シュパン公爵を含めた使節団の彼らは、君とはまた違った意味で行動が予測できない。当然、セレスタンに婿入りの話を持ってくることも、こちらとしては想定外だった。だから、これ以上の『想定外』を繰り返される前に、セレスタンを一時的に遠くに逃がしたというわけだ」
なるほどと、ロズリーヌは理解する。
王太子直々に謝罪を繰り返すことからもわかるように、きっと、この件で怪我人を出すことまでは想定していなかったのだろう。
国王は自信家なところがある。
だから、自分が治める国でなら、ある程度のことは支配できると思っていたのに違いない。
しかし、それはそれなりに考えて動く相手だったらの場合だ。
他国で、婚約者のいる男を根回しもせず堂々と婿に求める人間が、考えて動いていたとは思えない。
程度が低すぎて、次に何をしでかすか、国王にも予測できなかったのだろう。
それで、公爵家の人間――しかも、本人も伯爵位を持っている――に手を出される前に、一時的に避難させることにしたのだ。
あの国王でも、国内に大きな影響力を持つ公爵家を敵に回すのは避けたかったはずである。
「とはいえ、そこに君を苦しめる意図はなかった」
「……わたくしを?」
「セレスタンがいれば、学院で苦労している君の精神的支えになっただろう。だが、意図したことでないとしても、結果的に、君の支えを取り上げる形になってしまった。――申し訳ない」
「あの、いえ、そのことは気にしておりませんので……セレスタンさまも、こうして無事にお戻りになりましたし」
事実だった。
その件に関して、ロズリーヌは怒っていない。
傷付いてもいない。
自信家だから失敗するというのは、ロズリーヌにも身に覚えがあることだったので。
いや、そもそも、計画自体は成功しているのだ。失敗ですらない。
それを、アーロンや国王の気持ちひとつで王族が頭を下げたのだから、やはりこの男は善良な人間なのだろう。ロズリーヌは複雑な気持ちになった。
「……殿下、そろそろよろしいでしょうか」
不意にセレスタンが声を上げた。
指先が持ち上げられ、ロズリーヌの額に伸ばされる。親指でそこを撫でられた時、ロズリーヌは初めて、自分が汗を掻いていたことに気がついた。
そういえば、酷く体が重たいような気もする。何日も眠っていたというのだから当然だが。
(わたくしより、わたくしのことを見ているのね)
不思議な心地になりながらも、ロズリーヌは小さく微笑んだ。誰かに気にかけてもらうのは、そう悪いものでもないのだと。
「そうだな、すまない」
アーロンのほうも、話が終わり次第、退室するつもりだったのだろう。
目覚めたばかりで、ロズリーヌの体調が万全でないのは誰の目に見ても明らかだった。
アーロンはもう一度謝罪をすると、速やかに部屋を後にした。扉の外に待機していたらしい護衛が、彼に付き従って遠ざかって行く足音も聞こえる。
それに伴い、妙な圧迫感も消えた気がして、ロズリーヌはホッと息を吐き出した。
「……私も、今日は帰るよ」
ロズリーヌの手を、一際強く握り締めたセレスタンが言う。
「え?」
思わず、名残惜しく感じた気持ちが声になってしまった。
今までこんなことはなかったのにと気恥ずかしい気持ちで、ロズリーヌはうっすらと頬を染める。
「寂しいと思ってくれている?」
「それは、あの、もちろん」
セレスタンがとろりと目を細めた。
「うれしいな。でも、君はきっと、自分が思っている以上に疲れていると思う。だから今日のところは一度帰って、また明日来ようと思うのだけど……いいだろうか?」
「来てくださるの?」
返したその声は甘えるようなもので。
しかし、自身の声の変化に、ロズリーヌ本人は気がつかない。セレスタンは一層のこと頬を緩めると、ほんの一瞬だけロズリーヌの体を抱き締めた。
「あ……」
基本的に、セレスタンは過剰な触れ合いを避ける傾向にある。あるとすれば、手を握ることぐらいだが――。
婚約者なのだから、さすがにこれぐらいは大丈夫だろうとロズリーヌが感じることでも、セレスタンは困ったような顔をしてスッと引くのだ。
それをどこか寂しく感じていた自分に、ロズリーヌはこの時初めて気がついた。
「今日はゆっくり休んで」
だが、それを口にする前に、セレスタンは立ち上がった。
もう帰る姿勢になっている。
「ああ、そうだ。明日は会わせたい人がいる。だから、少しでも体調が悪ければ言ってほしいな」
「リンダ」セレスタンは、終始部屋の隅に控えていた侍女に声を掛けた。
この侍女も、ロズリーヌ以上にロズリーヌのことを理解しているうちのひとりだ。
「ええ、お任せください」
リンダは胸を張って答えた。
「じゃあ、また明日」とセレスタンが足早に去って行く。ぼんやりする頭の中、その背中を見送って。
(――え、会わせたい人?)
どなた? と思いながら、ロズリーヌは再びベッドに沈み込むのだった。