【032】目覚めと再会
――ふっと意識が浮上した。
「う、ん……」
薄い唇から、意図しない声がこぼれ落ちる。
頭につきんとした痛みが走って、ロズリーヌは思わず眉根を寄せた。
(あれ、わたくし……?)
目に映るのは見慣れない天井。
視線だけで辺りを見回してみると、アンドレアン伯爵邸で宛がわれた自身のそれに比べると、随分と質素な部屋にいることがわかった。
(……ユーフェミアと学院にいて……ああ、そうよ。あの手紙の話をエジェオさまが……)
それから。
それから――。
「……お嬢さま?」
不意に足元で声が聞こえた。
視線だけでその声を辿ると、開け放たれた扉の前にリンダが立っていた。
背後から差した光が、リンダの表情を隠している。
「お嬢さま!」
視線の動きで、ロズリーヌが目を覚ましていることを確信したのか、リンダが見たこともないような勢いで飛びついてきた。
「リンダ」ロズリーヌが掠れた声で侍女の名を呼ぶ。
「ああ、ああ、神さま、感謝いたします。お嬢さまを私たちのもとに戻してくださって――」
ロズリーヌの手を握るリンダの瞳には、涙が浮かんでいた。
(あら、まあ。リンダってば……あまり信心深いほうではなかったような気がするけれど)
長い付き合いの彼女が神に祈ったらしいということに不思議な心地を覚えながら、ロズリーヌは体を起こそうとする。
が、思うように力が入らず、目を瞬かせた。
なんだかずっと眠っていたように、体が怠くて重い。それにやはり頭が鈍い痛みを訴えかけてくる――と、そこまで考えて、ロズリーヌは自分に起きたことを思い出した。
「……わたくし、階段から落ちて……?」
小さく呟くと、リンダが「ええ」と頷く。
「お嬢さまが事故に遭ったと、王宮から連絡が入った時は息が止まるかと思いましたよ」
「……王宮から?」
「そのお話はあとで詳しく説明していただけると思いますが、お嬢さまは今、王宮で保護されているという形になっています」
「保護……」
何がなんだかわからない。
階段から落ちたという事故で、保護。
ぼんやりした頭で考えようとしたが、失敗に終わった。駄目だ。うまく頭が働かない。階段から落ちた際に、頭を打ったのかもしれない。
「とりあえず、お嬢さまの目が覚めたことを伝えてまいりますね」
「え……」
止める間もなく、リンダが颯爽と歩き去って行く。――喉が渇いたのだけど。
だが、そんな欲求はすぐ消え去った。
「ロズリーヌ!」
そう間を置かずして、婚約者が現れたからだ。
「セレスタン、さま……?」
もう随分と顔を見ていなかったような気がする。ああ、何か言わなくては。そう思うも、言葉が出てこない。
「久しぶり」はなんだかおかしい気がするし、「なぜここに」も違う気がする。
ただ、ふっと肩から力が抜けたのを感じた。
「ロズリーヌ、私は――」
「おい、感動の再会はあとでやってくれ。その前にロズリーヌ嬢を侍医に診てもらうのが先だ」
「では、私も」
「診察中に男がいていいわけないだろう」
その背後から顔を覗かせたのは、王太子アーロン。そのさらに後ろには、ふくよかな男性が立っている。――侍医だ。エミールの婚約者だった時代に、何度か言葉を交わしたことがある。
セレスタンは、名残惜しそうにしながらも、アーロンに腕を引かれて部屋を後にした。
(侍医……殿下が手配してくださったのだわ)
その後、診察は速やかに終了し、リンダがセレスタンとアーロンを呼び戻して来る。
「殿下、このようなところから申し訳ございません」
少し目眩がしているのと、侍医から安静を申しつけられたこともあり、ロズリーヌはベッドに入ったままの挨拶となった。
「いや、いい。そのままで」
アーロンが苦笑気味に頷く。その瞳には、わずかな安堵の色が滲んでいた。
「セレス――」
「良かった……」
セレスタンが、ロズリーヌの視線に合わせるように跪く。
「命に別状はないと聞いてはいたけど、一向に目覚める気配がないから……」
こちらを見つめるヘーゼル色の双眸に、薄く水の膜が張っているような気がして、ロズリーヌは申し訳ない気持ちになった。
――聞くところによると、どうやら自分は五日ほども眠っていたらしいのだ。
体力も落ちているだろうとのことだった。なので、少しずつ様子を見ながら体を動かしていくべきだと。
「五日も眠っていたと聞いたわ。心配させてしまって、ごめんなさい」
「君が謝ることなんてひとつもないよ。私が勝手に心配して、勝手に不安になっていただけだから。君を失う可能性を考えたら、すべてを滅ぼしたくなった」
「まあ、滅多なことを言うものではないわ」
セレスタンの言葉を冗談として受け取ったロズリーヌが肩を震わせると、アーロンはげっそりした顔で「半分本気だぞ、こいつは」とぼやいた。
辺境から帰ってきて以来、何度「全部消してしまいたい」という呟きを聞いたことか。
「それで、殿下。なぜわたくしがこちらに運ばれたのか、ご説明いただいてもよろしいでしょうか。侍医からは、体調のこと以外何も伺っていなくて」
再び、アーロンが頷いた。
「まず、君が学院の階段から転落したことについてだが――」
そこで聞かされた事実に、ロズリーヌは息を呑む。
ロズリーヌが階段から落ちたのは単なる事故ではなかったこと。ドロテ・ランバルドがロズリーヌの背中を強く押した結果であること。それは人目がある場所で行われたということ。
今、ドロテ・ランバルドは貴族法のもと拘束されているらしい。ヴェリア国王と連絡をつけているところなのだとか。
「ドロテさまが……。いえ、ドロテさまはお認めになっているのでしょうか?」
「ああ。まあ、認めるというか、認めざるを得なかったのだろう。犯行現場を多数の人間に目撃されているしな。それが我が国の人間だけなら悪足掻きぐらいしようとしたかもしれないが、シュパン卿も目撃者のひとりとして声を上げている」
「……エジェオさまが?」
そう言えば、とロズリーヌは思い出す。
(足を踏み外した時、誰かに呼ばれたような気がした。あれはエジェオさまだったのね)
しかし、ドロテ・ランバルド。
過激な女性だと思ってはいたものの、まさかこのような暴力に訴え出るとは。
打ち所が悪ければ、ロズリーヌは命を失っていた可能性さえあるのだ。そうなれば、表面上対等に付き合っているヴェリアとアディルセンの関係にひびが入ることは間違いない。
むしろそれが目的だと言われたほうが納得できるが、彼女は外交的な問題に興味はないだろう。
「それから」
言いながら、アーロンが一枚の紙切れを差し出してくる。
見覚えのあるそれに、ロズリーヌは息を呑んだ。
「これ……」
「シュパン卿から預かった。勝手に申し訳ないとは思ったが、シュパン卿のほうから『調べてほしい』と」
咄嗟に、婚約者の顔に視線を走らせる。
いつの間にか伏せられていた視線から、読み取れるものはなかった。
アーロンのほうに顔を戻す。
視線が合うのを待って、アーロンは再び話し始めた。
「これもドロテ嬢が作成したものだった」
「……そんな、まさか」
「まず、動機からだが、彼女はどうやらシュパン卿に強く想いを寄せていたらしい」
『強く』という部分に不穏なものを感じながらも、ロズリーヌは「なるほど」と納得した。
「驚いていないようだな」
「あ、いえ、十分驚いてはおりますけれど。それよりも納得したと言いますか」
「納得した?」
「ええ。彼女、エジェオさまのことを『エジェオ』と名で呼んでおりますから。友人とも『親しい関係なのかしら』と話しておりましたの」
「そうか……。いや、実は、彼女の家がシュパン卿の家に婚約を申し入れたことがあったらしい。結局その話はなくなったようだが、そのあとも執拗にシュパン卿を追いかけ回していたようだな」
「まあ」
ロズリーヌは今度こそ驚きの声を上げた。
何かしらの関係はあるのだろうと察してはいたものの、まさかそのようなことだったとは。学院ではあまりエジェオに近付いていないようだったから、わからなかった。
「だが、シュパン卿にはその気がない。それどころか避けられている。焦っていたところに、シュパン卿が親しげに話し掛ける君が現れたというわけだ」
「わたくし……でございますか?」
ロズリーヌが訝しげに訊き返す。
確かに、他の留学生たちに比べると親しくていたかもしれない。だが、それは、学院の人間を巻き込む問題を起こさないのが、彼だけだったからだ。
婚約者がいる身として、男女の距離感を見誤ったりはしていない。
「それで嫉妬に火がついたらしい」
「嫉妬に火が……」
「ああ。脅迫めいた手紙を送れば、もしかしたら君が学院に来なくなるか――最低でも、留学生の案内役から外れるかになると考えたと」
「でも、その予想に反して、わたくしは平然と過ごしていた……」
彼女の言い分としては、とにかくロズリーヌをエジェオの周りから排除したかったと。
そういうことだろう。
「理不尽なことに、彼女はそれにも腹を立てていたようだな。そんな時、再びシュパン卿と君が親しげに話しているのを見て、我慢できずつい手が出てしまったと告白した」
なんて稚拙で、計画性のない。
ロズリーヌは呆れた心地で、細く息を吐き出した。
※何話かストックしたものがあるので、しばらくの間は少しだけ更新ペースを上げます(書くスピードが遅くて申し訳ない……)。おそらく2~3日に一回のペースになると思います。




