【031】夢の中
(ああ、夢だわ)
自分の横を擦り抜けて行った小さい背中を見つめて、ロズリーヌはぼんやりとそんなことを思った。
そこにいるのは幼い頃の自分。
質素なドレスの裾を手でたくし上げ、倒れている婚約者――エミールに駆け寄って行く。
「でんか!」
今のヨエルと同じか、それよりも少し幼いかぐらいの自分が、苦しそうに顔を歪めるエミールに覆い被さった。
「――やめて!」
覚えている。
この時の記憶は忘れられない。
成長したロズリーヌが、幼い二人の目の前に佇む男に視線を向けた。彼はエミールの教育係だ。腕を宙に掲げ、今にも振り下ろそうとしている。
相手は幼い子どもだと言うのに、彼にはほんの少しの躊躇いもなかった。
握り締められた拳が、ロズリーヌの背中に襲いかかる。
「だめだ!」
あまりの痛みに、ロズリーヌは呼吸を止めた。
同時に、エミールが叫ぶ。
二人は互いを庇うようにきつく抱き締め合った。そうすれば痛みが半分になる、とでも言うように。
「でんか、でんか……!」
男が立ち去ったのは、それからしばらくしてのことで――子ども二人を痛めつけ、満足したのだろう――自分より明らかに酷い状態であるエミールに、ロズリーヌは縋りついた。
エミールは緩慢な動作でごろりと仰向けになり、苦笑を浮かべる。
しかし、口元の傷に障ったのだろう。次の瞬間には僅かに唇を歪める。
それでも、ロズリーヌへと向ける視線は穏やかで優しい。
「大丈夫だよ」
「でも!」
再び、ロズリーヌが悲鳴のような声を上げた。
自分自身、家族に蔑ろにされてきた自覚はあるものの、大の大人が子どもに対して暴力を振るっているのを初めて見たのだ。
心の底から慄いた。
どうにかしてロズリーヌを苦しめてやろうと言う実父ですら暴力に頼ることはなかったというのに、あの男は。
「大丈夫、大丈夫……」
エミールは取り乱すロズリーヌを宥めるように、震える背中を撫でた。
(この続きは――見たくない……)
今のロズリーヌが、幼い二人からそっと視線を外す。これは夢なのだと頭の中で強く念じたが、自力で抜け出すことは叶わなかった。
「へ、へいかに」
婚約者に縋りつくようにしていたロズリーヌが、ようやく上体を起こす。
衝撃のあまり体に力が入らなくなったのか、ふらつきながら立ち上がろうとするその様子を見て――「待って」エミールが力なく引き留めた。
「陛下に言っても……むだだと思う」
「え?」
ロズリーヌがそのまま立ち尽くす。
すっかり顔が青ざめていた。
「あいつ、王妃の知り合いだから」
「おうひさまの……」
「教育係を選ぶのは、王妃の仕事なんだって」
痛いな、とロズリーヌは思った。
妃教育のため、王子宮に通い始めてすぐに気がついた。エミールは王妃に嫌われている。
当然だ。王妃にも息子がいて、その息子を王座に就けたいのだから。立場的にも、自分は他国の王室出身、エミールの実母は子爵家出身――。それでエミールに負けることなど考えられないだろう。
なら、実母のほうはどうかと言うと。
エミールにはほとんど興味を示さなかった。彼女は自身がいかに美しくいられるかにしか興味がなく、エミールの婚約者のロズリーヌでさえ、ほとんど言葉を交わしたことがない。
「でも、言ってみるだけ。こんなにひどいの、もしかしたら助けてくれるかも……」
ロズリーヌが細い声で提案する。
エミールは首を振った。
「むだだよ」
随分と頑なな態度。
――言っても無駄だから。
エミールはそう言いながら、諦めていた。自分を助けてくれる者などいないのだと。
生まれてからずっと肩身の狭い思いをしてきて、父である国王に使用人を変えてほしいと頼んだこともあるけれど、駄目だった。それ以前に、王妃の邪魔が入り、なかなか謁見の機会にも恵まれない。
使用人の変更が認められないのも、側妃の管理は王妃の仕事のうちのひとつで、王妃の出身国との関係を悪くする可能性を少しでも排除したいからだろう。だからエミールに我慢しろと言うのだ。
暴力となれば、流石に止めてくれるかもしれないが――でも、また駄目だったら?
そのとき受けるであろう心の痛みを考えると、諦めたほうが楽であるように感じた。
「全部、むだだ……」
自分に言い聞かせるように、エミールがもう一度言う。
その時、口元を戦慄かせたロズリーヌが、真っ直ぐにエミールを見た。
「わたしが」
灰色が溶けたような深い緑色の瞳に、強い決意のようなものが映る。体中に痛みを感じながらも、エミールはそれに見蕩れた。
「わたしが、でんかを守るわ」
自分にはなんの力もない。
幼い頃のロズリーヌにも、それはわかっていた。
先ほどの男のような人間が現れても、覆い被さることぐらいしかできないだろう。王妃からの嫌がらせだって、ロズリーヌができるのはせいぜい一緒に耐えることぐらいだ。
けれど、今この瞬間に芽生えた、婚約者を守りたいという気持ちは本物だった。
立て続けに殴られた背中の痛みさえ、どうでもいいと思えるほどに。
「――僕も、ロージィを守りたい」
応えるようにそう言ったエミールの声を聞きながら、今のロズリーヌは無意識に一歩足を引いた。
その瞬間、ザッと強い風が吹きつける。
髪の毛が乱れ、視界を覆った。思わず目を閉じる。身じろぎひとつせず、そのまま時が経つのを待っていると。
「ロズリーヌさまって、本当に惨めよねえ」
悪意を纏った誰かの声が、するりと耳に入り込んできた。
半ば反射的に瞼を持ち上げると、そこは見慣れた場所だった。だいぶ成長したあとに、ようやく立ち入りを許された王宮の中。
ロズリーヌの目には、使用人たちの悪意に満ちた噂話を、陰からこっそり聞いているかつての自分が映っていた。この時のこともよく覚えている。
ただ歩いていただけなのに、自分に向けられた嘲笑が耳に届いて、出るに出られなくなってしまったのだ。これが婚約者のことなら、すぐさま飛び出して行って窘めるのに。
自分のことだと「まったくもってその通りだ」と思ってしまう。
「私なら、あんな扱い耐えられないわ」
「それほどお妃さまになりたいのかしら」
「まあ、愛されないお妃でも、一度その座を手に入れれば、あとは好き放題できるわけだしねえ」
「でも、ロズリーヌさま、着飾ることとか派手なことにはあまり興味なさそうじゃない?」
「馬鹿ね。興味がないんじゃなくて、興味があっても好きなことをするだけの環境にないだけよ。ほら、あの人って家族にも馴染めていないって有名だもの」
「そう言えば聞いたことあるかも。この婚約が駄目になったら、行く場所がなくなるということよね。そりゃあ、お妃の座にしがみつくわけだわ」
「今まで自由が利かなかった分、結婚後はもしかしたら相当遊ぶようになるかもよ」
人は噂話に対してとても無責任だ。
その噂話の向こうに、生きた人間がいるとは思っていない。感情がある人間がいるとは思っていない。傷付く人間がいるとは思っていない。
そして、誰かが「傷付いた」と口にすると、今度は「こんなことで傷付くほうが悪い」と責任転嫁するのである。
「身に覚えがないなら、胸を張っていればいいだけなのに」と。
ロズリーヌの目の前にいるかつての自分は、使用人たちの心ない噂話を聞きながら、小さく息を吐いた。――無表情。けれど、覚えている。何も感じなかったわけではないことを。
(この時のわたくしは確か……『妃の座にしがみついている』ように見えるのねと思ったのだった)
あながち間違いでもないかもしれない。
エミールに捨てられたら、身を寄せる場所がなかったのも事実だ。現に、ロズリーヌの父は、娘を祖父ほど歳の離れた、愛人が何人もいる男に嫁がせようとしたのだから。
でも、たとえ『妃の座にしがみついている』ように見えたとしたって。
やるべきことは――いや、それ以上のことをやっている。しがみついて、何が悪いと言うのだろう。
「ここで何をしている?」
よく通る耳心地の良い声に、ロズリーヌは使用人二人に視線を向ける。そこには、こちらに向かって歩いて来るセレスタンがいた。
「あ」
使用人の一人が、短く声を漏らす。
「君には仕事があるはずだな」
セレスタンが二人の目の前に辿り着くと、まるで部下を叱責するときのような口調でそう言った。わずかに笑んではいるものの、その表情はどこか険しい。
使用人二人は同時に顔を見合わせると、「いえ」「あの」と慌て始めた。相手が見逃してくれそうな言い訳を捻り出そうとして、けれど失敗したらしい。
「ゆ、友人に会いに」
「王妃殿下が君を探している。偶然鉢合わせた私や同僚に『侍女がまたいなくなってしまった』とお訊ねになるほど、公に」
結局、言い訳にもなっていない言い訳を絞り出した使用人だったが、セレスタンはそんな言い分など端から聞くつもりはないようだ。
「え……」使用人の女――実際には王妃の侍女だったらしい――が、小さく息を呑む。
「早く行ったほうがいい」
女は事のまずさは理解しているのだろう。
その顔に恐怖を滲ませながら、歩き出した。
「――ああ、ひとつだけ」
足早に立ち去ろうとする女の背中に、セレスタンが声を掛ける。
「君が『妃の座にしがみついている』と言った女性は、その環境をただ嘆くのではなく、誰よりも努力している。与えられた仕事ひとつ満足にこなせない君が嗤っていいような女性ではないと、頭に入れておいたほうがいいだろう」
「あ、れは……ただの噂話で」
振り向きざまに、女が言い返した。
ほとんど反射的なものだったのだろう。言い返してしまったことを後悔するように、女が口を閉じる。
「なら、なおさらだ。仕事中に姿を消し、王子宮で働く友人にわざわざ悪意に満ちた噂話を聞かせにくるような君は、彼女の話題に触れるべきですらない。もちろん、君も」
二人に対して、セレスタンは酷薄な笑みを向けた。
彼がこんな顔をするのは珍しい。
使用人二人は、ほんの一瞬視線を合わせると、「申し訳ございません」と口早に謝罪を述べて、逃げるように立ち去った。
「きゃっ……」
当然、王子宮で働く友人とやらは、ロズリーヌと鉢合わせることになる。
彼女はまず、曲がり角に人影があったことに驚き――そして次に、それがロズリーヌであったことに絶望にも似た表情を浮かべた。
それでも、もうどうすることもできないと悟ったのか、小さく悲鳴を上げたあとは、「もうやだ」と呟いて走り去っていった。
「セレスタンさま」
死角になっていたであろうその場所から、ロズリーヌが姿を現す。
「ロズリーヌ嬢……」
ヘーゼルの瞳がわずかに見開かれた。
彼女たちにロズリーヌが見えていなかったということは、セレスタンもロズリーヌがいることに気がついていなかったのだろう。
「まさか、ずっとそこに?」
訊ねられて、ロズリーヌは肩を竦める。
「ええ。ここを通りかかったら、わたくしの噂話が始まったものですから、出るに出られなくなってしまって。でも、ここから引き返して、わざわざ遠回りをするのも変なのではないかしらと思って、終わるまで待とうと」
「君って人は……」
セレスタンが、ふ、と息を吐いた。先ほどとはまったく違う、柔和な笑みを浮かべながら。
それにわずかばかりの安堵を覚え、ロズリーヌの肩からも力が抜けていく。自覚していなかっただけで、きっと緊張していたのだ。
「――ありがとうございます」
ロズリーヌは軽く膝を折り、礼を述べた。
「え?」
「わたくしを庇ってくださったでしょう」
「ああ……庇ったというか、腹が立ったから」
普段、あまり負の感情を露わにしないセレスタンにしては、珍しい物言いだ。
そう感じたロズリーヌの疑問を察したのだろう。セレスタンは続けて口を開いた。
「君の努力を、私は見てきた」
真っ直ぐ言葉にされて、ロズリーヌは「ええ」と掠れた声で返す。口ぶりからすると、妃教育に対する限定的な努力ではなく、何もかもをも貪欲に吸収しようとするロズリーヌの姿勢を評価してくれているのだろう。
ロズリーヌ・ミオットという人間として、そのように褒められたのは初めてだった。
「それはたかが数年かもしれないけれど、その間に見てきたことだけでも、すごい人だなと素直に尊敬しているんだ」
雪のようななめらかな頬に、サッと赤みが差す。
「そんな君の弛まぬ努力は、王子妃や王太子妃、王妃になるかならないかで無駄になるようなものではないし、無駄にしてはならないものだとも思う」
「あ……」
王宮では、誰もがロズリーヌを『あの王子と無事に結婚するか否か』でしか見ない。
結局、『結婚まで辿り着かないだろう』と思っている者が大多数なのだ。
だから、見下され、嘲笑される。
もっとも、そのように品のないことをするのは、教養のない一部の人間だけであるのも事実なのだが。先ほどの二人のように。
「君は嗤われていい人ではないよ」
先ほどの彼女に言ったように、セレスタンはもう一度そう口にした。ロズリーヌの胸の奥に、すとんと何かが落ちてくる。
そうか、と素直に受け止められた。
「君は自分のことになると、途端にいろんなことがおざなりになるようだけれどね」
「だから少し、悔しくなった」セレスタンはそう言って、苦笑気味に目を細める。
――嗤われていい人ではない。
たったそれだけの言葉に、ロズリーヌは救われた気がした。不思議なことに、自分でそう考えたことがなかったのだ。
嘲笑を向けられることを、当然と思っていたわけではない。けれど、立場上、仕方ないとは思っていたし、それを気にすること以外にやるべきことはたくさんあったから、度が過ぎていること以外は目を瞑ってきた。
でも、そうか。
嗤われていい人間ではなかったのかと、安堵にも似た気持ちを抱いた。
「ありがとう……ございます」
かつての自分を見守っていた今のロズリーヌの心の中にも、温かいものが宿る。
その瞬間、再び強い風が吹き抜けた。
(ああ、また――)
場面が変わるのかと思った。
しかし、そうはならなかった。
今度は、意識が深く深く沈み込んでいく。ロズリーヌはどこか穏やかな気持ちで体を丸め、抵抗することなく眠りについた。
※都合により、GW中の更新を延期させていただきます。
本作の中では少し良いところに入るので、少し書き溜めてからの公開にする予定です。
5月11日の週のどこかでまた公開開始いたしますので、申し訳ございませんが、もう少しお待ちいただけると幸いです……!




