【030】エジェオ・トノーニとドロテ・ランバルド
セレスタンは息を呑んだ。
ドロテ・ランバルドなら知っている。エジェオの妹であるルフィナ・トノーニとよく行動を共にしていたはずだ。
「……どういうことです?」
低い声でセレスタンが訊ねる。
あり得ない、と思った。
いったいどんな理由があったらそんなことになるのか。
だが、同時に納得もした。
学院で負傷したというロズリーヌが、なぜ侯爵家や伯爵家に戻されるのではなく、王宮で保護されたという扱いになったのか、疑問に感じていたのだ。
おそらく、ヴェリアの留学生が関わっているからなのだろう。
「その前に、私と彼女の関係について話しておきたい」
再びエジェオが口を開く。
「関係?」
短く訊き返すと、エジェオはおもむろに頷いた。関係と言っても、ドロテは妹の友人だったはず。それ以上でもそれ以下でもないと思っていたが。
「昔、リトマネン伯爵家から婚約の申し入れがあった。あそこには娘が二人いるが、婚約者として名乗りを上げたのは姉――ドロテ・ランバルドのほう」
「……初めて聞いた」
「だろうね。随分昔の話だし、内々で話は済んでいるから」
「ということは……婚約話は断った?」
「もちろん。そもそもこの話は、彼女のお気持ちひとつで公爵家に持ち込まれたもので、両家にとって政治的なうまみは一切ない。まあ、それでも当初、父はこの話を受けようとしていたようだけど」
父と言った時、エジェオは一瞬、皮肉げな表情を浮かべた。
そのことから、エジェオも父公爵のことを良く思っていないのがわかる。――まったく公爵とは名ばかりだな。セレスタンは、ホルム侯爵がそうぼやいていたのを思い出した。
「なににしても、彼女との婚約なんて死んでもごめんだったからね。幼いながらにあの手この手で父を説得して、なんとか断ってもらったんだ」
「随分昔の話――貴殿が今『幼いながらに』と言ったということは、子どもの頃の話だろう? それでも彼女との婚約は嫌だった?」
「彼女は幼い頃からそれはもう我儘だったよ。酷い癇癪持ちで、その割に外では大人しくできるからなお質が悪かった。一度なんかは、うちの使用人に手を上げていたな。誰に教えられたわけでもないだろうに、媚びるべき相手を見分けているようだった。ああ、そういう意味では優秀だったのかもしれない。ほとんど宝の持ち腐れだけど」
見分けられたとして――いや、見分けられるだけでは意味がない。
使用人に手を上げたという話からしても、彼女はそのあとどうなるかを考える頭がないのだ。
上級貴族の使用人ともなると、使用人本人も貴族家出身である場合が多い。相手によっては、伯爵令嬢でしかないドロテ・ランバルドより立場が強い場合さえある。
貴族というのは、肩書きだけを見て一瞬で自分より上か下かを判断できるほど単純なものではないので、ドロテ・ランバルドはそのあたりの繊細かつ臨機応変な対応ができないのだろう。
そしてそれは、上級貴族の妻になろうとするにはあまりに大きな欠点である。
もっとも、エジェオが嫌がったのはそこだけではないようだが。
「それで、貴殿が彼女からの婚約話を断ったことと今回のこと。いったいどんな関わりが?」
正直、セレスタンはそのリトマネン伯爵令嬢とやらに興味はない。早く話を進めてほしかった。
「ああ、うん。彼女はそれからも、たびたび私に『自分を娶れ』と告げてくるようになった。しかも、あたかも自分が私の特別であるかのように振る舞い、私のことを『エジェオ』と名で呼び続けた」
「それは当然、許可は……」
「与えていない。それどころか、不快なので立場を弁えるようにとも伝えたが、一切効果はなかった」
「……それは」
「だから、私はある時から隣に女性を起き続ける羽目になった。――セレスタン殿も、私のことを異性関係にだらしない男だと思っていただろう?」
なんとも肯定しづらい質問である。
だが、無言が肯定となったようで、「まあ、当然だよ」とエジェオは事も無げに頷いた。
「もちろん、隣に女性がいてもしつこいときはしつこかったのだけど、彼女、この国に来て以降は随分と開放的になっていたようで、好き勝手やっていたけれど、本来はああ見えて意外と打たれ弱いと言うか。きつく言い返されそうな相手には強く出られないらしい。だから、用事があって出かけるときにはたいてい、一時だけでも隣に立ってくれる女性を用意していた。相手の女性にも合意を取ってね」
「ああ……なるほど」
いつも別の華やかな女性――確かにみんな気が強そうだった――を連れ歩いていたのは、そういうわけだったのかと納得する。
「……と、まあ、こういう細かい話はどうでもいいんだった。とにかく、彼女は昔から私に執着していたというわけ。それで、その矛先が今回、ロズリーヌ嬢に向かってしまった」
「なぜロズリーヌに?」
セレスタンが端的に疑問を投げかけた。
普段、常に微笑を浮かべているような男の顔面がすごいことになっている。美人が凄むと怖いのだなと、アーロンは頬を引き攣らせた。
「シュパン卿がロズリーヌ嬢に好意を抱いているからだと言っていた」
しかしそこで、アーロンが口を挟む。
「本人がですか?」
「ああ、どうも彼女にはそう見えたらしい」
セレスタンはエジェオを一瞥したものの、特に何かを口にすることはなかった。気にはなるが、今はそれどころではないのだ。
「ロズリーヌ嬢が階段から転落したのは多くの生徒が目撃している。ドロテ・ランバルドが突き落とした場面も」
「……まさか、人目がある場所でそんなことを?」
正気の沙汰とは思えない。
セレスタンが感じたのは、まずそれだった。
通常、人に危害を加えるときには極力人目がない場所を選ぶものではないだろうか。
すると、エジェオが一枚の紙を差し出してきた。折り畳まれており、セレスタンが座っている位置からでは中身までは見えない。
「これは?」
机の上に視線を落としたまま訊ねると、エジェオが「とりあえず中を」と促す。
言われた通り、二つに折られた上質な紙を開いてみると――そこには殴り書きのような文字で『お前を殺す。せいぜい怯えているがいい』と書かれていた。
「それはロズリーヌ嬢に届けられた手紙だ」
エジェオの言葉に、セレスタンが目を見開く。
「どうも、少し前からこのような手紙が届けられていたらしい。……ロズリーヌ嬢は言葉を濁していたが、おそらく我々が留学してきてからの話だろう。それに、やけに乱暴な書き方だが、ここ。右肩上がりの文字――この癖には見覚えがある」
「……ドロテ・ランバルド」
セレスタンが低く呟いた。
手に持っていた紙が、ぐしゃりと握り潰される。余程力が入っているのか、手の甲に太い血管が浮き出していた。
「ドロテ・ランバルドはその場ですでに確保している。現役の生徒たちから随分と恨みを買っていたらしいな。教員からの指示がなくとも、ここぞとばかりに生徒一丸となって発狂するドロテ・ランバルドを取り押さえたと言う」
「まあ、現時点ではあれが一番学院の生徒に迷惑をかけていたと言っても過言ではないので……」
こめかみに指をやって、エジェオが重々しく息を吐き出す。
頭が痛そうだが、それはそうだろう。
エジェオは公爵家の嫡男。使節団が帰国してしまった今、留学生たちの中でもっとも地位が高いのが彼なのだ。母国からなにかしらの指示があるまで、彼が矢面に立たなければならないのである。
国から派遣されている護衛や使用人――つまり大人だ――がいないわけではないが、彼らにそこまで重たい責任を負わせられるはずもない。
それに、エジェオだって成人を迎えてはいるのだから、年齢的には大人と言える。
ヴェリアでもアディルセンでもこれが微妙なところで、成人年齢は十六としているものの、貴族が通う学校の卒業は十八。
十六から十八までは、都合よく子どもにさせられたり大人にさせられたりするのだ。
今回はきっと大人に振り分けられるのだろう、とエジェオは再び嘆息した。
「……わかりました」
不意に、セレスタンが口を開く。
二人の視線がセレスタンへと向けられた。
「ドロテ・ランバルドを消してきます」
そう言って立ち上がるものだから「おい、待て待て待て!」とアーロンが立ち上がる。
「――半分冗談です」
再び腰を下ろしたセレスタンは、珍しく苛立った様子を見せた。セレスタンだって人間なので、不快に感じることもあれば、億劫に思うこともあるだろうが、それを態度に表すことはまずない。
相手には決して感情を悟らせない。それがあの微笑みの正体なのだから。
「半分は本気だったんだな……」
「殿下のお許しがあれば今すぐにでも」
「許可するわけがないだろう」
「そうですね。ただ、仮にも侯爵令嬢である私の婚約者に傷をつけたのです。無罪放免ということにはならないでしょう?」
「それは当然だが。彼女にはまだ吐いてもらわなければならないこともある」
「……エジェオ殿のことで嫉妬をして、ロズリーヌを害したということの他にも、何か?」
アーロンが苦笑する。
「婚約者が心配なのはわかるが、お前は少し冷静になったほうがいい。いつものお前なら、その紙切れの違和感に気がついただろうに」
そう言われて、セレスタンは自身の手をゆっくりと開いた。やけに小さくなった塊が机の上にコロリとこぼれ落ちる。
改めてそれを開いてみると、今度は微かな違和感が頭を掠めていった。
「これは――」
「そう、アディルセンの言葉で書かれている。ドロテ・ランバルド含め、留学生たちのほとんどはヴェリア語しか話せないはずなのに、だ」
「……アディルセン語がわかる誰かが、この手紙の件に協力したかもしれないということですね」
「彼女が実はアディルセン語ができたということでない限り、そう見たほうがいいだろう」
「ああ、それはないと思いますよ。彼女、勉強はとにかく嫌いみたいでしたから」
「じゃあ誰が?」
思わずセレスタンが口にした疑問に対して、アーロンが答える。
「それを今、尋問している。ロズリーヌ嬢に危害を加えたのは、大勢が目撃し、その場で取り押さえているので本人に訊くまでもなかったが、協力者に関してはいまだ口を噤んでいるらしい。他国の貴族令嬢ともなると、勝手に手荒な真似もできないしな」
セレスタンは怒りを逃すように長く息を吐き出し、「そうですか」と頷いた。
「それで……他の留学生は?」
「こんなことになってしまったからね。当然、謹慎させている。うちの国の陛下にも、今までのあいつらの行動含め報告している。手紙はまだ届いていないだろうが――使節団が帰国して以降は、ヴェリアへの定期報告の義務は私のものになっているから」
そこから、ロズリーヌへの今後の対応や――やはり留学生が関わっているために王宮で保護となったようだ――アディルセンとしての考えなどをアーロンから伝えられる。
ヴェリア出身のエジェオがいるので、当然、表面的なものでしかないだろうが、それでいったんこの場は解散の運びとなった。
エジェオが深く一礼をして退室していくのを見届け、セレスタンが後を追おうとすると。
「セレスタン、お前に少し話したいことがある」
アーロンがそう言って引き留める。
その顔には、そこはかとない緊張感が滲んでいた――。




