【003】新たな求婚者
「君に求婚をしたいと思っているんだけど」
件の断罪未遂劇が行われた翌日。
妃教育が中止になったので、世話になった教師陣に最後の挨拶をと城に上がったロズリーヌだったが――。
「……え?」
出会い頭、まるで天気の話でもするかのような気軽さで言われ、ロズリーヌは絶句した。
「セレスタンさま……」
美しい笑みを携えてそこにいたのは、アンドレアン伯爵セレスタン・バルナベ・オ・アルヴェーンその人だった。
「え?」
今し方の問いかけをもう一度頭の中で咀嚼し、ロズリーヌは困ったように眉を落とす。やはり意味がわからなかった。
長年、「賢くあれ」と妃教育を受けてきた身でありながら、それでも理解の及ばない唐突さであった。
しかし、そんなロズリーヌの反応も意に介さない様子で、セレスタンはもう一歩身を寄せてくる。
「君に求婚をしたいのだけど」
簡潔に、同じことをもう一度。
「え、あの……?」
「ああ、そうだ。昨晩は大変だったね……というところから始めたほうが良かったかな」
随分と遠回りな言い方ではあったものの、ロズリーヌはそこでようやく、ああなるほどと合点がいった。
要は、元第一王子との婚約がなくなったから、新たな婚約者として立候補したいということだろう。
ロズリーヌは、無防備な表情から一転、貴族令嬢として背筋を伸ばす。
「求婚でしたら、実家にお願いできますでしょうか?」
すると、わずかに目を見開いたセレスタンは、しかしすぐに苦笑を浮かべた。
「違う、違う。私にとって、君の実家はどうでも良いことだ。まあ、身分差の問題がないという点では、君が侯爵令嬢であって良かったなとは思うけど。そうじゃなくて、私は君に求婚をしたいと思っている。アレグリア侯爵令嬢じゃなくてね。だから、もちろん君の実家にも話は通すつもりでいるけれど、その前に君自身の承諾を取っておきたい」
はっきりと告げるセレスタンに、ロズリーヌは再び肩の力を抜く。
数年前に出会った彼――セレスタンは、ロズリーヌにとって気を許せる数少ない異性のひとりだった。
「セレスタンさま、それは……」
「私はずっと君に好意を抱いていた。気がつかなかった?」
試すように問われて、ロズリーヌは一度口を噤む。
――気がつかなかった。
とは、言えない。
そうではないかと感じることもあったからだ。その辺、ロズリーヌは決して鈍感ではない。
否定しない、そんなロズリーヌの正直さと気まずげな雰囲気に、セレスタンが可笑しそうに肩を震わせる。真面目だな、と思って。
「……この件は、一度家に持ち帰らせていただけますか」
「ロズリーヌ嬢」
床を睨みつけるようにしてロズリーヌが言えば、殊の外強く名前を呼ばれた。
「君にとってはまさに婚約破棄したばかりという状況で、落ち着かない気分かもしれないけれど、周りの人間が放っておいてくれるとも限らない。……特に、君の父親はすぐにでも次の婚約者を宛てがおうとするだろう」
突如として挙がった父親の話題に、ロズリーヌは頭の奥が小さく軋むのを感じた。その通りだ、と納得する自分がいる。
「あの君の父親が用意する縁談なんて、そう期待できるものでもないはずだ」
「それは……」
「そして、君はどんな立場に置かれようと、貴族令嬢だからとその縁談を受け入れるんだろう」
言い返せない。
貴族令嬢たるもの、いや、未来の国母たるもの、責務を果たすべしと厳しく躾られてきたのだ。どんなにまともでない縁談でも、粛々と受け入れる自分がロズリーヌには想像できた。
セレスタンが、俯きがちに佇むロズリーヌの視界に入るように跪く。
「なら、私でもいいと思わない?」
良いか悪いかで言えば、当然『良い』のだ。
彼は伯爵位を持っていて、そのうえ、歴史ある公爵家の嫡男――つまり、順当にいけば、将来的には公爵位を得ることが約束されている人物である。
結婚相手として見たときに、これほど優秀な男性はいないだろう。
『良い』のはわかりきっているが、『良い』とは言いづらい。そんなロズリーヌの困惑を察したのか、セレスタンはそっとロズリーヌの左手を両手で包み込み、話を続ける。
「君はうんと頷いてくれるだけでいい」
強引なやり方かもしれないが、こうでもしなければ、ロズリーヌは家族の都合の良いように嫁いでいってしまう。セレスタンには、それを指を咥えて見ていることはできなかった。
「……わかりました」
ややあって、小さく息を吐き出したロズリーヌが口を開く。
「前向きに検討……させていただきます。今はどうか、それで」
苦し紛れの言葉に、セレスタンは口元を緩めた。
基本的に、無意味に人に期待を持たせることを嫌うロズリーヌだ。この時点で、答えはすでに出ているようなものだということが、セレスタンにも伝わったのだろう。
ただ、いまいち覚悟が決まらない。
その理由は――。
(……セレスタンさまと、一生を、添い遂げる……)
不思議と、その光景が想像できなかったからである。
ロズリーヌは少しだけ視線を彷徨わせてから、再び口を開いた。
「……わたくしに求婚なさるぐらいですから、こんなことは言われるまでもないのでしょうけれど、わたくしと結婚したところで政治的価値などありませんよ」
セレスタンが、うんと頷く。
「もちろんわかってる」
「それでもわたくしを選んでくださると?」
ロズリーヌが確認するように訊ねると、ヘーゼルの瞳が蕩けるようにうっとりと細められた。
――まただ。
セレスタンと知り合って数年、しばしば向けられてきた目。単なる友人でしかなかったこれまでは、セレスタンがこのような表情を浮かべるたびに、ロズリーヌは落ち着かない気持ちになったものだ。
「君じゃなきゃ意味がない」
言いながら、セレスタンは懇願するように、ロズリーヌの手に額をそっと押し当てた。
「君にもいつか、私だけを見てほしいと思っている」
さわさわと、よく手入れされた髪の毛が手の甲を撫でる。
「でも……」
ロズリーヌは何事かを言いかけて、しかしすぐに「いえ、なんでも」と首を振った。おそらく自分はこの求婚を受けるだろう。というよりも、受けざるを得ない状況であることには違いない。
相手に非があるといえども、婚約破棄をされたのだ。
無論、妃教育を真面目に受けてきたロズリーヌであるから、釣書は山ほど送られてくるはずだ。でも、あの家族が、ロズリーヌにとって都合の良い相手を選んでくれるはずがない。
セレスタンを逃してしまえば、不幸になる未来しか見えないというのも事実だが、実際、ロズリーヌのほうもセレスタンのことを憎からず思っているので、断る理由などどこにもないはずなのである。
本来は。
「……セレスタンさま」
細く息を吐き出し、ロズリーヌは淡く微笑んだ。
「父が動く前には、お返事をさせていただきますね。必ず」
ほんの少し前よりも未来を感じさせる言葉に、セレスタンも満足そうに笑みを浮かべた。