【029】セレスタン・アルヴェーンの帰還
走ってはいけない。
――走るな。
セレスタンは自分にそう言い聞かせながら、できる限りの速さで王宮の廊下を歩いていた。
アンドレアン伯爵が、普段王太子に付き従っているというのは言わずと知れたことだ。
そのアンドレアン伯爵が人目も憚らず全力疾走でもすれば、王太子の身に何か起きたのかと城内に混乱を招くおそれがある。
――だから走ってはいけない。
たとえ、婚約者が負傷したという連絡が入っていようとも。
「ロズリーヌ・ミオットに面会を」
ある一室の前に辿り着き、扉の前に立つ騎士に声を掛ける。
騎士の男はちらとセレスタンを一瞥し、「どうぞお入りください」と頷いた。流石王宮勤めの騎士と言うべきか、セレスタンの顔と、ロズリーヌとの関係を把握しているのだろう。
セレスタンは一度深く息を吐き出して、それから扉を押し開けた。
中はしんと静まり返り、自分の息遣いさえ聞こえてきそうなほどだった。
普段、使用人が寝泊まりをする部屋だからだろう。
部屋には簡素な机とベッド以外、何も置かれていない。仮にも侯爵令嬢であるロズリーヌを、使用人の部屋に置いておくのはいかがなものかと思うが、きっとそれだけの理由があるのだと思う。
現に、扉の前には、部屋を守るようにして騎士が配置されていた。それを考えると、ロズリーヌが雑に扱われているというわけではないのだ。
「ロズリーヌ……」
セレスタンがそっとベッドに近付くと、穏やかな寝息が聞こえてくる。
だが、穏やかな寝息とは反対に、その表情はやや苦しげなものだった。
「……ごめん」
ベッドの脇に置かれていた椅子に腰掛け、項垂れる。
婚約者と連絡が取れずにいることを、不審に思っていた。さらに言うなら、大きな事故が起きたからといって、多くの仕事を抱える自分が国境付近まで派遣されたことにも不自然さを感じていた。
それなのに、目の前の出来事を片付けるのに必死になって、やるべきことをやらなかった結果がこれだ。――婚約者が怪我をしたその時に、駆けつけることもできなかった。
(なにが『愛する婚約者』だ……烏滸がましい)
ユーフェミアを介して、ロズリーヌの手紙を受け取ったセレスタンは、他の人間に仕事の引き継ぎをすると、辺境伯に頼んで王都まで馬車を出してもらうことにした。
緊急事態ということもあり、行きはアーロンが用意した馬車に乗ってきたからだ。
無論、セレスタン一人のための馬車ではないので、途中で抜けようとしているセレスタンがこれを使用することはできない。
そこで、ブルーノに頼んでみたところ、快く馬車を貸してくれることになったのだ。しかも、数名の護衛もつけてくれるという。
セレスタン同様、なにか思うところがあったのかもしれない。
そんなセレスタンが、もう少しで王都に入るという時のことだった。アーロンから、ロズリーヌの怪我についての連絡が入ったのは。
受け取った手紙に詳細は書かれておらず、そこにあったのは、ロズリーヌが階段から転落し意識不明――王宮で保護をしているということのみ。
アーロンも急いでいたのか、平常時に比べると文字が乱れているようだった。
「起きて、ロズリーヌ……」
項垂れたまま小さく声を掛け、立ち上がる。
ずっとそばについていたいのは山々だが、今は他に行くべき場所がある。
そうして訪れたのは、王太子アーロンの執務室。
扉を叩くとすぐに返事が戻ってくる。脇に立つ護衛たちに促されるようにして扉を開けると――そこにはアーロンと、そして思わぬ人物がいた。
「エジェオ殿……」
エジェオ・コンスタン・トノーニ。
ヴェリア王国の公爵家の人間だ。
「セレスタン殿、まずは挨拶をと言いたいところだが、その前に」
背後で扉が閉じられるのとほぼ同時、エジェオが勢いよく頭を下げた。
「我が国の人間が申し訳ないことをした! 謝って許される問題でないことは……理解している。彼女――いや、我が国の人間は即刻国に帰すよう手配した。立て続けに問題を起こし、ロズリーヌ嬢には大変な迷惑をかけてしまったと思う。辛抱強く対応してくれていたというのに、あいつらときたら――」
「シュパン卿」
床を睨みつけたまま一息にそう言うエジェオに、セレスタンが圧倒されていると、アーロンが止めに入ってくる。
「セレスタンには詳しいことはまだ何も話していない。謝罪したい気持ちは理解できるが、一度事情を説明してからにしてほしい。いいだろうか?」
「あ……申し訳ない。気持ちばかり急いてしまい……」
するとエジェオは、今度は少々疲れた様子で、ソファに腰を下ろす。
「お前も座ってくれ」アーロンに指示され、セレスタンは素直に従った。仕事を抜け出し、勝手に帰ってきたことを追及される可能性も考えていたが、どうやらそれはないらしい。
「事情を説明、とは?」
おそらくロズリーヌのことだろうと察しながらも、一応訊ねてみる。
「とりあえず、まずはロズリーヌ嬢のことから。腹は立つだろうが、最後まで聞いてくれ。いいな?」
「……ええ、わかりました」
それはつまり、セレスタンが腹を立てるような事態が発生したということなのかとセレスタンは片方の眉をピクリと跳ね上げさせた。
考えただけで、胃の奥にぐつぐつとしたものが沸き上がるようだ。
しかし、今はアーロンに言われた通り、大人しく話を聞くべきだろう。
「ロズリーヌ嬢が階段から転落したのは二日前のこと。王族の侍医に診てもらったところによると、命に別状はないらしいが、まだ目を覚ましていない」
二日間も意識を失ったままだという現実に、セレスタンは顔を強張らせた。
「これについては、ロズリーヌ嬢の友人曰く、ここ最近は学院のことで一杯一杯になっていたそうなので、もしかしたら過労もあって長く眠りについたままなのではないかと」
「過労……」
友人とはユーフェミアのことだろう。
一杯一杯になっている時に彼女という存在がいてくれて助かったが、自分の不甲斐なさを突きつけられるようで、奥歯を強く噛み締める。
自分も一杯一杯になっていた――とは、なんの言い訳にもならない。
「殿下、私からもよろしいでしょうか」
先ほどよりか幾分か落ち着いた声色で、エジェオが口を挟んだ。
それに対して、アーロンが「ああ」と頷く。
「過労と言うのなら、その原因は間違いなく我々にあると思う」
セレスタンは、思わずエジェオに厳しい視線を向けた。しかし、そこでふと気付く。よくよく見てみると、エジェオの顔色が酷く悪いことに。
彼は、華々しい生活を送っていたヴェリアでは見たことのない表情を浮かべていた。
「我々は、ロズリーヌ嬢が寛大に受け止めてくれるのをいいことに、学院内では好き勝手振る舞っていた。我々が問題を起こすたび、それに駆り出されていたロズリーヌ嬢の心労は大変なものだったはずだ」
「あー……シュパン卿はこう言っているが、シュパン卿自身が何か問題を起こしたことはないからな。少々開放的になり、少数の供を連れ立って街へ下りたりはしていたようだが、ロズリーヌ嬢に迷惑をかけるようなことはしていない」
共に責任を取るつもりなのか。
まるで問題児たちの代表のような顔で言葉を紡ぐエジェオを見兼ねたように、アーロンが付け足す。
相手は他国とはいえ、ゆくゆくは公爵家を継ぐ人間だ。
本人も言動に難はあれど、頭の切れる優秀な人物だと聞いている。今回の件に関して、問題がないのに、あるとは流石に言えなかった。
「口頭で注意はされましたけどね」
その時のことを思い出したのだろう。
エジェオはわずかに口元を緩めた。
「……それで?」
表情を変えぬまま、セレスタンが続きを催促する。
「それで――」
「ここからは俺が引き継ごう。ロズリーヌ嬢に常にない心労をかけたのは、シュパン卿が言った通りのことだとして。……結果から言うと、ロズリーヌ嬢が階段から転落したのは事故ではない。留学生のリトマネン伯爵令嬢ドロテ・ランバルドに突き落とされたということだった」




