【028】面倒くさそうな人
「うわ、これはいよいよって感じね……」
ロズリーヌの手元を覗き込みながら、ユーフェミアが頬を引き攣らせた。
自身の手の中にある紙切れ――そこには『お前を殺す。せいぜい怯えているがいい』と乱雑に書かれた文字がある。
「やってしまったわ」とロズリーヌは嘆息した。
(もう少し……このことについても考えておくのだった)
油断していた、というわけではないが。
日々、留学生たちが起こす問題にかかりきりになり、どこか些事であるかのような気がしていた。婚約者との擦れ違いの件もあるから、なおさらだ。
(……実は、自分で思うよりいっぱいいっぱいになっていたのかしらね)
もう一度息を吐き出して、ロズリーヌはユーフェミアに視線を走らせる――と。
「え……」
自分たちの間にもうひとつ顔があって、驚きのあまり声を上げた。
「……これは酷いな」
呟くようにしてそう言うのは、エジェオ・トノーニである。
その顔には、珍しく笑みが浮かんでいない。
「まあ、シュパン卿。女性の背後から手元を覗き込むなんて」
ユーフェミアも驚いたのだろう。
目を細めて、エジェオにちくりと言った。実際には、背後というより、許可なくこれだけの距離に近付くことが不躾とされるのであるが。
「ああ、申し訳ない。声を掛けようと思ったのだけど、君たちがあまりに真剣な様子で手元を見つめていたから、何かあったのかと思って」
さして悪びれた様子もないエジェオは「それで?」と、当然のように続きを促した。
ロズリーヌは呆れたような視線を向けたが、肩を竦めて口を開く。
見られてしまったものは仕方がない。
「見ての通りです。こんなものが机の中に」
「うん、品がないというか、酷いというか……」
「……品がない……」
「でも、これが初めてじゃないんだろう?」
確信めいたような口調でそう訊ねられ、ロズリーヌはユーフェミアと顔を見合わせた。やはり軟派な男というだけではないのだ。
「そう……ですね。こういった手紙が、先日から立て続けに届いていて」
「……先日から?」
ロズリーヌは思わず口を噤む。
留学生たちの受け入れがあった頃からなどとは言いづらい。しかし、エジェオという勘の良い男は、その反応だけで察したらしい。「なるほど」と呟いて、何事かを考える素振りを見せた。
「……エジェオさま?」
「これ、ちょっと預かってもいいかな?」
「え?」
「……それをどこに持って行くおつもりですか?」
訝しげに、ユーフェミアが訊ねる。この手の手紙は、届くたびにホルム侯爵に渡していた。
そう指示されたわけではないし、渡したところで「様子見で」と言われるだけなので、あくまでもロズリーヌとユーフェミアが自主的に提出しているだけなのだが。
実のところ、本当に様子見をしているのか、それとも単なる生徒同士のいざこざと見ているのか、ロズリーヌにはわからなかった。
「この紙切れが届き始めたのは、僕たちがここに来てからなんだろう? 君は優しいから、はっきりそうとは口にしなかったけど」
ロズリーヌは躊躇いがちに小さく頷く。エジェオに不快そうな反応がないことに、安堵しながら。
「君たちだって、少しは思ったんじゃないか? 留学生の誰かが関わっているんじゃないかって」
「それは……」
「となると、もちろん僕のことも怪しく思えるだろうけど、ちょっと調べてみたいことがあるから、少しの間だけ預けてみてほしい」
「シュパ――」
「わかりました」
おそらく断りを入れようとしたユーフェミアの言葉を遮って、ロズリーヌは承諾した。
「ロズリーヌ?」ユーフェミアが戸惑いの声を上げる。言いたいことはわかるが、ホルム侯爵に手渡したところで、どうせ『様子見』とされるだけなのだ。
なら、知られてしまった以上、エジェオに渡したとしても変わらない。
「ただ、エジェオさまのおっしゃる通り、あなた方の誰かが関わっている可能性もないとは言い切れませんので、エジェオさまの信頼している方であっても、この件は内密にお願いできますか」
念を押すように言いながら、ロズリーヌが紙切れを差し出す。
エジェオは、それを受け取りながら「僕に信頼できる人間なんていないさ」と笑った。随分とまあ捻くれた男である。
思わずジト目で見てしまったロズリーヌに、エジェオはさらに笑い声を上げた。
「ああ、本当にいいよね、君って」
目尻に浮かんだ生理的な涙を指で拭いながら、エジェオが言う。
どう反応していいかわからず、ロズリーヌは不審げな表情を崩さなかった。
今までで一番直接的なその言葉に、ユーフェミアはハラハラしているようだ。緊張した視線を、ロズリーヌとエジェオと――交互に走らせている。
「流石、苦しい状況を切り抜けてきただけのことはあるよ」
「……苦しい状況、でございますか?」
「元婚約者のことさ。彼のことをよく知っているわけじゃないから、その為人のことは何も言えないけれど、君がだいぶ苦しい状況に置かれていたことは確かだろう? そんな状況でも折れなかったというだけあって、君はやっぱり芯の強い人なんだなって。それに、こんなのでも一応他国の公爵家の人間だからね。そんな僕に、どうやって接するのがいいかしっかり見極めている賢い人でもある」
「意外と見ているのね」ユーフェミアが意外そうに呟いた。
そんなユーフェミアの言葉が聞こえたのだろう。
エジェオはさして気にした様子もなく、ちらとユーフェミアに視線をやって、それから再びロズリーヌを見る。
「学院で流れている君に関する悪い噂も、下級貴族出身の生徒たちは面白おかしく冗談交じりに噂し合っているようだけれど、上級貴族の子らが本気で信じている様子はほとんどない。それは君という人が今までよくやってきたからだろうなと思っていた」
といっても、まあ。
単なる噂だとしても、悪い話のあるうちはロズリーヌに近付かないでおこうと判断した上級貴族出身の生徒も多い。
それもまた、醜聞を厭う貴族として仕方のないことだ。ただ、ロズリーヌにとっては『いざとなれば切り捨てていい』人間になったというだけの話。
「あの……それは、なんというか、褒めていただきありがとうございます、なんですけれども」
貴族的にそういった仄めかしをされることはあっても、直接的に褒められることはあまりないので、ロズリーヌはなんと返すのが正解かわからず、緩く口角を持ち上げてはにかんだ。
セレスタンやユーフェミア相手なら、いくらでも「ありがとう」と純粋に喜べるのだが。
「じゃあ、とりあえずこれはしばらく預かっておくよ」
困惑を滲ませるロズリーヌの様子に、どこか満足げに微笑んだエジェオは、紙切れをポケットの中に押し込んで踵を返す。
「……なんていうか、掴めない人だわ。しかもやり手」
軽快な足取りで去って行くエジェオを見つめながら、ユーフェミアが疲れを滲ませた溜め息を吐き出した。
同時に、教室に向かう最中だったことを思い出し、二人ともに再び歩き始める。
「掴めないというか……面倒くさそうな人ねとは思うけど」
「でしょう? だからやり手なのよ。面倒くさいということは、無関心より一歩先に進んでいるってことだもの。彼、進んで面倒くさい一面をあなたに見せているような気がするし。……アンドレアン卿が戻っていらしたときのことを考えると、ああ、恐ろしい」
「確かに――いえ、どうかしら。わたくしの勘だと、エジェオさまって、セレスタンさまのことも相当気に入っている気がするのよね」
「そうなの?」
二人が会話をしているところを見たわけではないので、本当にそんな気がするというだけだが。
そう親しい仲でもないセレスタンに名で呼ぶよう要求したようだし、本人の口からも「セレスタン殿は素晴らしい」という言葉を聞いている。
その程度はわからないが、好意を抱いていることは確かだろう。
「まあ、セレスタンさまは誰に対しても平等で、公平で、気さくな方だから、好意を持つのも当然といえば当然だけど」
今度はユーフェミアが、ロズリーヌに対してジト目を向ける。
「……誰に対しても、ねえ」
「……なに?」
「いいえ、ごちそうさま。まさか、あなたの口から婚約者の惚気が出るなんて思わなかった」
「惚気……」
「あら、今のが惚気じゃなくてなんなのよ。でも、喜ばしいことよ。アンドレアン卿といるあなたって、とっても自然な感じがするもの」
確かに、前の婚約者ではこうはいかなかっただろう。
ロズリーヌはくすぐったい気持ちになって、誤魔化すように肩を竦めた。
「それは……そうかもしれないわね。彼の隣だと、無理してまで頑張らなくていいんだと思え――」
その瞬間、ロズリーヌの体が傾ぐ。
「え……」
転ばないよう咄嗟に足を前に出すが、その足が地面を踏むことはなかった。
――階段だ。
ちょうど階段に差し掛かっていたのだ。
「ロズリーヌ嬢……!」
絹を裂くような悲鳴と、誰かが自分を呼ぶような声が聞こえる。
しかし、それに反応することはできなかった。
その前に、ロズリーヌの意識は暗闇に沈んでいったので。




