【026】気付く時
※少しだけ長いです。
――おかしい。
少し前から気にかかってはいたことだった。
婚約者と連絡が取れていない。
セレスタン・アルヴェーンは憂いに満ちた溜め息を吐き出す。辺境地の災害対応に駆り出されたものの、何かあったのかと考えるとなかなか集中することができなかったのだ。
「よう、色男!」
食事を口に運んでいると、広い食堂の中にひとりの男が入ってきた。
「……ブルーノ殿」
「相変わらず辛気くせえ顔だなあ。ま、さっきそこで擦れ違った使用人は『儚げで良かった』とか言っていたが」
「くれぐれも、女性の使用人は私の部屋に近付けないでくださいね」
「それは最初からそうしているだろう。お前が『女は嫌だ』っつうから」
「……愛する婚約者に誤解を与えるような言動は一切したくないですし、なにより面倒なことになりたくないので」
この屋敷の主――オリバレス辺境伯ブルーノ・ヴァル・ヒメネスは、どこか呆れたように「真面目なこった」と肩を竦める。
真面目とはいったい。
セレスタンは片眉を持ち上げるが、目の前にどかりと座るこの男は、辺境伯という肩書きを引き継いでなお、妻どころか婚約者もいない人間だ。その理由も「まだ遊んでいたい」と言ってはばからないので、セレスタンのような人間を真面目だと捉えるのだろう。
その点では、セレスタンとは相容れない人間である。まあ、そのあたりは正面から議論しようとは思っていない。
「でも、そんなお前さんでも、女友達ぐらいはいるんだろ?」
頬杖を突きながら、ブルーノが問う。
貴族家当主のマナーとしてどうなのかと思うが、この男は会ったその瞬間からこのような感じなので、気にするだけ無駄だ。
「……どのような定義をもってして『女友達』と言っておられるのかわかりませんが、異性の友人はいませんね。今後作る予定もありませんよ」
「ふうん」
意味ありげに、切れ長の双眸が細められた。
「なんです?」
カトラリーを置いたセレスタンが、訝しげに首を傾げる。
ブルーノはさらにおかしそうに口元を緩め、自身の懐から一枚の封筒を取り出した。そして、セレスタンのほうに差し出してくる。
その名前を見て、セレスタンは小さく息を呑んだ。
「――ユーフェミア・K。お前さんと関わりが持てそうな身分で、ユーフェミアという名前。家名にKがつく女と言やあ、ユーフェミア・クラインだろう。伯爵家の令嬢で、ホルム侯爵の婚約者」
「……流石ですね」
若くして辺境伯の名を継いだ男だ。
ただ軟派な男というわけではない。人一倍頭が切れてこそ、国防に重要な役割を持つ辺境の主でいられるのである。
「流石に婚約者持ちに手を出しちゃいかんだろ」
悪戯っぽく、ブルーノが笑む。
セレスタンは溜め息を吐いた。察しているくせに白々しい、と。
「愛する婚約者の親友ですよ」
「お前、その『愛する』ってのは『婚約者』とセットなの?」
「私がどれだけ彼女を大事に思っているか、周囲にもわかってもらう必要があるので」
「いやいや、確かにあのお嬢さ――令嬢は美しく、完璧な淑女っつう感じだったが」
「彼女を邪な目で見たら――」
「結局牽制したいの? 褒めてもらいたいの? どっちなの?」
「とりあえず開封しなさいよ」とブルーノが言うと、セレスタンは難しい表情のまま、ぺり、と封を開けた。
そのまま二枚の手紙を取り出し、上から下へと視線を走らせていく。
そのたびに、セレスタンの表情はさらに険しいものへと変わっていった。
「なんて?」
当然のように訊ねてくるブルーノに、セレスタンは冷めた視線を向ける。
「……特に何も。こうしてたまに、愛する婚約者の様子を聞かせてもらっているだけです」
「で、本当は?」
ブルーノが不自然なほどの笑みを浮かべた。
「正直、お前さんのことだから、親友とかいう女に婚約者の行動を報告させていたとしても不思議はないんだけどなあ。ただ、この手紙を見せた時のお前は、無意識かもしれないが『驚いた』という反応をしていた。つまり、この令嬢からの手紙は予定外だったということだ。なら、愛すると言っている婚約者じゃなく、その友人が連絡を寄越してくるのはなぜかと思うのは当然だろう?」
その口調に、逃がさないという意思を感じる。セレスタンやロズリーヌのことを心配しているわけではないだろう。
友人とはいえ、異性間で手紙のやり取りをするのは一般的でないので、なにか異常事態が起きていた場合、この土地に厄介事を運んでくるのではと危惧しているのだ。
セレスタンは観念したように、簡単に説明をすることにした。少し前までのことを思い返しながら。
屋敷にしばらく帰れていない。
何度か手紙を送っているが、返事が来たことは一度もなかった。――おかしい、とは感じつつも、結果的に放置する形になってしまっている。
愛する婚約者にも重要な任務が宛がわれ、留学生たちの問題で手一杯であろうことを知っていたからだ。彼女は律儀な人だから、返事ひとつできないだなんて余程のことである。
そう思ってしまった。
要は、嫌われたくなかったのだ。
忙しい最中、無意味に手を煩わせて鬱陶しいと思われたくなかった。
いや、彼女がそんなことで嫌がるはずはない――。
そう頭で理解していても、自分の重たい愛情に比べると、彼女の想いは微々たるものだろうと思っていたので、少しでも嫌がられる可能性のあることはしたくなかった。
しかし、これはいよいよ不自然なのではないか。
ふとそのことに思い至った時には、もう随分と時間が経ってしまっていたように思う。
セレスタンはなけなしの勇気を振り絞り、ロズリーヌ本人に確認することにした。が、その時間を取ることさえ難しかった。次から次へと仕事が舞い込んでくるのだ。
そのうえ、基本的に侍従を持たないセレスタンである。誰かに代わりを頼むこともできなかった。
身の回りのことは自分でできるし、広くない領地の管理は、公爵家から手配してもらった家令に任せていて、その家令もたいていは領地にいる。
貴族にはあまり見られない環境ではあるものの、周りに人を置くのは落ち着かないのだ。唯一の例外といえば、出仕する際につける護衛ぐらいだろうか。――といっても、これが許されるのはせいぜい公爵家を継ぐまでだが。
まあ、そんなわけで、ロズリーヌの様子を見てきてほしいなどと信頼できない他人に頼むわけにもいかず。睡眠時間を削りに削り、ようやく時間が取れたと思えば、それは夜のほんの一時だけだったのである。
仕方がない。
ロズリーヌはもうベッドの中かもしれないが、安全を確認するだけだ。そう自分に言い聞かせ、馬車で屋敷に向かう。
「旦那さま?」
玄関を抜けると、騎士の風貌をした男――今日の夜番だろう――が驚きを滲ませて出迎えた。
「ああ、いや、ロズリーヌのことを聞きに来ただけだから」
男が慌てて踵を返し、他の使用人たちを起こしに行く様子を見せたので、セレスタンは咄嗟に引き留める。すぐに城に戻るつもりなので、主の帰宅を周知する必要はない。
「聞きに……?」
「うん。流石にこの時間、彼女は寝ているだろう? わざわざ起こすのは可哀想だからね。最近、彼女がどんな様子か気になって。困っていることはないだろうか……とか。そういうことを知りたいのだけど、知っている?」
セレスタンが訊ねると、男は考え込むように小さく唸って、それから「侍女長を呼んでまいります」と足早に去って行った。
「旦那さま! まあ、このような時間に……」
程なくして、侍女長が現れた。
制服を着用してはいるものの、いつも後れ毛ひとつなく纏められている髪の毛がやや乱れている。就寝中だったのかもしれない。
「起こしてしまった?」
「あ、いいえ……」
侍女長は首を振り、それから「ロズリーヌさまの様子をお知りになりたいとか」と切り出した。
「そう。愛する婚約者といえども、この時間に部屋まで押しかけるのは流石に非常識だろう? だから、それだけ確認して帰ろうと思って。彼女は、元気にしている?」
侍女長が納得したというふうに頷く。
「ええ、それはもう。お忙しそうではありますけれど、これといって変わった様子はございませんね」
「……そっか。私の……手紙については? 何か言っていなかった?」
「旦那さまのお手紙、ですか」
少し間が空いたあと、「申し訳ございません」と頼りない声が返ってきた。
「私どもは、届いたお手紙に問題がないかの確認はしても、ロズリーヌさまがお読みになるところまで観察しているわけではないので……」
それはそうだ。
常にロズリーヌのそばに控えているのは侯爵家から連れてきたリンダだけで、あとは日替わりで都合の良い侍女がつくことになっている。
その侍女も常時侍っているわけではないので、手紙を読む間、じっと部屋の隅に控えているようなことはしないだろう。
「あの、何かございましたか?」
侍女長が訝しげに訊ねてくる。
セレスタンはハッとして、小さく微笑んだ。
「……いや、元気ならいいんだ」
元気ということであれば、やはり忙しさのあまり手紙を書く余裕がないのだろうか。
――会いたいなあ。
ぽつり、胸の奥に寂しさが芽生えた。
そこにいるのだ。
目の前の階段を上り、少し行けば、愛する婚約者がいる。
「旦那さま?」
わずかに険しくなった声に引き留められ、え、と声を漏らした。気がついたら、侍女長を通り越して階段の一段目に足をかけていた。
(どれだけ好きなんだろう……)
無意識に体が動いてしまうとはと、自分自身に苦笑を向ける。もっとも、時折自分でも制御が難しいと感じるほどの重苦しい愛情は、とっくの昔に自覚したものであるが。
「まさか、未婚のご令嬢の寝室を訪問なさるおつもりですか? 旦那さまご自身がおっしゃっておりましたでしょう。非常識だと」
かけられた声は、窘めるというより咎めるときのようなそれだった。
その通りだ、と頭の中で常識人ぶってみる。
しかし、我慢するのか、ともうひとりの自分が囁いた。この機会を逃せば、次にいつ時間が取れるかはまったくもってわからないのだ。それまでに、自分は耐えられるだろうかと。
――決断は早かった。
「ごめん。起こさないし、中にも入らないから」
「旦那さま!」大きな歩幅で歩き出すと、背後から小走りで侍女長が追ってくる気配がする。
「旦那さま! 入る入らないの問題ではございません! そもそも、ロズリーヌさまは最近、寝付きが悪いとおっしゃっておりました! 小さな物音でも目が覚めてしまうと――旦那さまが行けば、人の気配で起きてしまう可能性も……」
小さな声で叫ぶという芸当を見せる侍女長を振り返り、セレスタンは目を細めた。
「……寝付きが悪い?」
「あ、いえ、いろいろあって、緊張しているだけだとご本人さまから――」
「なるほどね。それはそうだろう。まあ、ドアの前までしか行かないし、物音には細心の注意をするとしよう。侍女長は下がっていて」
「ですが……」
「決して中に入らないと約束するから」
「ね」と圧をかけるように言えば、侍女長は肩をぴくりと震わせる。
侍女長はしばらくうろうろと視線を彷徨わせていたが、やがて囁くような声で「かしこまりました」と答えた。セレスタンは立ち去る侍女長の背中を見送ると、再び足を動かし始める。
結局、ドアの前まで行き、そこでわずかな時間を過ごしてから仕事に戻ったのだが――意外なことに、思ったよりも満足感があった。
このドアの向こうに、愛する人がいるのだと思えるだけで。
「――と、そういうわけで、とりあえずの無事は確認したし、直接顔を見に行くのは次の機会にと……いや、寝付きが悪いと聞いたから、よく眠れると評判の良いお茶などを贈ろうと思っていたところ、すぐにこちらでのことに駆り出されまして」
一息に話し終えたセレスタンに、ブルーノが頬を引き攣らせる。
――なんだ今のは。とんでもない惚気を聞かされたのか?
早口でいまいち聞き取れない部分もあったが、要は愛する婚約者との擦れ違い生活についてだった――ようである。
「……で、その手紙が今の話と関係あるということか?」
衝撃からなんとか立ち直り、ブルーノは訊ねた。セレスタンは、テーブルの上に伏せられていた紙を手に取り、宙に掲げて見せる。
「封筒の中に、二枚の手紙が入っていました。一枚はユーフェミア嬢、もう一枚は私の愛する婚約者からのものです」
「……お嬢さ――お前の婚約者の手紙を友人が纏めて送ってきたっつうことね。そりゃあ、まあ、なんというか……」
ややこしい事態になっているのだな、とブルーノは察した。
「ユーフェミア嬢の手紙にはたいしたことは書かれていませんでした」
でも、と話を続けながら、一枚の手紙を優しげな眼差しで見つめるセレスタン。ひとつひとつの文字をなぞるように視線を走らせる様を見て、ブルーノは「とんでもない男だ」と乾いた笑みを浮かべる。
「でも、ロズリーヌ曰く、私のほうにも何通も手紙を出していたみたいですね。返事はひとつもなかったと。私と同じで、忙しいだろうからとしばらくは遠慮していたが、流石に違和感を覚えて王宮に向かったところ、私がすでに王都にいないことを知ったということです。ここで初めて手紙自体届いていないのではということに思い至り、別の方法――つまり、友人の名で手紙を出すということですが――を取ることにしたのだと書いてありました」
王都を離れる旨、手紙に書いて伝えたはずだったのに、とセレスタン。これはもう、誰かの手が入っているとしか思えない。
婚約者を想う柔和な表情から一転、セレスタンは冷めた笑みを口元に描いた。
他人と一定の距離を取りがちなセレスタンにしては珍しく、ブルーノの前ではあまり取り繕ったりしないらしい。
特別親しいというわけではないが、この男には取り繕ってもすぐに見破られるだろうという確信があった。
(なんつうか、まあ……この領地にはあまり関係なさそうだが、よくこの男に喧嘩売るよなあ、とは……)
ある事件があり、一時期は酷く塞いでいたようだが、本来はヴェリアの王族に高く評価されるほどの男である。
まだ見ぬセレスタンの敵に、ブルーノは少しだけ同情した。
そして。
「ああ、ブルーノ殿」
酷薄な笑みを浮かべたまま、セレスタンは美しい顔を傾け――。




