【024】問題児が起こす問題とは
――「殿下!」
青空の下、子ども特有の高い声が響く。
パタパタと、二人分の軽い足音がそのあとに続いた。
「ねえ、やっぱりよくないんじゃないかな。見つかったら……」
一人の少年が、不安げに辺りを見回す。
「大丈夫ですよ。わたしたちのことなんて、誰も気にしてなどいやしません」
先を行く少女が、胸を張るようにして振り返った。「それに」付け足すように言いながら、少年の隣に並ぶ。
顔を覗き込まれた少年は、うっすらと頬を染めつつ少女を見返した。
「リンがたまには様子を見に行くようにって言っていましたし」
「……それはそう、だけど」
ね、と微笑み、少女は遠慮なく少年の手を取って歩みを進める。少年の頬がさらに色付いた。
「あ」
――目的地は、自分たちが普段過ごしている建物から少し離れた場所にある。
そこに辿り着いてすぐ、少女は思い出したように声を上げた。
「殿下、どうしましょう」
少女は困ったように小首を傾け、殿下と呼ばれた少年――エミールに視線を向ける。その視線を受けて、エミールは一度上を見た。
立派な木の上に、これもまた立派な鳥の巣が乗っている。
「この前、リンが来た時は簡単に登っていましたけれど、わたしたちでは一番下の枝までも届きません……」
「うん。でもその前に、一号いるかな?」
「呼んでみますか?」
「いや……大声を出して、誰かに気付かれたら流石にまずい……」
「……そうですよね」
少女――ロズリーヌは、エミールの言うことに同調してから、どうしたものかと頭を悩ませた。
ここは王宮の裏手だが、いろんな場所から死角になっているらしく、人目につかない場所でもあるのだ。リンという男がそう言っていた。
普段、エミールは王子宮から用もなく出ることを禁じられているし、ロズリーヌも似たようなものなので、王宮に近付いたということが露見すれば酷い叱責を受けることになる。
だが、誰もエミールとロズリーヌのことなど気にしていないというのも事実。
静かに移動しさえすれば、おそらく気付かれることはないのだ。ロズリーヌ付きのリンダだけは探し回るかもしれないが、ロズリーヌの立場を慮って、騒ぎ立てたりはしないだろう。
「城から梯子を拝借してこよう」
しばらく考え込むような素振りを見せていたエミールだが、やがて顔を上げて、意を決したような表情を浮かべる。
「梯子ですか?」
「うん。梯子を使えば、下の枝までなんとか届くかもしれないから、そこからは自力で登って、一号のところまで」
「……やっぱり、次にリンが来るのを待ちますか?」
リンを見ていた時は、ひょいひょいと軽く登っていたように見えたのに、いざ自分たちがそうしようと思うと、とんでもない難題に思えてしまう。
途端に弱腰になり、不安そうに瞳を瞬かせるロズリーヌに、今度はエミールが微笑んだ。
「僕が登るから大丈夫。たぶん……いけると思う」
そう言い残し、エミールは足早に、けれども人目につかないよう周囲を気にしながら、こっそり城に忍び込んでいく。
堂々と「大丈夫だ」と言った割に、早々に不安になったロズリーヌ。
やっぱりやめるべきかもしれない――そう思い直して、婚約者の後を追おうとすると、すでに婚約者は梯子を肩に担いで戻ってきたところだった。
「あの、大丈夫でしたか……」
「うん。誰にも見られなかったと思うよ」
普段はなにかと困った顔をしていることが多い婚約者だが、こういうときは頼もしく見える。
ロズリーヌはエミールを尊敬の眼差しで眺めて、「すごい」と感嘆の声を漏らした。
「でも、あんまり時間をかけたくはないから、早めに済ましてしまおう」
気恥ずかしげに頬を染めて微笑んだエミールが、木の幹に梯子を立て掛けながら言う。
「はい!」
ロズリーヌは意気込むように頷いた。
といっても、実際に登るのはエミールである。ロズリーヌはドレスを着ているし、運動神経に自信もない。
そう思うと、再び不安が膨れ上がってきた。
ここで怪我でもしたら、大変なことになるのではないかと。
「エミール殿下、やっぱり――」
「大丈夫だよ。木登りをするのは初めてじゃないし。梯子を登ることはあまりないけど……ここ、下のほうを押さえていてくれる?」
ロズリーヌの不安を感じ取ったのだろう。
エミールが安心させるように、柔らかい声で語りかける。
ロズリーヌは言われるがまま、梯子の脚を強く握り締めて固定した。
「よし……」
エミールが、一段、また一段と、梯子に足を掛けて登っていく。
やがて最後の段に辿り着き、そこから一番下の枝に乗り移った。少年一人分の体重で、枝の先端が大きく揺れる。
ロズリーヌは、恐怖のあまり目を瞑った。婚約者が落ちてくるのではないかと思ったのだ。
「あ、一号!」
しかし、その不安とは裏腹に、頭上からやや上擦った声が降ってくる。
おそるおそる瞼を持ち上げて上を仰ぎ見れば、エミールが太い枝に手を掛けて、巣の中に話しかけていた。それにホッとして、ロズリーヌは強張っていた肩から力を抜く。
「一号、久しぶり。以前、リンと一緒に来たことがあるのだけど、覚えているかな――それで、実は今、下に僕の婚約者も来ているのだけど、少し顔を出してくれない? 君と話しに来たんだ」
まるで人間同士であるかのように、エミールは語りかける。
傍から見れば滑稽な光景であろうが、一号の飼い主であるリン曰く「この子は自分が何を言われているか、しっかり理解しているよ。賢い子だから」とのこと。
そのリンが、自分を呼び出したいときは一号を使うように言ったのだ。そして、普段から顔を見せて、自分たちに慣れさせておくようにとも。
巣の中から「クルッ……」と一号の控えめな声が聞こえた。
それに、ロズリーヌが思わず笑みを浮かべた時。
「あっ――」
エミールの足が、枝からずるりと滑り落ちるのが見えた。
自分より広い背中が、自分めがけて降ってくる。やたらゆっくりと。
目をきつく閉じるのとほぼ同時、ロズリーヌの体を重い衝撃が襲った。
耳鳴りがし、頭がぐわんと回る。
酷い痛みを自覚したのは、すでに体を起こしていたエミールが「うわあ!」と声を上げた時だった。
「目を開けて! どうしよう――誰かを呼んで――いや、その間に何かあったら……っ」
パニックに陥っているのか、エミールの呼吸が激しく乱れている。
「嫌だ、ああ、どうしよう、お願い、僕を置いて行かないで……」
ついには涙交じりになった声に、ロズリーヌは眉根を寄せながら薄く目を開いた。
頭痛がする。
が、今は婚約者を宥めるほうが先だろう。
「殿下……」
弱々しく声をかけると、エミールはハッと息を止め、それからロズリーヌの体に縋りついた。
「ああ、ああ……痛みは? 動けそう? 無理なら、僕、君を背負って――」
「エミールさま、大丈夫です」
ロズリーヌは上体を起こし、ほろりと涙をこぼした婚約者の手を握り締める。
「大丈夫ですよ」
そう言ってやると、美しい琥珀の瞳が揺れた。
「大丈夫。わたしは絶対に、エミールさまを置いて行ったりしませんから。ずっと一緒です」
「――うん……」
自分たちはいずれ結婚するのだ。
形式張った政略結婚も多い中、こうして気の許せる相手であったことを幸運に思う。
ロズリーヌはささやかな幸せを噛みしめながら、婚約者に向けて微笑んだ。頭上から聞こえる、のんきな鳩の声を浴びながら。
――がたん。
「お嬢さま」
馬車の振動で、目を覚ました。
「……ああ」
――懐かしい夢を見た気がする。
欠伸を噛み殺しながらカーテンを開けると、景色が止まっている。いつの間にか、学院に到着していたらしい。
「よくお眠りになっていましたね」
心配そうに、リンダが眉を落とした。
「最近、いろんなことが立て続けに起こっていますから……早く旦那さまが帰っていらっしゃればよろしいのですけど」
そうね、とロズリーヌは心の内で頷く。
セレスタンとはいまだ連絡が取れていないのだ。
侍女長の不審な挙動を確認したあと、今度はユーフェミアに手紙を託すことにした。ユーフェミア経由であれば、届く可能性があると考えたのである。
ちなみに、一号にも会いに行った。
しばらく顔を見せていなかったからか、初対面の時のように警戒されたものの、それはまあ仕方がない。
「……リンダ」
ぼんやりと外を眺めていたロズリーヌが、おもむろに口を開いた。
「あれ、何に見える?」
心なしか、一点を見つめるその表情がげんなりしている。
リンダが主人の視線を追いかけると、そこには複数の女生徒が集まっていた。
そのうちの一人には、リンダも見覚えがあった。直接言葉を交わしたことはないが、要注意人物として姿絵を見せられていたからだ。
「……なにやら、口論をしているようですね」
「口論というか――いえ、行ったほうがいいと思う?」
行きたくないが、留学生を預かる立場として放置することはできない。
億劫な気持ちを隠すことなく溜め息を吐いたロズリーヌは、返事が欲しかったわけではないのだろう。リンダが言葉をかける前に、すでに立ち上がっていた。
「お嬢さま……」
「じゃあ、リンダ。迎えもよろしくね」
そう言い置いて、馬車を降りて行く。
そんな主人の背中をじっと見つめていたリンダだったが、ここで自分にできることは何もないと判断して、御者に馬車を出すよう頼むのだった。
(まったく、これで何回目かしら)
ロズリーヌが女生徒の集団に近付いていくと、そのうちのひとり――ドロテ・ランバルドの声がはっきりと聞こえてくる。
金属を擦り合わせたときのように甲高く、不快な声だ。ほとんど雑音である。
「この学院の生徒は、どうしてこうも物分かりが悪いのかしら! 本当にあなたは貴族の子なの? だとしたら、親はいったいどんな躾をしているのか……他国から来たわたしたちにそのような態度を取るなんて、一歩間違えれば国際問題よ? それをわかっている?」
まるでアディルセン側が悪いかのような物言いだが、これが言いがかりだということはわかる。
なにしろ、これまでにも何度か、このような争いの仲裁に入ってきているので。
「ドロテさま」
口の中に込み上げてきた苦いものを飲み込んで、ロズリーヌがさっと間に入る。
今回も、ドロテとその友人たち、そしてアディルセンの女生徒という構図だった。
「何か失礼がございましたか?」
正当な理由などないのはわかっているが、一応訊いてみる。
「こちらの方が、わたしたちの前を横切ったのよ。常識的に考えれば、他国から招待されたわたしたちに道を譲るものと思いますけれど」
まただ。
この理由でドロテたちが騒ぎ立てるのは、これが初めてではない。
――前を横切った。
なんなのだ、その訳のわからない理由は。
そもそも、ドロテたちは招待されてここにいるわけではないだろうに。
正確には、お呼びでないのに、大人数で半ば強引に押しかけてきたというほうが正しいのだ。
さらに言うなら、中心は自ら留学を希望したルフィナであって、ドロテたちはその付き添いという形である。使節団のオマケがルフィナ、そのルフィナのオマケがドロテたちなのだから、よくもまあこんなに大きな顔ができるものだと思う。
「ロズリーヌさま……」
ロズリーヌの背後で、ドロテに絡まれていた女生徒二人が不安げに声を上げる。
ロズリーヌは小さく微笑んだ。
「ドロテさま、何か問題がございましたらわたくしにまずお伝えくださいと、以前申し上げましたが」
というのも、ドロテは母国の言葉しか話せないのだ。
つまり、畳み掛けるように声を荒げたところで、女生徒たちはその内容を少しも理解していない。
(このようなことが起きて、あとあと被害を受けた生徒たちに、彼女が不満に思った点を説明すると、だいたい困惑させてしまうのよね……)
貴族同士ですらそんなルールはないのだから、当然である。
「だから、わたしも何度も言っているけれど、その場で言ってやらないと直るものも直らないじゃない」
「……彼女たちは、ヴェリア語が得意ではありません。言葉が理解できないのに、どう直せと言うのでしょう」
「それよ。この学院はわたしたちを受け入れると決めたのに、なぜ生徒たちにヴェリア語を覚えるように指導していないの?」
ドロテの駄目なところはいくつも思いつくが。
(―― 一番は頭が悪いことだわ)
この頃になると、ロズリーヌはもう「住む世界が違う人間なのね」と思うようになっていた。




