【023】あえてそれを選んだ
「――お帰りなさいませ」
城から帰宅すると、いつも通り複数名の使用人たちが頭を下げて待っている。
「ただいま戻りました」
現時点では、ロズリーヌはセレスタンの婚約者であり、ただの居候でしかないので、ここではまるでお客さま扱いだ。
使用人たちの勤務態度に問題はないが、彼らはみんなどこかよそよそしい。
しかし、それはある種当たり前のことではあるので、ロズリーヌが指摘したことは一度もなかった。
「ああ、あなたには少し聞きたいことがあるのだけど」
出迎えを終え、去って行こうとする使用人たちの中から、侍女長を呼び止める。
後れ毛の一本も残さず、きっちり髪の毛をまとめ上げているその女性は、訝しげな表情を浮かべながら立ち止まった。
「……何かございましたでしょうか?」
いかにも神経質そうな顔つきで、尋ねてくる。
ロズリーヌは、ホールにリンダと自分、侍女長以外の姿がなくなったことをさり気なく確認し、それから声を潜めて言った。
「今日、実は王宮に行ったのよ」
侍女長の顔が、不快そうに歪む。
当然だ。
今日、ロズリーヌは「買い物をしに行ってくる」と告げて出発したのだから。
普段、無意味に嘘を吐くような真似はしないが、今朝はなんだか咄嗟に嘘が口をついて出てしまった。もしかしたら、無意識に「何かおかしなことが起きている」と周囲を警戒していたのかもしれない。
といっても、馬車は伯爵家のものである。
御者が口を滑らせるかと少し不安になったが、人より馬を愛する寡黙な男は、特に何も言わなかったらしい。もっとも、ロズリーヌが侍女長に目的地を告げる場面を見ていないので、当然といえば当然だろう。
「……ロズリーヌさま、予定にない場所に行かれては困ります。今回は王宮だったからよかったものの、場所によっては警備などのことも考えなければならないのですから」
「それについては謝るわ。ごめんなさい」
「でも、なぜ王宮に? 旦那さまは忙しいとおっしゃっていましたのに……」
「ええ、そうね。とてもお忙しいみたいだった」
「そうでしょう。それで、旦那さまにはお会いできたのでしょうか?」
リンダが背後で静かに息を呑んだ気配がする。――あり得ない。
しっかりセレスタンと連絡が取れていたなら、絶対に出てこない言葉だ。
「それが……顔すら見せてはいただけなくて。相当余裕がないみたいね。あなたは何か聞いている?」
婚約者を心配するかのように眉尻を下げ、ロズリーヌは声のトーンを落とした。
「いえ、日々の業務連絡程度でございますね」
「その業務連絡はお手紙で届くのよね。直近で届いたものを、見せてもらえるかしら?」
「え?」
「少し気になることがあって……」
こういうのは、下手に誤魔化さないほうがいい。
ロズリーヌは、疚しいところは何もない、本当に気になることがあるのだというように笑みを浮かべる。
侍女長はほんの少し考える素振りを見せたあと、口を開いた。
「旦那さまからのお手紙のことなら、私に聞いていただければお答えいたしますのに」
「全部覚えているの?」
「ええ、まあ。といっても、何か特別なことでも起きない限り、私たちは通常通りのお仕事をするだけですので、たいしたことは書かれていなかったと思いますが」
「……そうなのね。では、聞いてもいい? 陛下のことで、何か書かれていなかった?」
――国王陛下。
その言葉を聞いた侍女長の顔色がサッと変わる。
「陛下、とは……国王陛下のことでございますか……?」
「ええ。先日、陛下から、現在お預かりしている留学生たちのことで直接お話があったのだけれど、その際、陛下がセレスタンさまから聞いてほしいとおっしゃっていたことがあったから」
こういうときのロズリーヌは強い。
嘘も方便とはよく言ったもので、すらすら流れるように『国王と面会し、直接言葉を賜ったうえに、セレスタンを通して業務連絡が来るはずだった』という事実が出来上がった。
一気に言い切ったロズリーヌは、一度間を空け、それから再び思い直したように言う。
「まあ、よく考えてみれば、そんなに大事なことを文字に残すわけがないわよね。変なことを聞いて、悪かったわ」
一方的に話を切り上げ、自室に向かおうとするロズリーヌに、「あの」と侍女長が声をかけた。
「その、国王陛下との謁見は、よくあることなのでしょうか……」
変な質問だ。
が、ロズリーヌは柔らかく目を細める。
「そうね。わたくしは王族の婚約者だったし、今でもある程度信頼していただけているのか、比較的簡単に謁見の許可が下りやすい立場ではあると思う」
これは事実である。
好き好んであの男の顔を見に行こうとは思わないが、今のところ、謁見の申請を拒否されたことはない。
「で、すが……ロズリーヌさまは、王子殿下に婚約破棄を突きつけられたと」
「それは流石に無礼すぎやしませんか?」
ここに来て我慢できなくなったのか、リンダが背後で声を上げる。
「リンダ」ロズリーヌは、自身の専属侍女を宥めるように言って、苦笑気味に侍女長を見返した。
「確かにあの夜、婚約破棄を叫ばれたのは事実だわ。だけど、普通はそれで、本当に婚約破棄になったりなんてしないのよ」
「え……?」
「だって、わたくしに非がないというのは、誰の目から見ても明らかだったもの。事実、国王陛下もそうお認めになっているしね。それでも『婚約破棄された』という状況になっているのは、わたくしがそう望んだからだわ」
「望んだ……?」
「あ、違いますよ。公の場で醜聞に巻き込まれて喜ぶような、そんな変態じゃありません、お嬢さまは」
補足するように、リンダが言う。
「婚約破棄でなく、解消にするか白紙にするかと陛下に希望を尋ねられ、悩んでいる間に、『婚約破棄をされた』という事実が、敵と味方を見分けるのに丁度良いと実感してしまい、嬉々としてそれを利用しようとしただけで――やっぱり変態だったかもしれません」
最初に与えられたのは、『婚約の解消』か『婚約の白紙』かの二択。
ロズリーヌ自身、そのどちらかを選ぶつもりだった。
しかし、国王自ら「時間をかけて悩めばいい」と言ってくれたので、その言葉通り、国王も驚くほどにじっくりと状況を見極めることにしたのだ。
ここには、婚約破棄のあとすぐにセレスタンと婚約したという事情もあった。
婚約者に捨てられた令嬢が、すぐに公爵家の人間と婚約する――。そうなったときの、周りの反応が見たかった。
そして、よくよく観察しているうちに気がついたのだ。
――これ、『婚約破棄された女』にしておいたほうが、見る目のない貴族を近付けなくて済むのでは? と。自分が伯爵夫人に、あるいは公爵夫人になったときのために、味方とそうでない者は、今のうちにある程度振り分けておきたい。
つい最近、ようやくそう回答したロズリーヌに、国王はたいそうおかしそうに肩を震わせた。
(まったく、あえてそれを選ぶなんて。……だから陛下にも気に入られてしまうんだわ)
堂々と立つ主人の背中を見つめながら、リンダは口の中で溜め息を吐いた。
いつの間にか随分強くなった――なってしまったものだ、と。
「そんな……」
侍女長は、呆然とした様子で何度か瞬きを繰り返した。
その表情が何を意味するかまではわからないが、おそらく、ロズリーヌの婚約破棄は噂程度でしか知らなかったうえに、すべての噂を鵜呑みにしていて、王族と謁見できる立場を維持しているとは思っていなかったのだろう。
思惑は見えずとも、ロズリーヌのそばに国王という権力があるのは、恐ろしいに違いない。
リンダと共に今度こそ自室に戻ったロズリーヌは、部屋着に着替えてから、ソファに深く腰を下ろす。今日はなんとも長い一日だった。
疲労感がドッと押し寄せる。
「お嬢さま、今すぐにこの屋敷を出るべきです」
紅茶を淹れ、カップをロズリーヌの前に差し出したリンダは、強張った表情でそう切り出した。
「侍女長のあの様子を見る限り、なにかしらには関わっていると思います」
「……そうね。わたくしもそう思う。でも、どこまで関わっていて、いったい何をしようとしているのか……見当がつかないから、こちらも動きようがないわ。わたくしとセレスタンさまの邪魔をして、何か得をすることがある? わたくしを排除して、セレスタンさまの婚約者の座を奪いたい誰かがいるとか? それにしては、やり方が幼稚だけれど」
「お嬢さま、この際、相手の目的はいったん置いておきませんか? 重要なのは、得体の知れない相手が、お嬢さまに害を加える可能性があるということです。今は旦那さまもいらっしゃいませんし」
「学院で受け取っている、あの不気味な手紙とは無関係かしら。こんなにも立て続けにいろんなことが起こると、すべてのことがつながっているんじゃないかという気になるわね」
「お嬢さま!」
小難しい表情を浮かべながらも、ロズリーヌはどこか生き生きとして語る。
首を突っ込む気満々の主人に、そういえばこの人は意外と無茶をするんだったと、リンダはめまいを覚えた。
「侍女長の発言にしても、誰かがセレスタンさまの名を騙り、実際に手紙を届けたという可能性はある。彼の字って、意外と癖がなくて真似しやすそうだもの」
「お嬢さま……」
リンダはほとんど半泣き状態である。
「でも、まあ、様子がおかしかったのは確かだし。やっぱり手紙自体受け取っていないとわたくしは見ているのだけど、リンダ、あなたはどう思う?」
「……私もそう思います」
じっとりした目をロズリーヌに向けながら、リンダは答えた。
こういうときの主人には、何を言っても無駄なのだ。長い付き合いだからこそ知っている。
「――わかりました」
やがて、リンダは諦めたように頷いた。
「わかったって……リンダ?」
「お嬢さまは、こうと決めたら一直線。昔からそうですが」
「……それは……いつも付き合わせて、申し訳ないとは思っているのよ」
「だからといって、改めるつもりもないのでしょう。いいのです、それがお嬢さまの魅力で――時に、誰かを救うこともあるのですから」
「リンダ……」
「ですから、わかりました。侍女長のことを調べてみましょう」
こうと決めたら譲らない。
それはリンダも同じである。
「調べる? 詳しい経歴は、雇用時に伯爵家でも調査していると思うわよ」
「でも、他家からの紹介状を持参していて、生家が明らかだった場合は、問題なしと見なされることがほとんどです。身元がしっかりしていて、過去に大きな問題を起こしていなければ、だいたいは採用されるんですよね。仕事ぶりも、紹介状に記載されているはずですし。あの侍女長は、すでに没落した伯爵家のご令嬢だったと記憶していますが、一度調べてみる価値はあると思います」
切り替えの早さに、ロズリーヌは内心で拍手を送った。――流石、わたくしの侍女だわ! と思って。
「……といっても、残念ながら、私たちの今の立場では、表面上の情報しか手に入らないでしょうね」
「ああ、なるほど」
ロズリーヌには、リンダの言いたいことがわかってしまった。
頭の中に、ある男の憎たらしい顔が浮かぶ。
「――あの人に頼むのね?」
リンダはやけに神妙な面持ちで頷いた。
「嫌ですが。……お嬢さまのことであの男に借りを作るのは、とっても嫌ですが!」
あの男。
それは、ロズリーヌが幼い頃から贔屓にしている商人のことだ。いや、実際に商人であるかは知らない。本人が『商人だ』と名乗ったから、それ以外に男を表す言葉がないだけで。
物は売っているし、どれも価値の高そうなものばかりなのだが、供のひとりも連れず、いつもふらりと現れてはふらりと去って行くのである。
最後に会ったのは、二年ほど前のことだった。
(確かに、彼は『なぜこんなことを?』と思うような、他人の情報を握っていたりするのよね)
曰く、商人の嗜みということらしい。
ロズリーヌも、その情報とやらに助けられたことはある。情報源はいったいどこなのか――ロズリーヌからしても、謎の多い人物だった。
「まあ、悪い人じゃないわ。たぶん」
「……それは知っています。だからこそ、腹立たしいんじゃありませんか」
思い出しただけで頭痛がするのか、こめかみを指で押さえながら言うリンダ。しかしすぐに、気を取り直したように軽く咳払いをする。
「一号を使いましょう」
その提案に、ロズリーヌは強く頷いた。
『一号』というのは、神出鬼没な商人を呼び出すために使われる鳩の愛称である。
どのようなシステムになっているのかは知らない。
けれど、ロズリーヌがまだ幼い頃、件の商人が言ったのだ。「自分が必要になったら、そのときは一号を使うように」と――。
ロズリーヌは、窓の外に視線を向ける。
「また、行かないとね」
その鳩は、王宮にいる。
しばらく様子を見に行っていないが、必ずそこにいるという確信じみた思いがあった。
更新、ギリギリになってしまい申し訳ありません……!
(……もう少し更新ペースをあげたい……)




