【021】『ローズ義姉さま』
――ヨエル。
その名前を聞いて、ロズリーヌはハッとした。
ヨエル・リナルド・ジャン・オベール。
エミールとアーロンの歳の離れた――エミールにとっては同じ母を持つ、そして、アーロンにとっては母の違う弟だ。
「いえ、ここしばらくはお会いしておりません」
ロズリーヌは端的に答えながらも、唐突にあの幼い王子のことが心配になってきた。
ヨエル王子は、エミールの同母弟というだけあり、アーロンに比べると親しくしていたと思う。
控えめな笑みを浮かべ、『ローズ義姉さま』と呼んでくれるのが可愛かった。
「あの、ヨエル殿下に何か……」
一度不安が芽生えると、それはむくむくと膨れ上がる。声を潜めて訊ねてみると、アーロンは困ったような表情を浮かべ、顔を近付けてきた。
内々の話にするほどではないけれど、あまり大声で言いたくない――。
そんなところだろうか。
「実は、元気がないんだ」
「……元気が?」
「いや、元気というと語弊があるかな。どうも、誰とも話そうとしないらしい」
「え……」
そんな、と思う。
ロズリーヌの知っている王子は、少々内向的ではあるけれど、無邪気な笑みを浮かべて話しかけてくる子どもだった。
「いったい何が?」
「それが、原因がわからない。食事もなかなか進まないようで、困った使用人たちが上に報告を上げてきた。ヨエルは君を姉のように慕っていたと聞いている。もし最近会っていたら、何かわかるんじゃないかと思ったんだが……引き留めてすまなかった」
――誰とも話そうとしないらしい。
――使用人たちが上に報告を上げてきた。
アーロン自身は、直接異母弟の様子を見に行っていないということだろう。
訊きたいこととはそれだけだったのか、「じゃあ」と踵を返そうとしたアーロンを思わず呼び止める。
「あの……」
「ん?」
「近々、ヨエル殿下にお会いしてみようと思います。ご迷惑でなければ」
ロズリーヌが躊躇いがちに言うと、アーロンは目を細めて頷いた。
(お会いしてみる、とは言ったけれど……)
人気のない廊下に足音を響かせながら、ロズリーヌは重く息を吐き出した。
『近々』という意味で言った『会いに行く』に、アーロンは「用事さえなければ、このあとすぐにでも行ってやってくれ」と頼んできたのだ。
流石、優秀だと噂の王太子。
言葉の隙を突くのがうまい。
「それにしても」
無言で足を進めていると、これまで沈黙を保っていたリンダ――実は、先ほども部屋の隅に控えていた――が口を開く。
「旦那さまがいらっしゃらないとは、どういうことでしょう……」
「……そうね」ちらと背後を一瞥して、ロズリーヌは頷いた。
――やはり可笑しい。
セレスタンが、ひとつの連絡も寄越さないまま、長く留守にするなんて。
「今までも、屋敷のほうには連絡をいただいていたのよね?」
新たに発覚した事実に、互いに困惑した空気を漂わせる。
「ええ、そのはずですが……」
「そうよね。屋敷の使用人たちもそのような雰囲気だったもの」
現在、ロズリーヌが世話になっているアンドレアン邸には、多くはないが、決して少なくない使用人がいる。
セレスタンから便りが届かないことで、心配になったロズリーヌは、まず屋敷の使用人たちに確認を取った。彼から連絡はあるのかと。
というのも、婚約者に対して私的な手紙を送る余裕はなくとも、屋敷の使用人たちと連絡を取り合うのは、屋敷内の仕事を円滑に進めるうえで必要なことだからだ。
しかし、彼らの答えはそろって――「問題ない」。つまり、問題なく連絡が取れていると、ロズリーヌはそう解釈していた。
「リンダ、あなたはなんて聞いていたの?」
「おそらく、お嬢さまが耳にしていたことと同じです。旦那さまと連絡は取れているから問題ないと」
「……セレスタンさまと連絡が取れている。そうはっきりと聞いたのね?」
「ええ、はっきりと」
なら、ロズリーヌの勘違いなどではないはずだが、セレスタンの不在を、誰もロズリーヌに教えなかった。それだけでなく、リンダにもだ。
単に報告を怠っただけか、それとも――。
そう思うが、今ここで話し合っていても答えは出ないだろう。
(最近、何かが起こっては、解決しきっていないうちに次の問題が浮上しているような気がするわ……)
エミールのこと――これは精神的な問題である――といい、セレスタンの突然の長期的な留守といい、留学生のことといい、謎の脅迫めいた紙切れといい、不可解なエジェオとドロテの関係といい、ヨエルのことといい。
問題の対処を得意とするロズリーヌでも、流石に辟易としてしまう。
「お嬢さま……」
そんなロズリーヌに、リンダが気遣わしげな声を掛けた。
その時。
「――ロズリーヌさま!」
廊下の反対側から慌ただしく近付いてきた人影が、ふと足を止めた。
家族とリンダ以外の女性に大声で呼ばれることは滅多にないので、ロズリーヌは思わず相手の顔を凝視してしまう。
見覚えがあるような――ないような。
いや、しかし、二人の進行方向から来たのだから、ヨエルが暮らしている王子宮の使用人かなにかだろう。このあたりには人気がないが、それは王族の居住エリアが近いからだ。
「あ、あ、わたし、ヨエル殿下のもとで働かせていただいておりますけれど!」
十代半ばというところだろうか。
王子妃になる予定だったロズリーヌを前に緊張しているらしく、彼女は妙に力の入った言葉遣いで話し始める。鼻の中心に散っているそばかすがなんとも可愛らしい。
「ええ、そんなに急いだら転んでしまうわ。どうかしたの?」
ロズリーヌは、必要以上に怖がらせてしまわないよう、努めて優しい口調で訊ねた。
彼女が、顔を赤らめながら再び口を開く。
「あの、ロズリーヌさまのことは、ヨエル殿下と一緒にいらっしゃるのを何度かお見かけして! 存じておりましたのですけど!」
「そうなのね。それで声を掛けてくれたの?」
「いえ! あの、ああ! そうなんですが! ヨエル殿下が、どこかにお隠れになってしまい!」
「――おい、エマ!」
どうも要領を得ない話に、ロズリーヌが心の内で首を傾げていると、今度はひとりの騎士らしい人物が走ってきた。
『エマ』と呼ばれた彼女を目がけ、一直線。
「バルト……」
親しい間柄なのか、広い歩幅で近付いてくる若い騎士の男をそう呼び、エマが振り向く。
バルトは、エマの目の前までやって来ると、ようやくロズリーヌとリンダの存在に気がついたのか、みるみるうちに表情を強張らせた。
「なっ、おま、な……!?」
エマと似たり寄ったりの反応である。
ロズリーヌは思わず目尻を下げた。――どうしましょうこれ、と。
「お二人とも、いったん落ち着きましょう。ヨエル殿下に何かございましたか?」
リンダが一歩前に出る。
ロズリーヌが相手だと、過剰に緊張してしまうようなので。
「あ、っええと……はい」
今度はバルトが神妙な面持ちで頷いた。
「実は、最近、ヨエル殿下の姿が見えなくなることがあって」
「姿が見えない、とは?」
「どこかに隠れておられるのだと。ただ、我々が殿下を見つけられたことは一度もなく、しばらくすれば、ふらりと戻ってこられるのですが……」
よくあることだからといって、探さないわけにはいかない。
ヨエルは仮にも王族の身。何かあれば、責任を取らされるのは王子宮の使用人たちなのだ。場合によっては、家族にまで影響が及んだうえ、使用人総入れ替えなどということもあり得る。
「今まで、よく大事にならなかったわね」
「わ、私は末端の人間ですので、なぜかはわかりませんが……陛下はご存知なのではないかと」
「……まあ、そうよね」
事件性はないと判断しているのだろうが、また放置か――とロズリーヌは口の中で息を吐いた。
背後で、リンダも苦いものを飲み込んだような顔をしている。
「わかりました。わたくしも探してみます」
気を取り直すように、ロズリーヌは宣言した。
若い二人の目が丸くなる。
「ええ!? ですが……」
「丁度、これからヨエル殿下をお訪ねしようとしていたところだったの。ねえ、リンダ?」
「はい。私も一緒に探します」
それからロズリーヌは、恐縮する二人に「王宮では、緊急時以外走らないように」と注意をしてから、リンダと共にヨエルを捜しに向かった。
特に、王族の居住エリア付近でそれをすると、王族の誰かに何か異常があったのかと大変なことになる可能性があるのだ。
「あの、お嬢さま、ヨエル殿下を捜しに行くのでは……?」
「ええ、行くわ」
「ですが、ええと……」
困惑する侍女に柔らかく微笑み、ロズリーヌは迷いのない足取りで進む。
城と王子宮をつなぐ渡り廊下を横に逸れ、庭――とは流石に言い難い、自然のまま放置された木々の間を縫って歩いた。
「――お嬢さま?」
まるでステップを踏むような軽さで歩く主人の後ろ姿を見つめながら、リンダが低い声で言う。
ロズリーヌはぎくりと背中を強張らせた。
「王族の婚約者だった――いえ、侯爵令嬢でもあるあなたがわざわざ立ち入る場所でもないでしょうに、随分と慣れていらっしゃいますね」
「……ええと、そうかしら?」
「お嬢さま」
長年、仕えてきたからわかる。
この主人には、侍女には言いづらい疚しいことがあるのだと。
家族が酷かっただけに、これでも保護者のような気持ちでいたのだ。
問い詰めるように呼び掛ければ、ロズリーヌは観念したとばかりに苦笑した。
「ヨエル殿下は、この先にいらっしゃると思うわ。たぶんね」
「……この先ですか?」
この先といっても、今のところ、草木が乱雑に生い茂っているだけである。
リンダは疑わしげに辺りを見回した。
「実はね、一番最初にこの場所を見つけたのは、あの人だったのよ」
ロズリーヌの言う『あの人』とは、元々の婚約者のことを指している。
「あのお方が?」
「そう。それでね、小さい頃に、わたくしにも教えてくださったの。例えば嫌な気持ちになったときに――つまり、ひとりになりたいときということだけれど――そこに行くのですって。まさか王族の子どもが、こんな道すらない場所を通って来るとは誰も思わないから、案外見つからないとおっしゃっていたわ。そのお話を聞いてからは、わたくしのことも、たびたび招待してくださるようになって」
「お嬢さま、いつの間にそんなことを……」
「授業の合間に、ちょこっとね」
「え、ということは、まさかその場所のことをヨエル殿下にお教えしたんですか?」
呆れたように、あるいは、まるで「お前が元凶か」とでも言いたげに訊ねてくるので、ロズリーヌは「そんなわけないでしょう」と肩を竦めた。
「兄に似たのかしらね。いつだったか、ヨエル殿下ご自身で見つけられたのよ。ご本人曰く、いかにして護衛を撒けるかという遊びをしていたら、偶然見つけてしまったということだったけれど」
「あのヨエル殿下が?」
鬱蒼とした雰囲気だったところに、うっすらと光が差してくる。
ロズリーヌは微笑を湛え、目を細めた。
「まあ、基本的には大人しいお方だものね。信じられないのも無理ないわ。でも、意外とやんちゃな子なの」
――さあっ。
ほんの少しの冷たさを纏った風が、胸元まで垂らされたロズリーヌの髪の毛を巻き上げる。
「――ねえ、ヨエル殿下」
そこにあったのは、円を描くようにして広がっている空間。
頭上を覆うようにして生えた樹木の葉の隙間から、木漏れ日が降り注ぎ。
草花は風に揺られ、さらさらと音を立てる。
「ローズ義姉さま……?」
一際目立つ樹の根元で、蹲るようにして膝を抱えていたヨエルが、顔を上げた。
元が美しい少年なので、柔らかい光に照らされると、神秘的にすら見える。
「ええ、ローズ義姉さまが参りました。ヨエル殿下」
空を映し出したような青い瞳を目いっぱいに開き、その大きな瞳からぼろぼろと大粒の涙を溢し始めた。
「ローズね――義姉さま!」
飛び跳ねるように立ち上がり、ロズリーヌのもとに駆けてくるヨエル。
腰をかがめ、小さな体を腕の中で受け止めると、ロズリーヌは震える背中をそっと撫でる。
「大丈夫ですよ、大丈夫……」
そうして、ヨエルが落ち着きを取り戻すまで、ロズリーヌは根気強くその体を抱き締め続けたのだった。




