【002】序幕(2)
「すべての講義が終わり、僕はダニエラとの待ち合わせ場所に向かった。ダニエラは……確かにそこにいた。でも、様子がおかしい。どこがと問われてもわからない。ただ、なんとなくいつもと違うなと僕は思った」
――ここにきて、唐突な物語調である。
教師の女は無表情の中に、やや困惑の色を滲ませていた。いや、呆れの色といったほうが正しいかもしれないが。
「最初、訊いても何も答えなかったよ。ダニエラは。何か恐ろしいことが起きたのだと――僕は直感した。確信を持ってもう一度尋ねてみると、ついに彼女は言った。何者かに階段から突き落とされたのだと!」
「何者かとは……」
口を挟もうとした教師の言葉を遮り、「しかし!」とエミールが叫ぶ。すっかり自分の世界に入り込んでいるようだ。
「それがいったい誰の仕業だったのか、彼女は口を噤むばかりで何も言わなかった。それこそ、まるで誰かを庇っているような頑なさだったが……しばし問答を繰り返したのち、彼女はやっと頷いてくれたんだ。『もしかして、それは僕の婚約者かい?』という問いかけにね」
エミールが「怖かっただろう」と優しくダニエラの腰を引き寄せる。ダニエラは「もう、終わったことですから……」と弱々しく微笑んだ。
(白々しいのは彼女のほうだわ……)
ロズリーヌは呆れ半分、諦め半分の境地で、自身の婚約者を誑かした女を眺めていた。なんとも言えない茶番である。
「殿下、そろそろ口を挟んでもよろしいかしら?」
ふと、教師の女が一歩前へ出た。
先ほどまでかろうじて保たれていた王族に対する敬意が、いつの間にか消えている。エミールが許可を与える前に、彼女はすでに話し出していた。
「その……ダニエラさま、とおっしゃったかしら。彼女が突き落とされたのが『すべての講義が終わったあと』ということなら、間違いなく、ロズリーヌさまは関係ございません」
「……なに?」
「ロズリーヌさまは、午後は学園にいらっしゃいませんもの」
ロズリーヌは、静かに瞼を伏せた。
「午後はいない? そんなわけ……」
「ロズリーヌさまは、午後は王宮にいらっしゃいます。妃教育も大詰めでしたから。ロズリーヌさまがご卒業されるのはまだ先ですけれど、殿下のご卒業と共に、少しずつご公務をこなされる予定でしたので……学院で学ぶ範囲は、昨年のうちに終わらせているはずですわ。にもかかわらず、午前だけでも学院に通い続けていらっしゃったのは、人付き合いの中にも学ぶものがあるからです」
今年の卒業パーティーには、エミールの婚約者として参加しているが、ロズリーヌ自身の卒業は来年である。自身に非がない――とロズリーヌは思っている――婚約破棄のあと、学院に通う貴族子女たちからどんな目で見られるのかと思うと、気が重たくなった。が、それは今考えることでもないだろう。
教師はさらに言葉を重ねた。
「午前の講義を終えて、すぐに王宮へ上がられるロズリーヌさまが、本当に『すべての講義が終わったあと』に彼女を階段の上から突き落としたと?」
エミールが、見るからに言葉を詰まらせる。
「階段から突き落とす……となれば、さすがに物証を用意するのは難しいでしょうが、目撃証言ぐらいはあるのでしょう?」
「あ、いや……」
「ご聡明な殿下のことですもの。用意していないはずはないわ」
「ダニエラが、そうだと」
「まさか、被害者の証言のみでそうだと確信されたのですか?」
「……被害者の証言が一番重要だろう」
「そうとも限りませんわ。被害者というのは、往々にして主観が入るものですし。故意でなくとも、勘違いをすることだってあり得ましょう」
どう切り返せばいいのかわからなくなったのだろう。
エミールが、わずかに不安の色を滲ませてダニエラを見た。
「ダニエラ。君からもはっきりとここで証言してくれ……」
たとえ公に証言したとして、貴族たちが抱くダニエラに対する心証が変わるわけではないのだが、エミールはもはやそれに縋るしかなかった。
それに対して、ダニエラはいまだ自分が優勢であると信じているらしかった。弱々しく見せる表情に加え、今はうっすらと涙すら浮かべている。こぼれるか、こぼれないか。絶妙な塩梅だ。
「あたし、怖くて……! それまでも、物を奪われたり壊されたりしていたんですけど、ロズリーヌさまの行動はそれだけに留まらず、どんどん激しさを増していきました。それで、ついに階段から背中を押されて……」
「背中を押された。つまり、少なくともあなたは前傾姿勢で落ちてしまったわけよね。それでどうやって犯人がロズリーヌさまだと断定したの? もし仮にロズリーヌさまが関わっていたとして、そんな悠長に落ちるのを見届けてから逃げる、なんていうことがあるかしら」
「あ……それは……落ちたあと、咄嗟に後ろを振り向いたら金色の髪の毛が見えて!」
「……ロズリーヌさまほど見事な金髪は稀かもしれないけれど、金髪自体はそう珍しくないわよね。それを見間違えたということはない? 確実にロズリーヌさまだと断定した理由は?」
「え、っと……」
「それに、階段から落ちた、のよね。怪我はしなかった? 一般的には、念のために救護室に行くものだと思うけれど。誰かに落とされたというなら、それこそ証拠は取っておきたいもの」
まさか、これだけの言い分で信じてもらえると思ったのだろうか。――思っていたのだろうな、とロズリーヌは口の中で溜め息を吐く。
「夫人。もしかしてダニエラが嘘を吐いていると?」
恋人が詰問されるのを見ていられなかったのか、エミールが口を挟む。しかし、教師は口元に笑みを浮かべたまま、話を続けた。
「殿下こそ、なぜ確たる証拠もないのにロズリーヌさまを一方的に糾弾しようとなさるのでしょう? 殿下とロズリーヌさまの不仲は公然たる事実。見ようによっては、邪魔になったロズリーヌさまを婚約者の立場から引きずり下ろそうとしている……というふうに思われても、致し方ないやり方ではないですか」
「夫人、それは――!」
教師の口調、あるいは物言いは、王族に対する不敬とされてもおかしくないようなものだったが、教師はあえてそれをしているようだった。完全に見限ったのだ、とロズリーヌは悟る。
不敬という言葉が驚異でない段階にまで来ているのだ。すでに。
「認められるか否かは別にしても、ただ婚約を解消なさりたいだけなら、陛下を通すべきでは? それをこのように、多くの目がある状態で婚約破棄の宣言などと……」
「……でも、人の目がないと、ロズリーヌさまが罪を認めてくれないと思って!」
圧倒的に不利な状態でも、ダニエラは強気に言い返した。皆平等を謳う学院内とはいえ、躊躇いなく王族に近付く女性だ。精神的にとても強い人間なのだろう。
ダニエラの甲高い叫び声に、教師は不快そうに目を細めた。
「ですから、ロズリーヌさまの罪とは?」
「え? だから、階段から……」
「それは結局、証明できなかったでしょう。金髪の女性というだけでは不十分です。そもそも、午後は学院にいらっしゃらないというのに、どうやってあなたに危害を加えると?」
「……もしかしたら、ロズリーヌさまの取り巻きの人たちだったかも」
「わたくしもすべての交友関係を把握しているわけではないけれど、ロズリーヌさまに『取り巻き』などというものはおられませんよ」
「じゃあ、友達――」
「ご友人。なるほど。では、なぜ最初から『ロズリーヌさまではなかったかもしれない』と言わなかったのかしら。あなたは最初、まるでロズリーヌさまが犯人であるかのように証言したわ」
「……それは……」
「それに、階段の件だけではなくってよ。物を奪われたり壊されたり、他にもいろいろと――だったわね。証拠はどこに? 目撃者は?」
自分のことだというのに、ロズリーヌはすっかり置いてけぼりを食った気分になっていた。
教育係を務めてくれているこの女性は、貴族らしいところもありつつ人一倍正義感が強いので、ロズリーヌが信頼を置く人物の一人ではあるのだが。
今は、自分の教え子を守らなくてはならないという正義感に駆られているのに違いない。
「あ、これ、これは物証があるわ!」
水を得た魚のように、ダニエラの瞳が輝く。首にかかっていたチェーンを引っ張り出すと、その先から宝石が飾られた指輪が出てきた。
いったいそれがなんなのか、と教師が片方の眉を持ち上げる。
「ああ、これは……ロズリーヌに踏まれたと、ダニエラが泣きながら持ってきた」
「……ロズリーヌさまが踏みつけた? その現場を、どなたかが見ていたと?」
「あたしです! その時も金髪の女の人が逃げていく後ろ姿しか見えなかったけど……髪の毛の長さといい、ロズリーヌさまだと思います!」
「……そんなこと、していないわ」
ロズリーヌは小さく呟いたが、話の中心であるはずの彼女は、なぜだかすっかり蚊帳の外である。
「ちょっと見せてくださる?」
教師は足早にダニエラのもとまで行くと、そっと指輪に顔を近付ける。
「これは、あたしが持っているものの中で一番高価だったから。だから、ロズリーヌさまはあたしを傷付けようとして……!」
やっとわかってもらえると思ったのだろう。訊かれていないことまで話している。
なんとも前向きな女性だ。
しかし、顔を上げた教師は、「これをロズリーヌさまが壊した? しかも、その理由が高価だから?」と口角を持ち上げた。
「え……」
「この程度のもの、ロズリーヌさまは見慣れているでしょう。だいたい、ロズリーヌさまが普段使いしているものですら、もう少し価値の高いものだわ。そんなロズリーヌさまが、これを『一番高価な』と思うわけがございません」
つまり、例えばロズリーヌが商人にこれと同じものを差し出された場合、「まあ、なんてお安いの!」と感動し、けれど手は出さないだろうなという程度のものである。
ダニエラは愕然とした。
自分の中では、間違いなく人生で一度か二度、手にできる高価なものだったからだ。
上には上がいるとわかってはいたものの、上級貴族の――それも同性の知人などいない。彼女たちの価値観をまったく理解していなかった。
「でも……それは『犯人がロズリーヌさまじゃない』という証拠にはならないわ!」
苦し紛れに反論する。
「ええ、そうね」
思いの外、教師もあっさり同意した。
しかし、そのあとに言葉が続く。
「けれど、『ロズリーヌさまだ』という証拠もない。それに加えて、あなたは『階段から突き落とされた』と証言する際、矛盾ばかりの発言をしている。この状況で、誰があなたを信じるというの?」
今度こそ、ダニエラは黙り込んだ。
(いったい、どうするのかしら……これ)
もはや完全に他人事になっていたロズリーヌは、力なくそこに佇んでいた。呆れや諦め以上に、虚しさがじわじわと体を蝕んでいく。
なんだか、泣き出したい気分だった。無論、厳しい妃教育の成果が、そうさせてはくれなかったが。
「――第一王子、エミール・イェルド・クリスティアン・オベール」
やがて、低い声が空気を震わせた。
威厳のある、何人たりとも逆らってはならないと感じさせる声。
体が自然と動き、ロズリーヌは低く腰を落とした。最上級の礼である。
目の前の、国王陛下に向けて。
「陛下……」
エミールが呆然と呟く。
(なぜ呆然?)
ロズリーヌは素直に心の内で首を捻った。
卒業生の父親であるという以上に、ここにいる貴族子女の多くは当然、大人の貴族になるのだ。国王は、社交界の仲間入りを果たす彼らを祝うため、卒業パーティーには毎年足を運ぶ。それは今年も例外ではない。
いつも途中から会場入りするので、今回もその手筈になっていたのだろう。どのあたりからかはわからない。けれど、この茶番を会場の外から聞いていたのである。
だからこそ、ロズリーヌは最初「陛下がいらっしゃってから」と提案した――。
「面を上げよ」
国王の声に、ゆっくりと姿勢を戻す。
(アーロン殿下……)
国王の後ろには、第二王子であるアーロン・カリスト・ラファエル・オベールがいた。
(……もう、駄目なのね)
ロズリーヌと目が合うと、アーロンは苦笑気味に視線を逸らした。この先どうなるか、彼らの間ではすでに話し合いが持たれていたのだろう。
本来、ここにいるはずのない第二王子が国王に付き従っているというのは、そういうことだ。
もうロズリーヌにできることはなかった。
「陛下って……王さま?」
誰に向けられたものでもない間の抜けた問いかけは、やけにこの場所に響いた。さすがのエミールも「ダニエラ!」と小さく注意をするけれど、もう遅い。
「不敬である」
それがすべてだった。
その一言で、エミールとダニエラの周りを近衛兵が取り囲む。禍々しい雰囲気に、ダニエラは戸惑いを隠さずに「えっ、なに!? え!?」と目を見開いた。
基本的に、この国では女性の場合、礼は相手への誠意を表すもの。こと相手が国王ともなれば、それは忠誠心の表れとも考えられる。つまり、礼をしないということは、国王を敬うべき存在として認めていないという意思表示でもあるのだ。
年齢も関係ない。幼子であっても、礼をできない状態であれば、子ども同士の茶会ですら出してはもらえない。
そんな大事な礼を、ダニエラは怠った。不敬である。
「陛下!」
焦ったように、エミールが悲鳴のような声を上げる。腐っても第一王子。ゆくゆくは王太子になるだろうと思われていた人。
王族によるその言葉の重みをよく知っている。
「ダニエラは、まだ貴族になったばかりでして……!」
聞き覚えのある言い逃れに、ロズリーヌは視線を落とした。
ダニエラとエミールが親しくなり始めた頃、ロズリーヌは何度かダニエラに注意をしたことがあった。婚約者のいる男性に、みだりに近付くのはよろしくない。貴族には貴族なりの規律があるので、自分のためにもできるだけ早く学ぶべきだと。
しかし、返答は毎回同じだった。「貴族になったばかりで、そこまで求めるのは厳しすぎる」と、エミールが。ロズリーヌは仕方なくそこで引き下がったが、王子より立場が上である国王にはその必要がないのだ。
「その娘のことは知っている。報告に上がっているからな」
「……報告?」
「ふらふら、ふらふらと。今のお前に信用などというものがあると思うか。お前の行動は逐一報告させていた」
「そ、んな……」
「そのうえで訊くが――お前の家に私が男爵位を授けたのは、いつだった?」
突然水を向けられたダニエラが、「あ……」と一歩足を引く。
「答えよ。いつだったか」
怯えるダニエラにも、国王は容赦がない。
ロズリーヌや教師が相手であれば、エミールが代わって受け答えする場面かもしれないが、相手が国王で、ダニエラに直接声をかけているのだから、そうするわけにはいかないのだろう。
「……二年前、です」
「二年前か」
ロズリーヌたちは生まれた時から貴族の子で、幼い頃から厳しい教育を受けてきている。ある程度成長した段階から、突然貴族のように振る舞えと言われても、それは難しかったはずだ。
だが、それももう二年前。
決して『貴族になったばかり』と言い訳に使えるような期間ではない。そもそも、ダニエラに学ぶ意欲すらなかったことは明白である。
国王は不快に思っている様子を見せるでもなく、ただ淡々と短く切り返す。そして次に、息子に視線をやった。
「どう思う、エミールよ。二年の間に礼のひとつも学べなかったのは、貴族になったばかりだからか」
「それは……」
言い返せないでしょうね、とロズリーヌは思った。
アディルセン王国において、貴族子女がまず学ばされるのは相手に対する礼だ。幼子でも身につけているようなことを、貴族学院に通う年頃の人間ができないはずはない。
いくらか聞き分けのない子どもだって、礼を学ぶために何年もかけたりしないのだ。
「――この二人を捕らえよ」
これ以上会話を続けるつもりはないとばかりに、国王が近衛兵に指示を出す。
ダニエラは逃げ出そうとしたが、エミールは紙のように白い顔で周囲を見回したあと、ゆっくりと膝をついた。
(……随分とあっけないこと)
何もかも中途半端な断罪劇。
けれど、ロズリーヌの心は真っ黒に塗りつぶされたようだった。
「さて」
問題児二人が引きずられるように退場すると、幾分か声に穏やかさを取り戻した国王が、手にしていた杖で軽く床を叩く。
会場中の視線が国王に集まった。
「このような場で公表すべきでないことは百も承知だが、混乱と妙な憶測を避けるために、ここで明言しておこうと思う。――先ほど、第二王子アーロン・カリスト・ラファエル・オベールの立太子が決定した」
オベール家には、エミールとアーロン、そしてここにはいないが、ヨエルという三人の王子しかいない。
おそらく、重大な問題を起こしたエミールは表舞台から姿を消すことになるだろう。ヨエルは二人とは歳が離れているため、この時点で、アーロンが次期国王であることに決定したわけだ。
幸運なことに、アーロンにはそれなりの資質があった。
「正式な挨拶はまたにするが、よろしく頼む」
一歩前に出てきたアーロンに、貴族たちが戸惑ったのも束の間。最初はまばらだった拍手は次第に激しさを増し、やがて割れんばかりの大きさへと成長する。
至る所から漏れる安堵の息に、ロズリーヌはそっと瞼を伏せた。