【019】いったい誰が
ふわふわと緩く巻かれたブロンドの髪の毛。
空を映す、透き通った瞳。
コルセットがなくても引き締まった、細く華奢な身体。
「アレグリア侯爵令嬢ロズリーヌさまに、ご挨拶申し上げます」
臆することなく会話に入ってきたその令嬢は、軽く腰を折り曲げ、目礼をしてみせた。
「ヒセラ・ジャンメールにございます」
――エルフェ伯爵令嬢ヒセラ・ポレット・ジャンメール。
立太子の儀の直後に行われた舞踏会で、アーロンのパートナーを務めていた彼女だった。
「ええ、存じております。ロズリーヌ・ミオットです」
おそらく互いに名は知っていた。
が、そうとは言わず、素知らぬ顔で名乗り合うのが貴族のマナーである。
「……急になんなの?」
話を強制的に中断させられたドロテが、肩で息をしながら、訝しげに眉根を寄せる。
そういえば、彼女はアディルセンの言葉を話さない。なら、今のヒセラの言葉も理解していないはず――そう思って、ホッとしたのも束の間。
「君の声は品がなさすぎるって」
エジェオがまるで冗談を言うかのような軽やかさで、忠実に通訳をした。
(どうせなら、最後まで傍観者に徹してくださればよかったのに……!)
空気が再び、ピンと張り詰める。
「品がないですって……?」
「まあ、声だけじゃなくて、言葉もだいぶ下品だったと思うけどね」
「エジェオ!」
「だってそうだろう? 他国の、しかも侯爵家のご令嬢に、言うに事欠いて『あばずれ女』だなんて」
「それは……だって!」
「だってもなにも、君が最初に彼女に絡み、真っ当なことを言い返されて、癇癪を起こした。違う?」
「違うわ……」
「何か問題でも?」言い争いを始めた二人を眺めつつ、ロズリーヌの隣に立ったヒセラが、心配そうに声を掛けてきた。
「いえ――」
「ああ、噂についてちょっとね」
言語を切り替えて答えたのは、エジェオだ。
いくつ耳が付いているのかと思う。
普段はいかにも軽薄そうな振る舞いをしているが、その実、見た目通りの人ではないのだろうと、ロズリーヌはもう確信していた。
「噂?」
エジェオがこの国の言葉を操ることに驚いたような反応はしたものの、そこに触れることはせず、ヒセラは短く訊き返した。
「ロズリーヌ嬢の……ほら、あまり良くない噂が流れているだろう。婚約者絡みの」
「良くない……。ああ! あの、まるで信憑性のない噂のことでしょうか?」
「やっぱり君たちから見ても、単なる噂にしかすぎない?」
ヒセラが力強く頷く。
「当然ですわ。中には信じている者もいるようですけれど、それはほんの一部で、残りの――私たちは、ロズリーヌさまの潔白を断言できます」
それからヒセラは、ロズリーヌがどのような生活を送っていたかを聞かせた。妃教育で忙しく過ごす中、セレスタンと交流することはあっても、不貞を働くのに十分な時間は得られなかっただろうと。
エジェオはそれをヴェリア語に訳して、ドロテに伝えた。
「……たとえただの噂だったとしても、こんなに酷い噂が流れるなんて、あなたのことをよほど嫌っている誰かがいるのは確かだわ」
反論できず、憎々しげにロズリーヌを睨めつけたドロテは、悔し紛れにそう吐き捨てて去って行った。
「あーあ、去り際まで酷いな、あれは」
「ヴェリアの人間として謝るよ」とエジェオが軽い調子で言うので、ロズリーヌはますますエジェオのことがわからなくなった。
ドロテの行動がもたらすかもしれない影響を理解しているようなのに、そのあたりにはあまり関心がなさそうだ。
「あんなに乱暴な歩き方をして。足が見えていらっしゃるわ」
ヒセラが非難するように言う。
「……うん。うちの国では、足首が見えた程度では問題にならないから、あまり気にしていないんだと思う。今度見かけたら、注意しておくよ。見苦しくてごめんね」
「いえ……」
所変われば品変わる、と言うように。
隣同士の国といえども、文化も習慣も常識も言語も、すべてが異なるのだ。
それは仕方のないことだが、留学を希望するのであれば、せめて基本的なことは頭に入れておいてほしかったと途方に暮れるロズリーヌだった。
それから数日。
ドロテと揉めた日に、噂のことも含め、セレスタンに伝えようとしたが、珍しくセレスタンは家に戻ってこなかった。どうも仕事が忙しいらしい。
「しばらく帰れそうにない」というほとんど走り書きのような手紙を受け取ったので、邪魔しては悪いと思いながらも、ロズリーヌからも手紙を出すことにした。
その手紙に対する返事は、まだない。
だが、そんなロズリーヌは今、まったくの別件で困り果てていた。
「これはどうしたらいいのかしら」
学院のプライベートルームの中、複数の紙を挟み、友人であるユーフェミアと向き合うロズリーヌ。その一枚一枚に、『消えろ』『誰もがお前を嫌っている』『無価値な女』などと、幼稚な暴言が並べられている。
傷付きはしない。
ただ、困ったなというだけだ。
そんなロズリーヌの反応を相手が見ていたなら、怒髪天を衝くほど怒っただろうが。
「……困ったわね」
同調するように、ユーフェミアも息を吐く。
「本当に困ったわ」
「ええ、本当に」
ぎこちない線に、歪な文字。
見たらわかる。
言葉こそアディルセンのものだが、これはアディルセンの人間が書いた文字ではないと。
「ジルに相談はするけれど……」
「相談しても、何もできない可能性が高いでしょうね」
「私もそう思う。私たちからしたら、明らかに他国の人間が書いた文字だとわかるけれど、証拠はと言われたら何も出せないもの」
「証拠もないのに、『あなたたちの誰かの仕業でしょうか』なんて訊けるわけがないわ。うまくやらないと、国際問題につながるし」
「……そもそも、あの中でアディルセンの言葉を話すのって、シュパン卿だけだという話じゃない。誰がこんな言葉を教えたのかしら」
憤りながら、ユーフェミアが疑問を呈する。
「まさか、シュパン卿じゃないわよね?」
友人が声のトーンを落として訊ねてくるので、ロズリーヌは少し考える素振りを見せたあと、おもむろに口を開いた。
「違うと思う。あの人は、何かをするにしても、こんな馬鹿げたことには手を貸さないような気がする」
「そう……なら、やっぱりドロテさま? わからない振りをしているだけで、実は少しだけならアディルセン語を理解しているとか。数日前、一悶着あったと言っていたわよね」
「……どうかしら。だからこそ、わたくしなら、そんな真っ先に疑われそうなことはしないけれど。せめてしばらくは大人しくしていると思うわ」
「あのね、それを言うなら、そもそも他国で自ら進んで問題を起こしたりしない。私ならね」
もっともである。
ドロテに関して言えば、常識で測れる人でないというのがわかったばかりだった。
「というか、犯人がドロテさまにしろ、他の誰かにしろ、日常的に使うわけでもないこんな下品な言葉を並べ立てるなんて、わざわざ誰かに教えてもらったと考えるべきよ」
「授業でなんて習わないでしょうし」とユーフェミアが嘆息する。――それはそうだ。ロズリーヌは心の中で同意して、話をつなげた。
「でも、誰かが教えたと仮定すると、アディルセン側の人間がという可能性が高くなるのよね」
「ヴェリア語が話せて、そのうえ、留学生たちと連絡が取れる立場にあるアディルセンの人間となると、かなり限られそう……というか、そんな人間いる?」
「ヴェリア語を流暢に話せなくても、簡単なことが理解できて、ある程度の意思の疎通さえできれば、どうにかなるのではないかしら。それなら、例えば一部の教師とか」
「……こんなに下品な言葉を教師が教えているとは思いたくないわ」
ユーフェミアが、不愉快そうに顔を顰める。
「ええ」ロズリーヌはひとつ頷いて、答えた。
「あくまでも可能性のひとつだもの。その点では、たとえ無関係な気がするとわたくしが感じていたとしても、エジェオさまのことも外してはいけないと……」
そこで、はたと止まる。
――そういえば、ドロテは『エジェオ』と言っていなかったか。
「ロズリーヌ? どうかした?」
突然言葉を止めたことに違和感を覚えたのか、ユーフェミアがロズリーヌの顔を覗き込む。
「あ、いえ、この紙切れの件には関係のないことが頭に思い浮かんで」
「留学生たちのこと?」
「……まあ、そうなるかしら」
というより、まさにドロテとエジェオのことだ。
先日、セレスタンは軟派なエジェオのことを、しかし「名で呼ぶことを許可した女性はいないのではないか」と言っていた。
同時に、エジェオとはそう親しかったわけではないとも言っていたから、その認識が間違っている可能性もある。
むしろ、エジェオがその場で注意をしなかったことから、ドロテにその許可を与えていると考えるほうが、自然に思えるのだが――。
「何かあった?」
先を促すように再び訊ねられて、ロズリーヌは咄嗟に「いいえ」と首を振った。
あれは、セレスタンと二人きりの時に聞いた話だ。友人といえども、勝手に人に話していいものかわからない。
「ただ、ドロテさまとエジェオさまって親しいのかしらと思って」
なので、あたかも自分が不思議に思ったという体で言葉にした。これなら不自然ではないだろう。
「ドロテさまとシュパン卿? まあ、同世代で、上級貴族出身という共通点があるから……でも、お二人でいる場面はほとんど見ないわよね」
「そうなんだけど、あの時、ドロテさまがエジェオさまのことを『エジェオ』と呼んでいたのよ」
ユーフェミアはわずかに目を見開き、次いで彼らの顔を思い浮かべるかのように、視線を宙に彷徨わせる。少し待つと、猫のような美しい双眸が再びこちらへと戻ってきた。
「駄目だわ。あのお二人が親しげに話しているところが、まったく想像できない」
「同感。とはいえ、流石に間違えて名で呼んでしまったというわけではないでしょうし」
「別に親しかったらどうだというわけではないのだけれどね……」
そうなのだ。
あの二人は、伯爵家と公爵家の人間。上級貴族の家に生まれた子が、幼い頃から交流するというのはありがちな話なので、親しかったとしてもなんの問題もない。
そのへんは、貴族文化が深く根付いているヴェリアも同じようなもの。
実際にヴェリアを訪れたことはないが、今回、留学生たちの相手をするにあたって、ロズリーヌはセレスタンのもとで現在のヴェリアの事情について学びを深めていたので、間違いない。
「問題は、あのお二人にそんな雰囲気がなさそうなところよね」
ロズリーヌは首を軽く上下させた。
公爵令息に比べて立場の弱いドロテが、その公爵令息を名で呼ぶのにとどまらず、敬称さえ付けなかったのである。
一般的には、よほど親しい仲なのだろうと思われるはずだ。
「……もともと婚約者――もしくは、それに近しい立場だったとか? 婚約者候補とか」
ユーフェミアも首を捻る。
異性の、しかも身分が上の人間をそのように呼ぶのは、つまり婚約者か、それと同等の立場であるということにほかならない。
もっとも、自国にいるときのエジェオは華やかな私生活を送っているようだ。そういった人間が軽々しく名を呼ぶ許可を与えることは間々あるので、今の段階では『なんだか違和感がある』以上のことは何もないのだが。
「あり得なくはないと思うけれど、どうかしら。今度、セレスタンさまに訊いてみるわ」
「ええ、それがいいと思う」
ロズリーヌとしては、なんとなく心に引っ掛かったことを、軽い気持ちで漏らしただけだったのだが、ユーフェミアは神妙な面持ちで同意した。
「実際は親しかったのだとしたら、今のお二人の態度はあえてということになって怪しいし、特に親しくないというのであれば、それはそれで距離感に矛盾が出てしまうし」
「……こんなたいそうな紙切れをいただかなかったら、気にもしないところだったわ」
「というか、あれね」
ユーフェミアが疲れたような表情で言う。
「ドロテさまは最初から様子が可笑しいけれど、ひときわ目立っているというだけで、ルフィナさま以外の方たちもだいぶアレだから、正直、全員が犯人に見えてつらい」
それはまごうことなき本音だった。
ロズリーヌはそれになんと返せばいいかわからず、同調するように細く息を吐き出す。
そして、最後に、ユーフェミアはホルム侯爵に、ロズリーヌは学院長にこの件を報告することを約束し、授業に戻ったのだった。
(……彼らが帰国する頃には、学院長と友人になってしまうかもしれないわ)
日々、留学生に起因する何かを処理し、逐一学院長に伝えているロズリーヌは、疲労感に動きの鈍くなった頭の奥で、ぼんやりとそんなことを考えた。
~余談~
【『この作品の』貴族間における呼称②】
王族に関しては、原則として『陛下』もしくは『殿下』。
・国王→国王陛下
(『陛下』だけの場合もあり)
・王妃→王妃殿下
(『妃殿下』の場合もあり)
・側妃→側妃殿下
(側妃のことを指しているとわかる場合のみ『妃殿下』と呼ばれることも)
・王子→王子殿下
(『第一王子殿下』『第二王子殿下』なども。『名+殿下』の場合もあり)
例:エミール殿下(今は除名されていますが)
・王太子→王太子殿下
(『殿下』または『王太子殿下』が基本。『名+殿下』と呼ばれることも)
例:アーロン殿下
基本的に、国王以外の王族は国王+αという立場になるので、国王が頂点で『陛下』、それ以外は『殿下』。
臣籍に入ったり、王室から除名されたりすると、その身分に相応しい呼び方になります。
(本作にこのような人物はいませんが、例えば、王子が王室から離れ公爵位を授かれば『〇〇公爵』『〇〇公』『閣下』などと呼ばれるようになります)




