【011】『はは』という存在
王妃から非現実的な提案があってしばらくは、平穏な日々が続いた。
――そして、やってきた立太子の儀。
「お嬢さま、なんて素敵なんでしょう」
ロズリーヌが伯爵家に移るのと共に、自ら名乗りを上げて――もちろんセレスタンの許可を得て――ついてきたリンダが、溜め息交じりに言う。
「本当に」「普段もお綺麗ですが、より輝いて見えますわ」などと、自身を取り囲むメイドたちに持ち上げられて、ロズリーヌは小さく微笑んだ。
そのあどけなさを残す淑女然とした微笑に、周囲はさらに沸き立つ。
「ありがとう」
生家ではあり得なかった賑やかさに、居心地の悪さを感じつつ、ロズリーヌは礼を述べた。
その時。
「――準備は終わったみたいね」
背後から聞こえてきた声に、半ば反射的に振り返る。
そこには、入口からゆったりとした足取りで歩み寄ってくる、ひとりの貴婦人の姿があった。
「公爵夫人……!」
マルグリット・フェベ・オ・アルヴェーン。
ルンデル公爵家当主の妻。
つまり、セレスタンの実母である。
「嫌だわ。私のことはなんと呼ぶように教えたかしら?」
咄嗟に軽く礼をしたロズリーヌに、ひんやりとした声が向けられた。
「それは……」
言いにくそうに、ロズリーヌが口ごもる。
顎を引いたまま視線を持ち上げると、婚約者によく似た瞳がじっとこちらを見つめていた。
あの婚約者にも思うことはあるが、美人の真顔ほど怖いものはない。ぐっとなにか迫りくるものがある。迫力満点だ。
しかし、いつまでもこうしてはいられないと、ロズリーヌは意を決して口を開いた。
「――お義母さま」
声が震えないよう注意しながらそう呼ぶと、やはり表情を変えぬまま、公爵夫人は「よろしい」と鷹揚に頷いた。
リンダ含め、伯爵家の使用人たちは、その様子を微笑ましげに見守る。
とうの昔に成人を迎えた子の母であっても、衰えぬ美貌を持つ公爵夫人は、研ぎ澄まされたその雰囲気から誤解されがちではあるが、実はとても可愛らしい人である――ということを知ったのは、ロズリーヌがセレスタンの婚約者として、挨拶に行った時だった。
素行の悪い王子と婚約していたばかりか、その王子から婚約破棄を突き付けられた女など、未来の公爵夫人はおろか、伯爵夫人にさえ相応しくないと、嫌味のひとつぐらい言われるかもしれないと想像していたロズリーヌは、話し合いの中で「義母と呼ぶように」と言われ、たいそう驚いたものだ。
話を聞くに、ずっと娘が欲しかったのだとか。
以降、慣れずについ『公爵夫人』と呼んでしまうロズリーヌは、毎度のごとく修正されているのだった。
「それはいいとして……まあ」
公爵夫人の瞳がすっと細められ、視線がロズリーヌの体を上から下へと滑っていく。
そして、呆れたように息を吐き出した。
「……とんでもない執着だわ」
その意味が手に取るようにわかって、ロズリーヌは苦笑する。
――執着。
愛情よりも、そちらのほうを真っ先に感じたのは確かだ。
「夫も若い頃はしつこかったけれど、こういうのって子にも受け継がれるものなのかしら」
「嫌だわ」もう一度、マルグリットが言う。
ロズリーヌが身に纏う、息子の瞳の色で染め上げられたドレスを見つめながら。
(まあ、どう見てもやりすぎだものね)
夜会や舞踏会など、公の場に顔を見せる際、婚約者の色を身につけるというのはよくある話だ。
しかし、この国では、装飾品や扇子などでさり気なくアピールするというのが常識のようなものになっている。
厳格に定められたルールというわけではないので、婚約者の色一色のロズリーヌが責められることはないだろうが、若さゆえの暴走だとは思われるかもしれない。
ロズリーヌが義母と顔を見合わせ、互いになんとも言えない表情でいると、ふと遠くから足音が近付いてくるのに気がついた。
「ああ、私の色を纏った天使が、間違えて地上に降りてきてしまったのかと思ったよ」
歯の浮くような台詞を美しい表情で宣いながら、セレスタンが入室してくる。
「……あなたがこんなにも落ち着きのない性格だったなんて、母親の私も知らなかったわ」
「私の色合いは、きっと君に似合うだろうと思っていた」
母親の嘆きには一切耳を傾けず、セレスタンは自身の婚約者だけを目に入れている――いや、目に入れていたいとでも言いたげな様子で、ロズリーヌとの距離を詰めた。
そして、優雅な動作で腕を差し出す。
お手をどうぞ、ということだろう。
ロズリーヌは、貴族令嬢として、半ば無意識にその腕に手を添えようとした。
「なんて世話のしがいがない子なの」
そんな二人の様子を眺めていたマルグリットが、これ見よがしに嘆いてみせる。
「ああ、母上。父上も下で待っていますよ」
「まあ……まあ! そんなことよりもまず、母への挨拶が先でしょう」
「それは失礼しました。私のロズリーヌに付き添っていただき、ありがとうございました」
「……あなた……」
マルグリットは、この瞬間、長年保ってきた完璧な貴族婦人の仮面をかなぐり捨てそうになった。「なんなのだ、この男の変わりようは」と、母親ながらに失笑を送りたくなる。
「セレスタンさま。今日、公しゃ――お義母さまは、婚約後初めての公の場だからと、心配してわたくしの準備のお手伝いをしてくださったわ。それは……」
邪険にしているわけではないものの、あまりに淡泊な反応に、ロズリーヌは思わず口を挟んだ。
困ったようなロズリーヌの視線に、セレスタンは途端にうっとりと頬を緩める。視線が自分に向けられているだけの事実が、うれしくてたまらないとでも言うように。
それを見てまた、マルグリットの頬が引き攣った。
「確かにその通りだね。母上には、これでも本当に感謝しているんですよ。本当に」
――本当に。
重要なことでも、短時間で繰り返しそれを強調すると、怪しく聞こえるものなのだなとロズリーヌはぼんやりと考える。
一方で、息子の変わり身の早さに、マルグリットは研ぎ澄まされた表情の下で、「誰なの、これは!?」などと完全にパニックに陥っていた。
これは果たして、女性と距離を置いていた息子と同一人物なのだろうか。
実はどこかで入れ替わっていた、と言われても、今なら納得できるかもしれない。
三者三様の考えを抱きながら部屋を出て、階下で待つセレスタンの父と合流すると、ルンデル公爵夫妻とセレスタン、ロズリーヌの二人に分かれて、それぞれ馬車で会場に向かうことにした。
ルンデル公爵夫妻は、どうせ目的地が同じなのだから同乗したらどうかと勧めたのだが、セレスタンが婚約者と二人きりがいいと、頑として譲ろうとしなかったからだ。
「母が、なにか失礼なことを言わなかっただろうか」
二人きりになると、静寂が訪れた。
そこに馬の蹄と、車輪の音だけが大きく響く。そう速度を上げるわけでもないので、揺れは穏やかなものだった。
そんな中で、セレスタンが慎重に口を開く。
「……え?」
「いや、こう、伴侶の親とはうまくいかない場合も多いと聞いているから。君が少しでも嫌な思いをしたらと……」
あまりに真剣な――というより、不安げな表情で言うので、ロズリーヌは咄嗟に「まさか」と言葉を遮ってしまった。
「お義母さまは、とてもよくしてくださっているわ」
一呼吸置いて、自分の考えを口にする。
「お義母さまが、実際にわたくしのことをどう思っているか、その気持ちを推し量ることはできないけれど、少なくともわたくしは、お義母さまに心から感謝しているし、それどころか、もっと親しくなれたらと思っているぐらいよ」
「……本当に?」
セレスタンは、それでもなお、どこか懐疑的に確認するようだった。
そんな婚約者を安心させるため、ロズリーヌは言葉を重ねる。
「ええ。そもそも、わたくしは、素行の悪いあの人に婚約破棄を持ち出された時点で、傷物になったも同然で――」
「君が? 傷物?」
「いえ、世間一般では、そういう認識になるわよねという話で」
「じゃあ、世間一般の『傷物』の定義を変えないとね」
――どうやって?
思わず訊ねようとしたロズリーヌだったが、それをすると話が逸れてしまいそうなので、構わず続きを口にする。
「当然、傷物という評価を下されたからといって、それが必ずしも無価値であるということにはならない。わたくしの場合もその通りで、侯爵家の出身であること、それから、妃教育に取り組んだ唯一の令嬢として、少なからず婚約の話は来るだろうと思っていたのだけれど」
無論、あの父のことだ。
その中でも最低ラインにも満たない相手を選んでくるだろうと想像してはいた。蓋を開けてみれば、予想以上に悪い相手だったのであるが。
「でも、それはそれとして、流石に未来の公爵夫人として――結婚したらすぐ伯爵夫人になるのだし――認めてはもらえないかもと考えていた……」
「……そんなことを?」
「……のは、ほんの少しだけで、お義母さまとお義父さまにお会いして、すぐにそんな不安は消え去ったわ。だって、お二人とも、わたくしにとても優しくしてくださるんですもの」
顔合わせの時の緊張感と、一転して安堵を感じた瞬間を思い出したのか、ロズリーヌが穏やかに微笑む。
「これで、お義母さまのなにかしらに『嫌な気持ちになった』なんて言ったら、罰が当たってしまうわ」
そこまで伝えてようやく、セレスタンは安心したようだった。
「そうか」と何度か小刻みに頷く。
良い機会なので、今度は逆に、ロズリーヌが訊ねてみることにした。
知らなくても支障は無いかもしれないが、婚約して以降、ずっと気になっていたことを。
「あの、聞いてもいい?」
ロズリーヌが切り出すと、「うん?」と優しげな声が返ってくる。
「セレスタンさまが……その、わたくしに好意を寄せてくださっていたというのは、なんというか、聞いたことだけれど。どうしてわたくしを、というのが、いまいちわからなくて」
婚約者の一挙一動を目に焼きつけるかのごとく、セレスタンが正面から熱視線を送ってくるので、ロズリーヌは頬をうっすら染めながら、あるいは視線を彷徨わせながら、自信なさげにそう訊ねたのだった。




