栗栖栄華は繰り返す②
母親が作ってくれていた料理を冷蔵庫に入れる、友達と合流する、教室の前で別れる。いい加減慣れ切ったいつも通りのルーチンをこなし、学校へたどり着いたわけだが、教室に向かう足は重く感じる。室内に入ってすぐ、俺は本来知らないはずの地味子を睨みつけた。
「栗栖、おはよう」
「お、おはよ……」
前の席に座りながら声をかけた俺に、にへ、と破顔した。昨日、いや、前回と何も変わっていないが、俺に向ける表情は明らかに友達へのそれに変化している。それはもちろん、『登校してきた俺が栗栖に挨拶をする』という、本来ならありえなかったことが起きたからで、実際にタイムリープについてきたという確信ができたからだろう。そしてつまり、コイツはそのためだけにタイムリープをした可能性すらある。なんて軽々しく命を投げ出す奴なのだろうか。
「おまえさ、なんでタイムリープしたんだよ」
「だ、だって……失敗したから……」
ゲームのリセットでももうちょっと躊躇するんじゃないだろうか。
「失敗ってなんだよ」
「天音さんとうまく話せなかったこと……」
「え? そっち?」
俺はてっきり下着姿の写真を送ってないことにしたかったとか、ラインが返ってこなくなったことに絶望してしまったとか、そういう理由だと思い込んでいた。まさか最初にタイムリープをする原因として考えたものから変わっていないとは思いもしなかった。いや、ちょっと待て。それって俺と友達になったのはどうでもいいということか。
「俺がいるんだからいいだろ」
「……ンフ、えへ」
「ニヤニヤすんな、なんか言え」
「か、金木くんはタイムリープについてきてくれるから、他の失敗をなかったことにしたくて」
「ああ、そういう……でも、だからってそんな簡単にタイムリープするなよ、怖くないのか」
「こ、怖くないよ、簡単だし……」
失念していた。コイツはタイムリープなどという超常現象を起こせるのだ。だったら、なかったことにならない人間関係と、なかったことにできることが同時に存在するのなら、タイムリーパーとしては当然使ってみせるだろう。それに俺は、死ぬことでしかタイムリープできないと思い込んでいたが、タイムリープの条件が死ぬことだと聞いたわけではないのだ。栗栖があえて死ぬことを選んでいただけで、もっと気軽に行えるのかもしれない。
前回と同じホームルーム、前回と同じ授業が始まり、前回と同じように昼休みが始まった。俺はいつも通りに食堂で昼食を摂ったが、今回は隣に栗栖がいる。俺たちの通う天辺大学附属高等学校の食堂は、食券スタイルなので自由にメニューを選ぶことができる。それほど品数が多いわけではないが、俺の好きな中華もある。前回は麻婆茄子を注文したが、今回は餃子定食にした。
「前回と違うメニューを選べるのは、タイムリープのおかげだな」
「わたしのおかげ」
栗栖は照れくさそうに笑うと、前髪を耳にかけてからラーメン定食のラーメンを啜った。皮肉を言ったはずだったが、まるで通じていないようだ。俺は先に食事を終えて、栗栖がちゅるちゅると麺を啜るのを頬杖をついて見守りながら、鼻筋がしっかりと通っていて横顔も黄金比のようにきれいだな、と考えていた。前髪を耳にかけただけでもそう思えるのだから、ちゃんとセットすれば学年でもトップを争うような美少女といっても決して過言ではないだろう。
「前髪、なんでそんなに長くしてるんだ?」
「だ、だって、恥ずかしいから……」
「顔を見られるのが?」
「う、うん、そう」
「いや、可愛い顔してるだろ」
「え? え、あぅう……」
「栗栖が人と話せないのは前髪のせいだよ。話しかけやすい人と話しかけにくい人の違いは、表情が見えるか見えないかの違いなんだ。顔を出してても怖いって言われる人もいるけど、それは表情が固い人で。人ってのはよく笑う人に心を開くいんだよ」
「よく、笑う人……ンフ、えへへ、いひ、ひ」
それだけなら自分は出来ている、とでも言いたいのか栗栖は顔を赤くして笑った。不気味な笑い方をする人間に心を開けるとは言っていないが、否定はせずに微笑むだけ微笑んでやった。
昼食を済ませ、俺たちは速やかに教室へと戻った。栗栖と改めてライン交換をした後、『どうすれば天音と仲良くできるか大作戦』の会議に移行する。
この後、栗栖が何をしていても天音が話しかけてくるのは確定している出来事なのだという。タイムリープを繰り返した本人が言うのだからそうなのだろう。未来を変えるというのは、やはり数多の物語でもそうあるように、簡単なことではないらしい。だが、それならそれで好都合だ。
「とりあえず、前髪は横に留めておけよ」
「えぇ……⁉︎」
「えぇーじゃないの」と、俺は栗栖の前髪を耳にかけてやった。片側はあえて少し垂らしておいて、おしゃれ感を演出する。触れてみて思ったが、ふわふわとした髪質なので整髪料がなくてもそれなりにいい感じになった。「ほら、こっちの方が断然いいって」
「んぅ……」
唇をキュッと結んで恥ずかしそうに視線を落としてしまった。正面から顔を見られることには慣れていないせいだろう、栗栖の整った顔は真っ赤になっている。
世の中にはメカクレという属性があり、目を隠した女の子を好きな人たちが数多く存在している。そのメカクレという属性を奪うような真似をしている俺は多分その人たちに殺されてしまうが、残酷なもので本物のメカクレ女子には誰も見向きしない。現実ではこうするのが正解なのだ。
「あれあれぇ、カナキ何してんの?」
俺たちの座る席の横に女が立った。わざとらしくぎらつく金髪の女、天音だ。
「別に、何もしてないよ」
「何もないってことないじゃん、女の子の頭撫でてさ。キスでもしようとしてたんか〜?」と、語尾を上げた天音は俺の隣の席に座りながらニヤニヤとする。
「撫でてない、勘違いだ」
「そういうアレ? 付き合ってること隠してる的な?」
俺は白目を剥いた。何を言ってもそういうことにされそうだ。栗栖は満更でもなさそうな顔をして窓の方に顔を背けるのをやめろ。
「まぁいいけどさ。クリスちゃん泣かすなよ〜?」
「うるせえ」と、俺は黒板側に向き直して言った。そのうちに前回も天音と話していた、天音の友人である菅生乙女がやってきた。黒髪で背が低く、吊り目がちな顔が生意気そうな表情を作る。
「あまねっち何してんの?」
「あ、聞いて聞いて! カナキがクリスちゃんと付き合ってんだって!」
「付き合ってないからな」と、抗議したが存在ごとスルーされた。
「マジか! やば! カナキやるじゃん! どうやって落としたん⁉︎」
「落としてない。勘違いです」
「なんだよ、教えろよな。クリスちゃんに聞いちゃお!」と、菅生は俺の真後ろの席で沈黙していた栗栖のそばに擦り寄った。「クリスちゃんどうなの⁉︎ どっちが告ったん⁉︎」
「ふえ! えへ、へへ……あの、金木くんが……俺だけ見てろって……」
「え⁉︎」記憶を呼び起こしてみたがそんなことは言っていない。この女は何を言い出すのか。
「カナキやるぅ! 意外すぎ!」
「ほんとにね。カナキのくせに」と、天音は自然に毒づく。
「もう好きにしてくれ」
その後も二人にイジられ、やがて前回と同じ授業が始まった。イジりではあるが栗栖が天音と会話するという目的は達成した。これで俺という友達はできたうえで、天音とも会話ができたばかりか菅生とも会話した。これで栗栖がタイムリープすることはないだろう。
放課後、俺は「一緒に帰るぞ」と栗栖を半ば強引に連れ出した。やはり念のため、送ってやらなければ安心できない。信用できない、と言い換えてもいいだろう。天音と菅生の二人には囃し立てられたが、それを無視して足早に栗栖を自宅に送るための帰り道を辿る。
「あ、あの」と、それまでほとんど会話はなかったが、栗栖は家の近くに来てから口を開いた。「金木くん、怒ってる?」
「え? なんで? 怒ってないけど」
「だって、ずっと喋らなかったから……」
「あぁ、疲れてたからな……」
度重なるタイムリープに対する心労が顔に出ていたらしい。少しでも気を抜けば栗栖がタイムリープしてしまうものだから、俺はまるで姫を守る騎士にでもなったようだ。
俺は人といるときに喋らなくても平気な人間なので、栗栖が俺の様子を窺っていることに気付けなかった。栗栖は会話がないと焦ってしまうタイプで、ずっと気を張っていたのだろう。
「そ……そっか、わたしのせいだよね」しゅん、と栗栖は俯く。さすがの栗栖も原因が自分にあることくらいは理解できるらしかった。タイムリープをするな。「金木くん、ウチ来る?」
「なんでそうなった?」
「だ、だって、疲れてるんだったら、休憩とか……」
栗栖は長い前髪を何度も触って目をしっかり隠しながらボソボソと言う。
急接近にも程がある。この女は男を自分の家に入れるという意味をわかっているのだろうか。いや、おそらく微塵もわかっていない。栗栖は恐ろしく無垢な顔をして俺を見つめている。
いや待て、と固唾を飲む。前回栗栖がタイムリープしたのは就寝の時間、つまり夜である。このまま別れて家に帰ったところで、友人との交友というものに満足しないのは自明だ。どう足掻いても満足させられないのなら、いっそ要求を全て呑むべきではないだろうか。公序良俗に反するようなことを要求されたら断ればいいのだ。それは友達のすることではないのだから。
「わかった、栗栖の望む通りにしよう。だから落ち着け、な?」
「え? え? う、うん。じゃあ、入ろ?」
そう言われて、いつの間にか栗栖の家に辿り着いていたことに気がつく。特に見るべきところのない、ごく普通の正方形の形をした一軒家だ。前回はさっさと帰りたくて気にならなかったが、庭の駐車スペースには車の類いがなく、どうやら家族は不在のように思える。だからこそ家に招き入れたのだろう。俺としても、女の子の家に入って父親とコンニチハなど御免被りたい。ただの友達です。栗栖の案内で「お邪魔します」と恐る恐る家の中に入る。石畳の敷かれた玄関には靴がなかったので俺は胸を撫で下ろした。お義父さん、他意はないのでどうかこの俺を許してください。
「と、とりあえず……どうぞ……!」栗栖はぱたぱたと小走りで駆けていったかと思えば、リビングにあるソファーの背に両手をかけて、俺にここへ座れと誘導する。
「お、おぉ……ありがとう」
もてなしをしようという栗栖の妙な張り切りを感じて少しばかり躊躇したが、遠慮なく腰掛けることにした。シンプルに歩き疲れているのもある。なにせ六日間まともに寝ていないのだから。いや、体力はタイムリープのたびに回復しているが、精神的な疲労感は拭えないのだ。
「えっと、ご飯にする? お風呂にする? そ、それとも……」
「なんでだよ、食べないしお風呂にも入らないよ。もじもじするな」
「え、食べていかないの……?」
「寂しそうな顔するなよ。え、俺がおかしいの? 栗栖さ、今日友達になったばっかの男を自宅に連れ込んでご飯食べさせようとしてるんだけど、わかってる?」
「うん……?」
「わかってないぞコイツ」
「金木くんがわたしのタイムリープについてきたのは、三回だったよね……? 二回目で友達になってくれたから、えっと、二日……じゃないかな……?」
「日付は変わってないからな? しかも一日と二日じゃ全然変わりません」
「でも、寂しい……」
あからさまに肩を落とし、指と指を交差させる手遊びを始めた栗栖に、俺は心中で大きなため息をついた。迷惑だとは言わないが、こんな姿を見せられたら付き合わないわけにもいかなくなってしまう。強引なヤツだ。いったい何が栗栖をそうさせるのか……。
「家族は? 俺がいたら迷惑だと思うんだけど」
「ううん、全然。だって、わたし一人暮らしだから……」
「はっ?」
高校一年生が一人暮らしなど漫画の世界だけだと思っていたので変な声が出た。
「お父さんがトレジャーハンターだから、よく海外を飛び回ってるの。お母さんはお父さんのこと、だ、だいすき……だから、一緒に行っちゃってて。だからわたし、一人でお留守番。でも、お金の心配はしなくていいから平気、わたしのための貯金があるから……」
「ファンタジーの世界に住んでらっしゃる?」
「え? ど、どういうこと?」
「いや、なんでもない」
突飛なご両親に驚愕したが、同時にどこか納得した自分がいる。栗栖が安易にタイムリープを繰り返すのは、単にボッチすぎて辛いからではなく、究極にボッチすぎて辛いから、というわけだ。学校では友達もろくにできず一人で過ごし、家族さえもいない家で一人寂しく生活しているのなら、嫌気もさすだろう。だからといって俺をタイムリープに巻き込むのはやめてもらいたい。
「わかった、そういうことなら付き合うよ」
こんな寂しい奴を一人にしておくのは気が引ける。それに食事の誘いを断られたからといってタイムリープされては目も当てられない。そんな理由で時間を戻しかねないのが栗栖だ。
「ほんと? じ、実はね。朝、作ってたのがあるんだけど……」
「マジか。栗栖は偉いなぁ」
「ンフ、ンヒヒッ……」
「笑い方は変だけど」
褒められ慣れていないのか、ひたすらに歪む口元を隠そうとする。だから妙な笑い方になるのだが、あまり指摘するのも酷だろうと俺は口を噤んだ。栗栖は冷蔵庫から何らかの料理が入った皿を取り出し、そのままレンジに放り込んだ。俺が親に帰るのが遅くなる旨の連絡を入れている間に、チーンと甲高い音が鳴る。なかなか濃い生姜の匂いが漂ってきた。
「これは……生姜焼き?」
「うん、豚の生姜焼き。どう、かな……?」
はっきりと言わせてもらえば、これは豚の生姜焼きではない。端的に表現するならば、焦げた生姜入りの豚肉焦がしだ。全体的に黒黒としていて、どこが豚肉なのかわからない。さらに焦げついた生姜はデカいものがどんと乗っていて、存在感が強すぎて嗅覚が持っていかれる。おそらくタマネギも一緒に炒めてあるのだろうが、もはや溶解液と化している。豚肉らしきものをねっとりとネバつかせているのがそれなのだろう。飴色タマネギと言ってしまえば成功とも言えるのかもしれないものの、他が酷い仕上がりなのでどうしようもない。
しかし。ここで俺が否定的な意見を述べたなら、栗栖は悲しんでタイムリープを決行しかねない。きらきらとした表情で俺を見つめている。感想待ちの眼差しが眩しい、これは裏切れない。その期待を放り出すほど俺は人間を捨てていない。俺は意を決して豚肉の生姜焼きモドキを口に運んだ。
「うん、個性的な味がする」
ほとんど生姜の味だ。厳密には、限りなく炭に近い生姜だろうか。意味不明な味がしなくてよかったと思う反面、豚はどこへ行ったのだろうか、という思いが頭を駆け巡る。
「個性的な味?」と、小首を傾げて栗栖は俺の持っていた箸を奪い取り、皿から生姜の塊をひとつまみして自分の口に放り込んだ。それから栗栖は「うぅ……っ」と口元を押さえて呻く。
「ごめんなさい……。こ、こんなの、食べさせちゃって……」
気にするなと声をかけようとしたとき、栗栖は不意に仰向けに倒れ込もうとした。俺はそれをなんとか咄嗟に受け止める。「お、おいおい、大丈夫か?」と、声をかけてみた瞬間に抱き止めた栗栖の肩が熱いことに気がつく。そのまま額に手を当ててみると、間違いなく高熱が出ているのがわかる。ここには子供しかいないというのに、どう対処しろというのか。
落ち着け、一旦落ち着いて深呼吸をしろ、と俺はクールダウンする。息苦しそうに顔を歪める栗栖の呼吸は浅く、頬が赤い。ただ咳はなく、すでに発汗もしている。単純な風邪だろうが、コイツはいったいいつから無理をしていたのだろうかと頭を抱えた。そこまでして俺と友達ごっこがしたかったのか、と……。俺が気付けなかったことには後悔したが、だからといって焦る必要はない。ただの風邪なら、体を暖かくして安静していればすぐに治るはずだ。
「変な無理すんなよ、ばか」
朦朧としているのか、栗栖はぼんやりと薄目で天井を見つめていた。栗栖の部屋はどこだと訊ねても答えがなかったので、片っ端から調べまわった。二階にそれらしき部屋があり、勝手に入ることにする。中には皺一つないシーツで覆われたベッドに、隅にずらりと漫画や小説の整列された本棚がある。勉強机も綺麗に整っていて、それだけで几帳面な性格が窺える。俺は栗栖をベッドに寝かせて丁寧に折り畳まれていた布団をかけてやると、栗栖が薄目を開けた。
「ご、ごめん、なさい……」
「無理すんなって。風邪引いてたんならそう言えよな」
「ううん、これ風邪じゃないの……タイムリープのしすぎで……」
「なるほど、そういう副作用があるんだな」
強力な力には強烈な反動がつきものだ。ましてや栗栖はタイムリープなどという非常識な力を使えるのだから、むしろ風邪に似た症状で済んでいるだけいい方だといえる。それにしても、栗栖はいったいどうやってタイムリープの力を手に入れたのだろうか。俺が意図的にタイムリープできたならば、もっと有効活用している。典型的な活用方法としては宝くじだったり競馬だったりだ。少なくともボッチすぎるからとタイムリープを繰り返すような真似はしない。
「あったかくして寝てろよ、俺は帰るからな」
「あ、あの……うん。あ、合鍵……鞄に入ってるから、帰る時にお願いします……」
「ああ、わかった。じゃあ俺はこの辺で」と、ドアに手をかけてから思いとどまった。果たしてこのまま俺が帰って栗栖はタイムリープをしないでいてくれるだろうか。いや、する。この女は間違いなくタイムリープをする。なぜなら、いま栗栖は何かを言いかけたからだ。俺は固唾を呑んだ。
「栗栖。何か俺にしてほしいことがあるんじゃないか?」
「え、えっ? あ、いいの……?」
やっぱりそうか、と心中でホッと安堵する。「いやー、俺、栗栖のためならなんでもできそうだなぁ!」タイムリープされたら今日という時間が水の泡だ。俺は時計の針を進めたい。
「うぅ……金木くん、そういうことばっかり言う……」ただでさえ熱で火照った顔が真っ赤に染まる。「じゃ、じゃあ、あのね? て……手を、繋いでてほしいな」
「え、手を?」
「うん……わたしが寝るまでで、いいから……あ、あのぅ、わたし、寝つきはいいんだ。だから、あのね、そんなに長い時間にはならないと思うの。だから、その、だ、だめかな」
「まぁ、そういうことなら……」
元々が寂しすぎたことで自殺を決行していたような奴だ。一人でいることの寂しさに耐えられないのだろう。本人の要望通り、寝るまで手をつなぐくらいのことは問題ないはず。女子と手をつなぐという経験がないので手汗が気になって服の裾で拭い去り、俺は栗栖の手を覆った。
「あ……あったかいね、金木くんの手……おっきくて……わたしの手が全部なくなる……」
「感想やめろ、寝なさい」
照れ隠しに少し顔を背けると、栗栖ははにかんだ。それから静寂な時間を過ごし、数分もすると静かな寝息が聞こえてきた。本当に寝つきがいい。着替えもしていないし、風呂にも入っていないし、歯磨きもしていないが、さすがにそれらをしてやるわけにはいかない。一日くらいは我慢してもらおう。スマホで時計を見ると、すでに十八時を越えていた。高校生に上がったばかりのまだまだ子供でしかない身分としては、すぐさま帰らなければならない時間だ。
栗栖からそっと手を離し、俺は可能な限り音を立てないように、そろりそろりと部屋を消灯して退室する。一階に置きっぱなしにされていた栗栖の鞄から合鍵をなんとか見つけ出し、家を出て施錠をする。合鍵は明日以降に栗栖が登校してきたときに返せばいい。
小躍りするように走って家に辿り着く。母親の作ってくれていた料理を冷蔵庫から取り出して、口の中に残っていた焦がし生姜の味を中和しておいた。旨い。これが母親の味かと涙がぼろぼろこぼれ落ちた。それから風呂に入り、歯を磨き、疲れ切った俺はベッドに向かった。もちろん、その間にラインの通知が鳴り響くようなことはない。これでミッションコンプリートだ。
「うおォォオおおお!」と雄叫びをあげそうになったが小声で我慢した。仰向けに寝転がって今一度スマホを覗く。栗栖は変わらず友達リストにいるし、栗栖からの通知はない。安心したら眠気が襲ってきた。瞼が重く、自分の意思で目を開けることが困難になっていく。
ピピピピピピ!
目覚ましのけたたましい音が鳴り、俺は体を起こしてアラームを止めた。バッとスマホの画面に映し出された日付を確認する。そこには五月十日の文字がはっきりと刻まれていた。
「やっ、やった……っ!」とスマホを持ったまま俺は窓を開け、気持ちの良い青空に向かって叫ぼうとしたが、それはやめておいた。近所迷惑だ。ひとまず着替えを済ませて、素早く一階に降りると母親が家を出ようとしていたところだったので呼び止めた。
「いってらっしゃい!」と手を振ると「珍しいわね」と気恥ずかしそうに笑われたが、俺はこの日が今日という一日の始まりであることを実感し、涙が自然と溢れ出した。
「なに泣いてんの、気持ちわる! あんたも早く準備しなさいよ〜」
母親は実の息子に対して手厳しい言葉を浴びせ、職場へと向かった。まだ今日は始まったばかりだ。栗栖に会って、可能な限りタイムリープしないように仕向けなければ安心できない。栗栖の家の合鍵が鞄に入っていることを確認し、他のすべての準備を済ませてから学校へ向かった。
いつも通りの時間、いつも通りの通学路。しばらく歩いたあと、どこか妙な、背筋がピリピリするような感覚が全身を駆け巡った。世界がモノクロに見えるような――栗栖がタイムリープしたときの感覚に似ているが、こんな朝のタイミングでタイムリープしたことはない。
そうだ、人がいないのだ。俺の使っている通学路はもともと人通りがなく、俺の友達である仲川友也くらいしか通っていないが、それにしたって誰もいないのは奇妙だった。思えば、車の通りもない。いや、通っていないだけで、どれも停車している。いったいどういうことだ?
そのうちに友成との合流場所にしている公園についた。しかし……友也はいつまで待っても来なかった。スマホを見るとまだ七時三十分ちょうどだった。少し来るのが早すぎたか、と友成を迎えに行ってみることにする。友成の家はごく近くにあり、ここから五分あれば十分な場所だ。公園の角を曲がり、その先の十字路を右に行けば辿り着く。
ひょっとしたら寝坊しているのかもしれないと思い、俺は早足で友也の家に向かった。ところが、その十字路を曲がった瞬間に俺は凍りついた。そこには歩くような姿のままピタリと静止した友也がいたからだ。冷たい冷や汗が背中を伝い、ぞわりとした。まさかと思い、スマホの画面を見やる。そこには七時三十分ぴったりの時間が表示されていた。
「嘘だろ……? 今度は時間が止まってる……ってこと⁉︎」