栗栖栄華は繰り返す①
また、か。天井に向かってため息が舞う。ジリジリと鳴る時計を叩き、その針を見る。五月九日の月曜日、朝七時ちょうどだ。これで何度目の月曜日だろうか。
俺は金木伊那。痩せ型で身長は平均、友達の数はそれなり、女子との付き合いは経験なし。運動能力は並で、成績も普通。これといって特徴のない、そこら辺にいる高校一年生だ。誰かがタイムリープするのに巻き込まれて俺までタイムリープをしているということを除けば、だ。
毎日、毎日、似たような時間になると、意識が途切れて朝に戻される。これが漫画や映画などで語られるタイムリープというものかと、最初は胸が高鳴ったものだが、何がタイムリープのトリガーになっているのかわからない。自分の意思でタイムリープできないというのは、想像する以上に苦痛が大きい。同じことを繰り返そうにも物語のようには案外上手くいかず、別のことをしようとすれば、そのせいで何が起こるのかがわからず不安感が押し寄せる。
「原因を探さないと……」
俺は頭を掻きながらぼやいた。このままぼんやりと同じ一日を繰り返していては気が狂ってしまう。制服へと着替えを済ませ、顔を洗い、うがいをし、母親が作り置きしていった朝食は冷蔵庫に入れて、学校へ出発。だんだんと動きが洗練されてきている。七時四〇分頃、友達と合流し、しばらく歩いて学校へ到着。別々のクラスなので教室の手前で解散する。
昨日と同じ授業を受けて、昨日と同じ会話をして、昨日と同じ風景を窓から眺める。つい同じことをして過ごしてしまったが、俺は昼休みに昼食を我慢して探索してみることにした。俺がタイムリープしてしまうのは、夕方頃だ。まだまだ時間があるが、下校時刻あたりになるとまた朝に戻ってしまう。下校時刻が鍵ということは、俺の通う学校にいる可能性もなくはない。もちろん、徒労に終わってしまう可能性は十分にあるが、何もしないよりはマシだ。それに、徒労に終わったところで朝に戻されれば体力は戻る。精神的にはよろしくないが。
さっそく校内を見て回ることにする。今日というこの日の昼は俺にとって四度目となるが、教室と食堂以外のところには行ったことがない。どこかにタイムリープのトリガーとなる何者かがいるのだろう。何者か、と断定するのは、タイムリープが毎回同じタイミングというわけではないからだ。前回は家に帰り着いて玄関の扉を開けた瞬間に朝だったし、その前は学校の校門を出てすぐで、さらにその前は家の近所にある公園付近を歩いていたときだ。時間帯が前後していることや、俺の意思とは全く無関係であることから、機械的な何かによって起きていることでもなければ、俺自身がトリガーではないこともすぐにわかった。だとすると、他の誰かだ。他の誰かに引っ張られ、俺はタイムリープに巻き込まれている。
物語の主人公ならいざ知らず、生粋のモブでしかない俺にとっては傍迷惑な話だ。だんだん腹が立ってきた。何が悲しくて何事もなく過ごした普通の一日を繰り返さなければならないのか。
怪しいやつを探して校庭に出てみる。既に昼食を終えたのか走り回ったりボールを蹴って遊んでいる連中がいるが、それは当たり前の光景だ。意図的にタイムリープを引き起こすような人がいるようには見えない。次は図書室へ行ってみた。マナーを無視しておしゃべりしながら読書をする連中や、それを咎められずにときおり睨む人がいるくらいで、変わった人間はいない。それに、わざわざタイムリープを起こしてまで同じ本を繰り返し読むような変人はいないだろう。
それから体育館、体育倉庫に、それぞれの特別教室、準備室まで調べて回ったが、それらしい人物は見かけなかった。いや、いたとしても、それが怪しいと感じられるかどうかはわからない。しょせん、俺は砂漠に落とした針を探しているにすぎないのだ。
昼休みの時間が終わりに近づき、教室へと戻った。騒がしい生徒たちが続々と集まってきている。俺の机に尻を乗せて喋るカースト上位の女子がだらだらと喋っていた。あえて声をかける必要もない。決して「どけ」と言う勇気がないわけではない。これは観察だ。タイムリーパーを見つけるためのウォッチングタイムが与えられたのだと考えよう。
まず、俺の机に尻を乗せている女だ。名前は天音晶。金髪を地毛だと自称しているが明らかに脱色されているし頭頂部が黒くなっていることがよくある。いつも「ギャハハ!」と手を叩いて大声で笑い、スカートだろうがなんだろうが股を開きがちで、淑やかさのかけらもない。そこまでは関わり合いになるわけでもないので文句はない。たとえ笑い涙を流して口に入るようなアホっぽい姿を目にしたところで、俺が心中でげんなりするだけだ。悩みがなさそうな人間性を思えば、こんな女がわざわざ一日を繰り返すような、追い詰められた思考になるわけがない。
そうか、動機だ。なぜタイムリープするのか、それを考えれば事は早い。俺は標的を絞る。タイムリープをするようなやつなら、何かしら追い詰められている。それを阻止してやればきっと俺にとって無為なタイムリープを止められる。狙いは、イジメられているような人間だ。しかし、この天辺大学附属高等学校でのイジメは聞いたことがない。イジりがいきすぎてイジメに発展した、などというのはよくある話だが、イジりらしいイジりもなく、ヤンキーという存在も絶滅危惧種と化している。いるのはせいぜい、明るくファッションに敏感なギャル、ようするに天音のような女くらいなものだ。その天音も友達と楽しく喋るばかりで特に害はない。
「ひゃっ」俺の机から退いた天音が、その拍子に誰かとぶつかって声を上げた。
「ご、ごめ、なさ……」と、よろめいた女子生徒が俯いたまま小さな声で謝罪する。
そういえばあんな女がいたな、と思い出す。前髪が鼻の下にまで届くほど長く、常に顔を隠していて誰もその顔を見たことがない。逆に目立つが、地味に過ごしているので誰も気にかけない。俺も名前を忘れたくらい存在感がない。このまま天音に文句をつけられ、イジメを受けるのだろうか。その一端を垣間見るかもしれないと思うと固唾が喉を通った。
「おー、大丈夫? 怪我してない?」
「あ、は、はひう……」と、地味子は謎の挙動をする。
「そっかそっか、よかったわー。ごめんね!」
天音はそう言って自分の席に戻っていった。想像したような事は何もなかった。むしろ人を気遣うことができたのかと、天音の意外な一面を見ただけで、逆に申し訳なさが芽生えた。
俺は自分の席に戻り、なんとなく地味子の様子を見た。ふるふると震えている。それは恐怖だろう、天音のようなカースト上位の女子に話しかけられたら畏怖さえ感じてもおかしくない。
それから普通に授業を受け、普通に放課後がやってきた。結局、何もわからないまま一日を過ごしてしまった。このまま帰れば、おそらくまた朝になってしまうだろう。そうなる前になんとかしなければ……と、学校から出るにも出れず玄関口付近の廊下でウロウロしていると、階段を登っていく生徒がいた。誰だったかはわからないが、学校が終わったら速やかに帰れと学校側から厳しく言われるものだが、とんだヤンキーがいたものだ。とはいえ、それ自体はそう珍しいものでもない。今もその辺りに忘れ物を取りに行く生徒はいくらか存在している。
俺は靴箱から靴を取り出し、靴を履いて外に出る。しかし帰る気にはなれず、なんの意味もなく校舎の周りを不審者のごとくウロウロとしてみた。やはりというべきか、誰もいない。イジメの現場でも見かければ一気に解決に近づけると思ったものだが、そうウマい話はない。
――どしゃ、と背後で鈍い音がした。特大の砂袋か何かを落としたような、そんな音だ。
振り返ると、そこには血まみれの人間が横たえていた。「えっ」と声が漏れる。目の前に在るのは死を直前にして痙攣する、セーラー服を着た女だ。破れた腹部から骨が突き出し、臓物が見えた。グロテスクなものが目の前に突如現れたという実感が後から押し寄せてくる。俺は喉奥から這い上がってくる酸っぱい感情をどうにか押しとどめて、彼女の顔を見た。人形のようにきれいな顔をした女で見覚えはなかったが、誰だかはわかった。この異常に長い前髪は、例の地味子だ。
「あ、かっ……」と、地味子が何かを言っているようだったが、言葉にはならない。事切れるまでもう時間がないのだろう。いったい何があったのか、とかぶりを振り、俺は上空を見上げた。三階の教室の窓が開いている。三階からならば偶然落ちても死ぬようなことはそうないが、運が悪ければ当然死ぬ。地味子がそうであるように――と、空を見上げていたはずの俺は、いつのまにか室内にいるということに気がついた。それどころか、俺はベッドの上で仰向けに寝ている。
しまった、そうか、と理解する。アイツの死がトリガーなのだ。タイムリープの原因を突き止めようと決めたその日に発見できてしまうとは、ウマい話はあったと心の中でガッツポーズをした。しかしそのためにもう一度この日を繰り返さなければならないことは確定した。俺は大きなため息を天井に向かって放り出し、いつもの通りに着替えを済ませていつも通りに登校した。
朝はどこにいるのかわからなかったが、出席を取る際に地味子の存在は早くからわかった。地味子の名前は栗栖栄華という、意外にも可愛らしい名前で、俺の真後ろの席だった。昼休みに入って、俺は栗栖の様子をそうとは悟られないよう観察した。そうして気づいたことがある。この女、常に一人だ。昼食はコソコソと隠れるようにして食堂の隅で食べていたし、食べ終わった後も教室に戻って寝たふりをしている。ようするに典型的な『ボッチ』なのだ。だが、ぼうっとしている栗栖も何か辛いことを抱えているのだろう。あえて死ぬことを繰り返すほど、悍ましい何かを。
「なあ、栗栖」と、俺は思い切って声をかけてみた。
「えっ、え、なん、なんで……」
「え? 話しかけちゃまずかった?」
「う、ううん、そ、そんなこと……」
ふへへ、と栗栖は顔を真っ赤にしながら愛想笑いを浮かべた。もっとも、前髪のせいで頬の下の方しか見えないわけだが、それでも緊張で赤くなっていることがわかる。
「栗栖ってさ、タイムリープ知ってる?」俺はド直球だった。
「ひょぇッ⁉︎」
聞いたこともないような奇声を上げた栗栖にクラス中から注目が集まる。お互いに見つめ合ったまま黙っていると、周りの生徒たちもまた他愛のない話を始めた。その喧騒に紛れて、俺たちは小声で会話を再開させる。
「な、ななんで、わたしがタイムリープしてるって知ってるの」
自白が早い。普通は漫画なんかの話だと思うだろ。俺が相手じゃなかったら頭のおかしい女だ。だが話が早くて助かる。俺は余計な話なんかしないでさっさと解決したい。
「栗栖がタイムリープすると俺もタイムリープしてるみたいなんだよ」
「そ、そう、なんだ……」
栗栖は俯いてしゅんとした。まさか自分だけの特殊能力についてきてしまう人間がいるなんて想像もしなかっただろう、混乱しているようだ。俺も想像しなかった。
「まあ、別に責めてるわけじゃないから落ち込まなくていいって。で、なんかあったのか? あんなことするなんて普通じゃないだろ。ほら、いじめとかさ……」
「いじめ……?」栗栖はきょとんと小首を傾げて、それからハッとした。「う、ううん、そんなのない。みんないい人、ばっかりだし……」
「じゃあなんで自殺なんかしてるんだよ。まさか庇ってるんじゃないだろうな? 仕返しが怖いとか……そうじゃないと、わざわざあんな痛い思いを繰り返し」と、そこまで話したところで、人影が目の前を覆った。そしてソイツは「使うね!」と言いながら俺の机に尻を乗せた。天音だ。
「あまねっちぃ、カナキ困ってるじゃ〜ん!」と、天音の友人がケタケタ笑う。
「え〜? 困ってないよね〜? 目の保養だもんね〜? 嬉しいよね〜?」
天音は俺を挑発するように上目遣いで言って腰をくねらせた。獲物を狩ろうとする狩人の目だ。天音の全身からいい匂いがする。その匂いが机に移っているだろうが、俺は断じて負けない。その後ときどき二人にイジられ、ようやく昼休みが終わる。そのタイミングで、真後ろにいる栗栖に振り向かないまま紙を渡した。「放課後、一緒に帰ろう」というメモだ。受け取った栗栖がどんな顔をしているのかわからなかったが、これでタイムリープを阻止できるだろう。
夕暮れ時、学校からの帰り道。藤の花が折り重なるようにして垂れた街路樹に沈み込んでいく太陽は、まるで巨大なオレンジ色の玉が溶け出してオーロラを作っているようだった。アスファルトには夕日が反射して赤く染まって見えた。そんな美しい風景の中、俺と栗栖は学生服に身を包み、隣り合って歩いていた。栗栖は学校からここまでずっと俯きがちで、何度も重たそうに背負った鞄を持ち直していた。その中には、彼女の辛い思いがしまい込んであるのかもしれない。
「それで、どうして自殺なんかしてるんだよ」と、俺はその沈黙を破った。
「それは……」
「言いたくないなら言わなくてもいいけど、でもタイムリープするんだろ?」
「ごめんなさい……」
「いや、責めてない責めてない。ごめん、言い方が悪かったか。俺はさ、栗栖の悩みを解決したいんだよな。だから俺で力になれることならなんでも言ってほしいんだよ」
「どうして、そんなにわたしのこと気にしてくれるの」
栗栖はもじもじと指先を弄びながらつぶやいた。
こいつは、人の話を聞いているのだろうか。俺が言っていることはつまり、いちいちタイムリープされたら困るからおまえの悩みをさっさと解決して終わりにしたい、ということに尽きるのだが、どうも俺が栗栖に興味を持っているかのような受け取り方をされている気がする。
「どうもこうも、そりゃ」と、真実を告げかけたとき栗栖が俺の袖を引っ張った。
「あの、あの、正直に……言う」
「お、おお。助かるよ」
「わたし……今もそうなんだけど、小学校のときからどんくさくて、友達がいなかったの。中学校に入った時にはインフルエンザに罹って、いざ登校したら、もうみんなグループできてて、友達できなくて。高校に入ってもダメで、やっぱりわたし根暗だから、全然友達できなくて……声も小さいから、聞き返されたら何も言えなくなっちゃって……」
「うん、それで?」
「天音さんに話しかけてもらえたのが嬉しくって、話したいと思ってるけど、でもうまく話せなくて、あんなふうじゃ天音さんに嫌われちゃう。迷惑かけてるし、何か罰を与えられないと……でもその罰がボッチなのかなって思ったら、やっぱりわたしボッチの方がいいのかなって……」
「お、おう、そうか。天音は何も考えてないと思うけど……」
「それで……それで……辛くなっちゃって……」
「うん、ん?」
「だから死ぬの」
俯いたままの栗栖の前髪が揺れる。差し込む太陽の色に染まった髪の隙間から、潤んだ瞳がちらと覗く。表情こそ深刻だがしかし、一大決心をして告白したにしては、あまりに薄い内容だった。ようするに、この女、ボッチすぎて辛い、と言っているのだ。いや、もちろん本人としては十分に重たい理由であり、それを否定する気はないが、もっとこう、酷いイジメに遭っているとか、ワルい男たちに無理やり性的なことをされているとか、家庭環境が虐待などで辛いとか、そういった悲惨な状況を想像していただけに、肩透かし感が強かった。
それが実のところは「天音とうまく話せなかったから」「友達がいないから」などという理由でタイムリープを繰り返された俺の身にもなってほしい。出来うる限りに笑顔を作ってはいるが、俺の口角は我慢できずにひくひくと痙攣する。
「あのなぁ」俺は思わず白い目を向けた。「だったら俺が友達になってやるよ」
「え……」
「なんだ、俺じゃ不満だったか」
「ど、どうせなら、井岡くんとか……」
「贅沢言うな」
井岡凱。芸能人にも引けを取らないほどの高身長イケメンで、それでいて性格にも嫌味がなく誰とでも仲良くなれてしまう、まさしくカースト上位と言って差し支えのない男子だ。俺とも一応の友達ではあるが、別のクラスなので顔を合わせることはほとんどない。天音と仲良くなりたがっているのもそうだが、栗栖は身の程というものを知らないらしい。
「ご、ごめんなさ……やっぱり、わたしなんか……」
「よし、ちょい待て」俺はポケットからスマホを取り出す。「ほら、ライン交換しよう」
「え、えっ、でも……」
「どうした? ラインやってないなんてことないだろ、さすがに」
「わ、わたし……ライン交換したことないから……やり方、わからなくて……」
栗栖はおずおずとスマホを取り出しながらそんなことを言った。まさかラインの交換をしたことがない人間がいたとは。俺もそれほど経験が多いわけではないが、メッセージのやり取りを行うアプリとしては現在最も一般的といえるものだから、これに順応してもらわないと困る。
「本当は俺のQRコードを読み取れば一発なんだけど……栗栖に今後友達ができたときのためにもやり方を教えておくよ」
「今後の……ともだち……!」
栗栖は手に汗を握って興奮気味に鼻息を吹いた。そんなに緊張することではない。栗栖がスマホを弄り、隣でラインの画面を見せてくる。見たいわけではないが、友達の数が三であることがちらっと目に入った。間違いなく、電話番号から自動で登録された家族のアカウントだろう。ここまで友達数が少ない人のホーム画面は初めて見て、勝手に悲しみを覚えてしまった。
「ここ押して、その人型のマーク」
「ん、ここだよね」
「そしたら真ん中にQRコードってあるだろ、それタップして」
「う、うん、押した! わ、なんか、照準みたいなの出てきた……!」
「いや照準て。QRコード読み取ったことないのか? まぁいいや、そんで、真ん中下あたりに小さくマイQRコードって書いてあると思うんだけど。それ押して」
「あ! 出てきた、出てきたよ……!」
栗栖は薄いブラウンの目をキラキラとさせながらスマホの画面を見せつけてきた。いつのまにか長すぎる前髪をサイドで留めていて、どきりとさせられる。以前は死亡シーンで見せつけられた人形のような美しい顔立ちが、今は照れくさそうな笑みを浮かべている。顔、隠さなきゃモテそうなのに。もったいないような気分になったが、今は無理させる必要はないか。
「……読み取ったから、友達登録した。そっちもよろしく」
「あ、うん。で、できた。わたしたち、これでともだち?」
「まあ、そうなんじゃない? ラインなんかしなくても友達は友達だけど」
「はぁぁぁあ……!」
栗栖は夕日に向かって両手でスマホを掲げた。ぷるぷると感動に打ち震えているようだ。こんなことでこんなにも感動してくれるとは、栗栖にはタイムリープで迷惑をかけられたものだが、最初から友達になっていればよかったかもしれない。一挙手一投足が面白い奴なのだから。
シュポ、とスマホから音が鳴る。『不束者ですが、よろしくお願いします』とラインが来た。隣を見る。栗栖は両手に持ったスマホで顔を隠し、横目でチラチラとこちらを見ていた。簡潔に『お見合いか』と送ると、栗栖は急に「ンフ、ンフフ」とニヤニヤし始めた。笑い声を抑え込んでいるのだろうが、かえって不気味な声になっていることに気づけないらしい。ラインでのやり取りが嬉しいのか、栗栖は隣にいるのにもかかわらず何度もラインを送ってきた。
『本日はお日柄もよく、わたしたちの門出に相応しい一日ですね』
なんて仰々しいラインだ。『お見合いか』と送ると、栗栖はンフフと笑った。
『金木くんは、どんな食べ物が好きですか』
『麻婆豆腐とかかな。辛いの好き』
『辛いのが好きな人は、マゾだそうです。わたしも、辛いのが好きです』
『突然の性癖カミングアウトきたな』
『ちがいまふ』
俺は声を殺して笑う。リアルタイムで慌てて誤字を送ってくる様子が見られるなんて、なかなか面白い体験をした。どうして笑うの、と遠慮がちながらも怒ったようだったが、本気で怒っているわけではないのはわかるし、俺も本気でからかうつもりはない。「歩きスマホはダメだぞ」とスマホをしまって現実の会話を促した。俺たちは友達になったが、年頃の男女でもある。これからちょうどいい距離感というものを探り探りで探し当てなければならないだろう。
シュポ。自宅に帰り着いて、玄関の扉に手をかける。シュポ。中に入って靴を脱ぐ。シュポ。靴を整えて、シュポ、自室で着替える。シュポ。シュポ。シュポ。疲れたから風呂に、シュポ。入っている間にも、シュポ。晩御飯を食べているときにも、シュポ。くつろぎながら、シュポ。
あの後、栗栖は家に送り届けてやった。家は正反対で、正直に言ってしまえば面倒だったが、「俺が送りたいから」と押し切った。そもそも俺は女の子を一人で帰すような男に育てられていない。とはいえ自分でもちょっと強引に思えたが、栗栖は「う、うん……ありがと……」と相変わらずモジモジと遠慮がちながらも了承してくれた。俺に他意はないことが伝わったのだろう。
念願の友達ができたのだから自殺はもうしないはずだが、俺の知らない間に事件に巻き込まれたり、事故などで死んでもらっては困る。きっと栗栖は死に方がどうあれタイムリープしてしまうはずだ。だから念のため栗栖の安全を守りながら家に送り届けて、俺は一人帰路に着いたわけだったが、その間にもスマホからは次から次へと通知音が鳴り響いた。
俺はもともと滅多にラインは返さないタイプなので、ここまで未読無視をしていたが、ちらっと通知部分だけで内容を見ると『金木くんは、どっちが好きですか?』とあった。リビングのソファーでくつろいでいる今、通知は百五十件を越えている。俺が無事に帰り着いたかどうかの心配でもしているかと思いきや、その最新部分でいったい何を問いかけているのか。
恐る恐るラインを開くと、『!』とだけ送られてきた。その上には、写真が二枚あった。一つは青い花柄のブラをつけた写真で、もう一つは黒地に白いフリルのついたブラをつけた写真だ。制服の上からでは到底想像しがたいボリュームだと感じた。俺は即座にスマホを消灯し、二階の自室に直行する。勢いよくドアを閉めてベッドにダイブし、すばやくラインの通話ボタンを押す。
「あ、か、かな、金木くん?」と、栗栖は酷く狼狽えた様子で応対した。
「おい、コラ。何送ってんだ」
「え、んへ、えへ、ふへへ……」
「笑って誤魔化すな。相手が俺だからよかったけど、他の奴にこんなの送るなよ」
「えっ? あぁあの、そ、そ、それって」
「じゃあまた明日な」
俺はさっさと通話を切った。俺はもともと通話もメッセもしないタイプの人間なのだ。これくらいバッサリ連絡を断つ方がちょうどいい。それからもシュポシュポと通知が来ていたが、幾度となく繰り返されたタイムリープで疲弊していた俺は、畳んでおいた毛布を広げて潜り込んだ。これでようやく全ては解決し、まともな睡眠にありつける。そう思うと眠気がどっと押し寄せてきた。シュポ、シュポ、としばらくの間ずっと聞こえてきていた通知音が遠のいていく。
そして目覚めの時がやってきた。タイムリープをしないで迎える朝のなんと気持ちのいいことか。伸びをしながら時計に目をやった。七時だ。着替えを済ませてから、ふと通知が気になってスマホを見る。寝る前にもさんざん送ってきていたみたいだから、何百件の通知が滞留しているのか逆に興味がある。ところが、通知はゼロだった。それを見た瞬間、心臓から血の気が引いた。スマホの画面に表示されている日付は、五月九日だ。つまり、六回目の朝である。
「なんだよぉぉぉもぉぉぉおおォォオ‼︎ ライン返ってこなくなったからって死んだのかよぉぉォォオおおおお‼︎」