18・シュトゥルム・ウント・ドランク(2/3)
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雅樹せんぱいと大河さんが走って行ってしまった後、シーナさんが私を振り返ることなく、美術室に向かおうとしたので、腕をつかんで止めた。
「……何したんですか」
「キスしたけど?」
分からなかったのと言わんばかりに首を傾けた。
その青い目に、温度が無い。
「……けど、って」
「他に用がないなら、離して」
「……どうして、私がお饅頭に下剤を入れたって言わなかったんですか?」
告白をしたとしても、薬を盛るような女の子は、ふられても仕方ない。
そこを言えばいいのに。
どうして、この人はそのことを真っ先に言わなかったんだろう。
「雅樹を傷つけたくないから」
「……それなら、なおさら言えばいいじゃない」
不思議そうに青い目を瞬かせる。
それだけでも、ビスクドールのような危うい美しさがある。
悔しいけど、本当に綺麗な人だと思う。
「知っている人に薬を盛られるって、とても傷つくの。わたしは何度もあったから。
微量の下剤でも、過剰反応してさらに体調を崩すくらいに」
「……何度も?」
「そう、何度も。優しいお兄さんだと思っていた人から、友だちと思っていた人から……いろんな人から」
何も言うことができなかった。
軽く言っているけれど、話の内容はかなり怖い。
「だから、雅樹が食べずに済んだのなら、言うつもりはないの。雅樹が傷つかないなら、わたしがお腹を壊すくらい、どうでもいいし」
「どうでも……」
「でもね、食べ物は大事にするように、わたしも雅樹もお父さんに教えられているから。もう2度と、薬入りを雅樹に食べさせようとしないで。
もし食べさせたら、法を犯してでもあなたに復讐する」
冷たい視線で見下ろしながら、そう言うとわたしの手を振り払って、美術室へ向かった。
その後ろ姿を見て、何か恐ろしいものに関わってしまったような、重い予感を感じた。
シーナさんは、危ない人だ。
あの人の隣に雅樹せんぱいを置き続けることは、危険すぎる。
何かが起きてからなら離せる?
ううん。
それはダメ。
絶対にダメだ。
何をしてでも、雅樹せんぱいをシーナさんから離さないと。
わたしが、シーナさんから、雅樹せんぱいを救い出さないと。
下剤を盛ったのは、ただ、お饅頭が少し古い餡子があったみたいだと、雅樹せんぱいと秘密を共有したかっただけ。
餡子の出し入れを間違った私の失敗だから、多江おばあちゃんには内緒で。
ただ、それだけを、望んでしまっただけなのに。
「……お腹が重苦しいのは、きっとシーナさんが怖いだけ」
本当は他人に薬を盛ってしまったことへの罪悪感なのに、この時の私は気がつかないふりをした。
悪いのは私じゃない。
悪いのは、シーナさん。
そう思っていた方が楽だから。
大丈夫、お姉ちゃんと同じようにやれば、私も雅樹せんぱいと両思いになれる。
きっと、大丈夫。
はぁっと、大きく息を吐く。
友だちより、彼氏がいれば、大丈夫。
お姉ちゃんが言っていたとおり、友だちなんて、すぐに離れていくから。
ずっとそばにいてくれる人は、男の子でひとりいればいい。
うん。
きっとそれで間違ってないから。
私は何も無かったような顔で、美術室に入った。
入った途端、視線が1箇所に集まっているのを感じた。
視線の先は、部屋の中央に立つシーナさん。
「……え、何これ」
一心不乱に、みんなの鉛筆が動いている。
シーナさんとスケッチブックだけを往復して見ているだけ。
誰も私のことなんて、気にもしない。
ほんの数十秒、私より早く美術室に入っただけのはずなのに。
一体何が。
呆然と立ち尽くす私の近くで、何本かある替えの鉛筆に手を伸ばして、床に落とした人がいる。
拾った鉛筆を渡すついでを装いながら、「どうしたんですか?みんなすごい集中」と、小声で聞いてみた。
屈んだ時に見えた名札は、「天野」。雅樹せんぱいと同じクラスの人だ。
「わからない。さっき、シーナさんが『綺麗に描いてね』と、言って、そんで、回って、微笑んで、それが、とても綺麗で……」
夢遊病者みたいな顔で答えられた。
え、何?
怖い。
「……あ」
鉛筆を握ったまま、天野さんのぼんやりとした視線が動く。
当然のように、視線の先にはシーナさん。
シーナさんは無言で私たちを見ると、首の後ろから髪をかきあげて、横に払った。
一瞬だけ、金色の光が広がる。
そして、シーナさんはさっきと同じポーズになって、私たちから視線を逸らした。
それだけなのに。
夢に呑まれたように、ふらふらと動いて、スケッチブックと鉛筆を手に取ると、空いている椅子に腰を下ろした。
そして、周りの部員たちと同じように、一心不乱に私もシーナさんを描き始める。
何も考えずに。
ひたすらに目の前のモデルを描きたいと思った。
我に返ったのは、それから1時間以上が経った後だった。
鉛筆をスケッチブックの上に放り投げて、誰も立っていない部屋の中央部を見て、重いため息。
両手で顔を覆った。
「……な…んなの、あの人。
怖すぎる」
人を惹きつける力が桁外れだった。




