3.揺さぶりと長い週末のはじまり④
それからしばらくシーナと通話を続けたけど。
シーナがそこまで不安になる感覚は私には分からなかった。
「うーん?」
アイスの空袋をゴミ箱に捨てて、キャミソールの上にTシャツを着る。
そのまま廊下に出て、隣の部屋にノック。
「大河〜。ちょっといい?」
ちょっと間があって、抑えつけたような声で返事があった。
「……いいよ」
「お邪魔します」
ドアノブを引いて中に入れば、男子中学生の弟の部屋。
机とベッドと本棚ひとつ。
あとは、木枠だけのクローゼットにごちゃごちゃと服とダンベルがあるだけ。
フローリングにうつ伏せになって、肘で体を起こしてぷるぷるしてる。
プランクか。
筋トレか。
ちょっとだけ変なことした直後かと身構えたよ。いかんいかん。よろしくない本を読みすぎた。
20秒黙って見ていたら、べしゃっと大河が床に崩れた。
「それは効き目があるの?」
「マルス像には負けん」
「誰よ。マルス」
「腹筋の割れた石膏像」
「……原料含めてバキバキじゃん。それ無理でしょ」
「それで?何か用?」
「うーん。ちょっと気になって。
雅樹くんって、女子から告白されたことないの?」
「俺の知る範囲ではない。シーナさんに殺される」
「……だよねぇ」
大河の知らないところで、雅樹くんが誰かに告白されていることはないだろうなぁ。
シーナの大河への嫉妬の炎が燃え上がったのも、本当にすぐだったし。
闇堕ちしたシーナを、希望に満ち溢れた中1の春に見せられた大河には本当にすまんと思ってる。
「雅樹くんって、シーナを好きだよね?」
「何を今さら」
「ほぼ付き合ってるよね?」
「どうした?姉ちゃんの中では子どもまで出来てるんだろ?」
「うん。妄想の中ではできてるんだけど。まさかのリアルシーナが、雅樹くんが他の女と付き合うんじゃないかと不安になってる」
「え?なんで?」
呆気にとられたような顔で、大河が私を見上げる。
だよねぇ。
そうなるよねぇ。
「なんか、美術部の1年女子に怯えてる」
「お菓子をあげようとしていたっていう?」
「うん。でも貰ってないし、シーナは毎日モデルで牽制かけに行ってるし。
シーナに物怖じしないほど可愛いの?」
「……同じバスケ部の奴らがざわつくくらいには可愛いらしい」
「マジか」
闇堕ちシーナのショックから、可愛い女の子への評価能力が壊れた大河の美醜の判断はあてにならない。だから周りの評判を聞くようにしているけれど。
「……可愛い系の年下女子か」
「シーナさんの圧勝に見えるけど」
「私もそう思うんだけど」
お互いに交際経験がろくにない姉弟は、一緒になって首を傾げた。
「日曜日、シーナの家に遊びに行こうかな」
「バイトは?」
「午後2時までだからそのあと」
「ふぅん。いってらっしゃい」
興味が無さそうな返事をして、再びプランクの姿勢になる。
「……のんきにしてるけど、巻き込まれるのは一瞬よ」
「やめろ。マジでやめろ。なんだその不吉な予言」
「平穏にラブラブいちゃいちゃしてればいいのにねぇ〜」
「姉ちゃんも彼氏つくれば?」
「……いや。男は気持ち悪いから、しばらくいらない」
「すまん」
「気にするな弟よ。……彼女できるといいね、あんたに」
「……女子が怖いと思わないようになれば、な」
「すまん」
「気にすんなよ、ねーちゃん」
お互いに不毛なやりとりだと思った。
***
朝起きると空が青かった。
少しだけ、秋の色になったように思えたのは、夜中に雨が降ったからだろう。
朝ごはんを食べて、支度をして自転車に乗る。
今日は本部の人たちも来るので、いつもより早く合気道の道場に向かう。
家の敷地を出る前に、シーナの部屋の方に視線を向ける。
5秒くらい待つと、ガラス戸が開いた。
「雅樹、いってらっしゃい」
「シーナ、おはよう。いってきます」
お互いに笑みを交わして、ペダルに乗せた足に力を入れる。
朝露の満ちた庭を出る。
公道に出て、しばらく走り続けた。
信号にひっかからないまま自転車を漕ぎ続け、ふとした時にシーナの寝起きのぼんやりした顔と、くしゃくしゃの髪を思い出して、少しだけ口元がほころぶ。
今日の稽古も頑張ろうと思った。
畳の上でひたすら同じ動きを繰り返す。
相手の技を受けて、畳に転がり、起き上がっては相手に技をかける。
袴をさばきながら、たくさんの大人に混じって、相手を変えて何度も何度も繰り返す。
違う相手の動きを体に受けて、体を回してくるりと畳に転がる。
同じ動きでも、相手が違えば全く違う。
受け身ひとつとっても、僕は未熟で拙い。
それはぎこちなさで出て、畳に落ちる音へ表れて、疲労に蓄積される。
無言でひたすら繰り返す。
衣擦れの音と、畳の上に落ちる音と、自分の荒い息だけ。
転ぶにしても綺麗に転べない。
力を受けたら、それに対抗するのではなくて、体全体で流す。
全てを受け止めてはいけない。
ダメージをすべてもらってはいけない。
最初の頃は派手に飛ぶのがいいのかと誤解していた。
正しく体が動くと、綺麗に見えた。
ただそれだけだった。
シーナが受ける悪意をすべて排除したいと最初の頃は思っていた。
格好よく、相手をぶん殴って、立ち上がらせないようにする。
でもそれは違うとふとした時に気づいた。




