3.揺さぶりと長い週末のはじまり②
「雅樹せんぱいも見ますか?」
「ううん、別の本だから大丈夫」
一応話しかけてから、武田さんの目の前にある分厚くて古ぼけた画集を引っ張り出した。
急に本棚に手を伸ばすと驚かれるから。
ホコリが出ないようにそっと引き出したが、思いの外、綺麗だった。
そういえば、土田先生が画集を広げては何か考えていたのを見た記憶がある。
先生も美術館に収蔵される作品を作るのに必死なんだな、と改めて思った。
近くの作業台に乗せて見ていると、何ページかめくった後に、武田さんが正面にやってきた。
黙ったまま、画集を挟んで眺めている。
開いた窓からは、野球部の掛け声が風と一緒に流れてくる。
9月の夕方の熱気。
じんわりと半袖のシャツの下に汗がはりつく。
不意に武田さんが動いたので、顔を上げると。
「雅樹せんぱい」
顔を赤らめた武田さんの目元。
逆光なのに、キラキラと輝いて見える。
「何?」
「……雅樹せんぱいは、好きな人、いますか?」
「好きな人……?」
「はい。異性として、好きな」
「異性……」
それはシーナだと言いそうになって、止めた。
シーナに告白もしていないのに、ここで別の人に言ってしまうのは、違う気がした。
「いるけど、それが」
「シーナさんじゃ、ないですよね?」
沈黙で答える。
さわ、とホコリっぽいカーテンが舞う。
不意にテレピン油の匂いが鼻を刺激する。
嗅ぎ慣れているけれど、明らかな異臭。
それも頭から吹き飛ぶ。
「シーナさんは、姉と弟のきょうだいみたいだなって、思って」
「きょうだい?」
「2人が一緒に並んでいるのをずっと描いていて、最初は恋人かなと思って描いていたんですけど」
「うん」
「何か違うな、って思って。彼氏彼女の恋人の感じって、もっとお互いに意識している雰囲気みたいなものがあるじゃないですか。
でも、雅樹せんぱいとシーナさんは、落ち着いているっていうか。
あれだけくっついていても、照れるとかそういうのもなくて」
相槌も忘れて、僕が黙って考えてこむ。
その間にも、武田さんは言葉をたどたどしく紡ぐ。
「それで、恋人同士っていうのを取り外して考えたら、きょうだいかなって。
あの、私には姉がいるんですけど、仲良しで。最近、姉に彼氏ができたので、2人が一緒の時に会ったことがあるんですけど、なんか、こう、私といる時とお姉ちゃんが違うんだなぁと思って」
「……そう」
「それで、なんだか、雅樹せんぱいとシーナさんは、どっちかっていえば、私とお姉ちゃんのような雰囲気だなって思って。
それで……その」
「……うん」
「私、雅樹せんぱいと、……なれたらいいなぁって……」
「え?」
「あああ、あの、ごめんなさい!これは聞かなかったことにしてください!」
「え、と、何て言ったのかな。聞こえなか」
「あの!私、シーナさんが雅樹せんぱいにとって、お姉さんみたいな人なら私、その……やっぱりなんでもないです!」
武田さんは顔を真っ赤にさせると、そのまま準備室を飛び出していった。
美術室と反対の方に走っていったから、トイレか外の非常階段の方に向かったのだろう。
僕は武田さんに言われたことが頭の中で消化出来ないまま、ぐるぐる回っていた。
シーナと僕が、姉と弟みたい?
今まで、そんなことを言われたことはなかった。
理由ははっきりしている。
髪と目の色と、肌が、全く違うから。
最初から日本人として扱われる僕と、長い言葉や会話をするまで警戒や興味の目で見られるシーナは、一度もきょうだいと間違われたことはなかった。
でも、その見た目のフィルターを外してしまえば、きょうだいのようなものになるのだろうか。
今までに一度も考えたことのなかったシーナとの関係を指摘されて、頭がフリーズする。僕は画集から目を離して、ぼんやりと揺れるカーテンを眺めていた。
野球部の誰かがホームランでも打ったのだろうか。
バッティングを褒める声援がここまで聴こえてきていた。
「シーナ先輩さよなら〜」
「シーナさん、月曜にまた来てくださいね」
「うん。またね。さよなら」
ひらひらとご機嫌で手を振るシーナ。
女子部員たちが嬉しそうに振り返す。
まだ光が残っているけれど、いつもより遅くなった下校時間。
シーナは嬉しそうにカバンを持って、僕の腕を組む。
「ふふふ、猫耳の雅樹の絵をもらっちゃった」
「ええ?!僕の?!」
まさかの僕のイラストだった。
やけにニヤニヤしていると思ったら。
あいつら。
「わたしと並んでかわいいの!後で見せてあげるね」
「ううん、見たいような怖いような」
「文化祭でイラストにして出すらしいから、雅樹も見ると思うよ?」
「……晒し者にされるのか」
女子の妄想力が怖い。
こそこそと可愛い女の子のイラストを描いている男子部員が警戒するのも分かる。
絶対女子の方がやばいもの描いてる。
「変な絵はなかった?」
「綺麗な男の子たちの絵が多かったけど?」
「……そう」
あんまりシーナには美術部の闇に触れて欲しくない。
聞かれても上手く説明できそうにないし。
腕を組みながら、嬉しそうに部活でのことを話すシーナ。
先輩という壁があるからか、程よい距離感がシーナにとって嬉しいようだ。
執着されない女の子同士の付き合いは、シーナにとって貴重で楽しいものだって僕にも分かる。
悠河さんもシーナを溺愛しているけれど、友人同士の距離感を保つようにしている。
むしろ、悠河さんが『ともだち』というものをシーナに教えてくれた。
それまでシーナは、本当にひとりだった。