2.美しいものに手を伸ばしたくなる気持ちは分かるけど⑥
僕の家でシーナと一緒に夕飯を食べた後、帰宅した母さんにシーナを頼み、いつも通りに自転車に乗って道場へ向かった。
真夏よりも少し涼しい夜道を、風を作りながら走る。
シーナに「ごめん」なんて、言わせたくない。
シーナが最初から頼れる男になりたい。
自転車を走らせながら、道場に通い始めた頃を思い出していた。
シーナを誘拐しようとした男の車をぼこぼこにした後、泣き叫んで警察や親に説明を終えた僕は、興奮と恐怖で眠れなくなっていた。
もっと強くならなきゃ。
もっとシーナを守れるくらいにならなきゃ。
あんな奴ら、全部消えればいい。
ぐちゃぐちゃになった思考も感情も、小学生の僕には毒が強すぎた。
眠れないまま、何度も起きては、台所で飲み物を飲んでいると、風呂上がりの父さんが真面目な顔で言った。
「雅樹、合気道を習いなさい」
「あいきどう?」
「何度か散歩で行ったことあるだろう。あの大きな駐車場のある道場だ」
「わかるけど……なんで?」
父さんは黙って小鍋に牛乳を入れると、コンロの火を点けた。
ココアと砂糖をたっぷりと入れて、ゆっくりと鍋をかき混ぜながら言った。
「シーナちゃんを守った雅樹は、すごいと思う。でもな、物を壊したり、人を殴ったりしないと守れないのは、雅樹にとって良くないんだ」
「ダメなの?」
「うん。ダメだ。相手にもよくないし、何よりも、雅樹にとってよくない」
「どうして?」
「雅樹が暴力を振るうことが正しいと思うようになったら、雅樹が傷つくから」
「でも、怪我しなかったよ?」
「うん。体はな。でも、今、眠れてないだろ?心に傷がついてるんだよ」
しゅわっと吹きこぼれる前に、コンロの火を消して、父さんは2つのマグカップにココアを注いだ。
ふんわりとあたたかい湯気が立った。
「シーナちゃんを守りたいなら、自分を傷つけない方法で守りなさい。
それが何かを雅樹に知ってもらいたいから、合気道の道場に通って欲しいんだ」
その時は、父さんが何を言いたいのか、よく分からなかった。
とにかくシーナを守るために何かをしなければと焦っていた僕は、父さんの言う通りに合気道を習おうと思っただけだった。
すべきことが決まったからか、父さんと甘いココアを飲んだ後、僕は泥のように眠りこんだ。
目を覚ませば、登校時間はとっくに過ぎていて、仕事を休んだ父さんと一緒に合気道の先生に挨拶に向かった。
あれから毎日、道場に通っている。
時々、休みの日もあるけれど、そういう日は道場近くの小さな神社をお参りして、自転車を使わずにランニングで往復をしている。
少しでもさぼってしまえば、シーナを守るために相手に立ち向かった時に、恐れを抱いてしまいそうで。
まだ中学2年で、体も頭も大人には敵わないから。
せめてシーナよりも大きな体になれば、少しは自信が増すのかもしれないけれど。
僕がシーナのそのままの金色の髪と青い瞳を好きなように、シーナもそのままの僕を好きでいてくれるから。
偽りのない、背伸びをしない僕で強くならなければ、シーナに面と向かって告白もできない。
子どものままごとのような約束じゃなくて、ちゃんと異性同士の約束を交わしたいから。
だから。
小さな積み重ねを今日も続けていくしかない。
自転車を停めて、更衣室で道着に着替えたら、いつもどおりに道場の入り口に正座をして、丁寧に頭を下げる。
「よろしくお願いします」
シーナを守れる力が持てるように。
稽古を終えて、帰宅するとパジャマ姿のシーナが出迎えてくれた。
「おかえり、雅樹。お風呂に入って!」
にこにことしながら、僕のリュックを奪うと、そのまま風呂の方へ連れて行こうとしたので、
「ここまで!はい!戻って!」
と、力強く拒否した。背中流すとか無茶なことを言われる前に拒否だ、拒否!
シーナはちょっと口を尖らせたけれど、すぐに、
「お風呂上がったら、絆創膏、張り替えるからね!」
と捨て台詞のように言って、リビングの方へ戻って行った。
とりあえず、夏のパジャマは薄着なんだから、色々と気をつけて欲しい。
シーナには言えないけれど。
いつもよりゆっくりと風呂に入って、タオルで髪を拭きながらリビングに行くと、僕の母さんとテレビを見ていたシーナが突然ソファに崩れ落ちた。
「シーナ?」
「……風呂上がりの濡れた髪の雅樹……、エロい……!」
「シーナちゃん、あんな小僧ふぜいにエロスを感じるなんて、おばさん心配だわ」
「あんまり母親の口からエロスとか聞きたくないんだけど」
「それなら未来の嫁がこんな状態になった時、どう言えば正解なの?」
「……何も言わない方がいいんじゃない?」
「無造作にタオルで拭いてるだけなのに……計算されつくした髪型よりも、きゅんきゅんする!!」
シーナの僕に対してのチョロさが前より増してないか?今日のことで不安定になってるのかな。
そのへんに置いてあった真っ黒なウサギのぬいぐるみで顔を隠しながら、僕を見ているシーナに未開封の絆創膏を渡す。
「ん。貼って」
シーナの隣に座って、頬を向ける。
シーナは真っ赤な顔のままで、絆創膏をはがすと、ゆっくり丁寧に僕の頬に貼った。
「いたいのいたいの、とんでけ。
早く治りますように」
貼った絆創膏の上から、優しくシーナの指が撫でる感触を僕は黙って受け取っていた。




