29・磁場の中心は、いつでもシーナさんだ……。③
数秒前の騒めきは、わずかな間だけ戻ったが、少しすると教室は再び静かになっていった。
あの雅樹が、天野の絵を貶したのを聞かなかったことにして流そうとしたけれど、やっぱりスルーできなかったクラスメイトたちの動揺が伝わってくる。
机の横に立ったままの雅樹を、イスに座って見上げる姿勢の天野が凝視している。
一触即発の気配にのまれて、誰も動けない。
最初に声を出したのは、天野だった。
「……下手だけど、これはシーナさんだ。
うまく描けないから、ずっと描いてるんだ」
一日中ずっと誰とも喋らずに、絵を描き続けていた天野の声は、少しかすれていた。
クラスメイト全員が固唾を飲んで見守る中、雅樹は天野から目を逸らすことなく、答えた。
「違う。こんなのシーナじゃない」
「……うるさい」
天野がゆっくりとイスから立ち上がると、雅樹を睨みつけた。
「どうせ雅樹よりもシーナさんを上手に描くことなんてできないよ。
どうせ、人も花も、風景も雅樹の方がうまいよ……!」
「……そんなことはない」
「うるさぁい!!」
天野は怒鳴り声をあげると、雅樹に右の拳を振り上げて殴りかかった。
その瞬間に、雅樹は肘から上に左手を上げて、天野の渾身の拳をいなすと、そのまま拳の形に握られたままの天野の右手首をつかみ、くるりとその場で回ったように見えた。
天野が呻き声をあげる。
気がつくと天野が教室の床の上に、崩れ落ちていた。
雅樹は腰を落とした姿勢になっていたが、すぐに真っ直ぐに立つ姿勢に戻した。
「あ……」
机もイスもなにひとつ動かされることなく、天野だけが雅樹に倒されていた。
呆然としていた天野は、状況を理解したのか、急に顔を歪ませると目元をおおった。
「……天野」
天野の近くの席の男子生徒が助け起こそうと手を伸ばすが、天野はそれを拒否して、
「トイレ、行ってくる!!」
と、叫ぶように答えると、立ち上がって教室から走り出ていった。
雅樹は表情が抜け落ちた顔で、ずっと黙って天野を見ているだけだった。
その後、担任が来て帰りのホームルームが始まった。
天野はトイレに行ったので、戻ってきたら連絡事項を教えると、さっき助け起こそうとしていた男子生徒が担任に言っているのが聞こえた。
「まあ、カバンもあるからすぐに戻れるのかな。体調悪いなら、残らないですぐに帰るように。
あ、あんまりひどい時はすぐに呼べよ」
「たぶん、大丈夫です。すぐに帰るように言います」
教室の硬い空気に気がついているのかいないのか。
担任はいつも通りにホームルームを執り行うと、「何かあれば来るように。試験前で職員室には入れないから、入り口から声をかけるように」と言って教室を出て行った。
なぜか、クラスメイトは誰も雅樹と天野のことを担任に言おうとはしなかった。
普段の温厚で親切な雅樹を知っているからこそ、信頼感があるのか、それとも驚きのあまり、にわかには受け入れ難いのか。
盗み見るように、視線だけで雅樹をうかがっている。
少なくとも男子側としては、初めて振り上げただろう渾身の拳が、相手にかすり傷ひとつ付けることなく、そして、自分自身も傷つけられることもなく、瞬時にいなされて終わった天野の心情を考えると、担任に告げ口をする気にはなれなかった。
同じ年齢で同じクラスで、同じ男子として、普段の生活では感じることのない雅樹との圧倒的な力の差を見せつけられた天野のなけなしのプライドが傷ついていないはずがなかった。
それに、天野のあの言葉。
『どうせ雅樹よりもシーナさんを上手に描くことなんてできないよ。
どうせ、人も花も、風景も雅樹の方がうまいよ……!』
絵の技術で、天野は雅樹に劣っていると思っている。
その上に、ケンカにもならなかったなんて。
天野の心情を考えると、ひどく気が滅入った。慰めの言葉も何もいらないから、そっとしておいてくれと俺なら思う。
担任の出ていった教室は、週末の休みを前にした部活のない金曜日の放課後だというのに、静まり返っていた。
俺は無表情なままの雅樹を見て、天野のところに行くか聞くのをためらった。
雅樹も自分のしたことを受け入れられていないのか、ぼんやりとした視線を床に向けて机から動こうともしない。
どうすればいいんだ。
他のクラスメイトたちは、口数も少なく、カバンに荷物を詰め込むと、教室を出て行っている。
俺もとりあえずは帰る準備だけはしておこうと、カバンにノートと教科書をしまうと、雅樹の机の前に無言で立った。
それでも雅樹は動こうとしない。
「雅樹、天野のところに、行くか?」
あまり大きくない声で俺が言うと、雅樹の肩が揺れた。
俺も雅樹も、正面向かって誰かと諍いを起こしたことがない。
シーナさんに絡んでくる変態たちを撃退することに雅樹は慣れているけれど、今回の相手はクラスメイトで同じ美術部の天野だ。
その上、絵を描くすさまじい集中力に引っ張られるくらいに影響を受ける近い関係にいる。
嫌いじゃない、むしろ、好きな相手に、ひどい言葉を投げつけて、傷つけた時の謝り方を俺たちは知らない。
ごめんなさいで、済むんだろうか。
ふたりで固まっていると、急に風が近づいてきた。振り返ると、近くまで遠藤が走り寄ってくるのが見えた。
「おまたせー!じゃあ、大河んちに行こうか!!」
そう言って、石化したままの雅樹の腕とカバンを手に取ると、遠藤は力尽くで引っ張っていった。
「あ、遠藤!ちょっと待て!」
待てと言って止まるやつじゃないのは知っているのが、そう言うしかなかった。
カバンを片方の肩にかけて、遠藤を追うか、天野のいる男子トイレに行こうか迷っていると、声がかかった。