少しだけ変われたのならば
エルフの集落には、巨大な大木が生えている。
エルフ達に伝わる歴史によれば、最初に移り住んだ先祖が、一番に巨大な木の元に集落を作り、この広い大森林の中でも帰る事が出来るよう、その木を集落の目印と定めたという。
そして歴史を裏づけるように、その大木は他の木々と比べて異様なまでに成長していた。まるで森に生える全ての木々が成熟していない子供のように見え、その木だけが既に成長しきった大人のように思える程である。
その大木を抱くには百の両腕が必要となり、その大木を見上げる事は天を仰ぐ事と同義である。故にその木は『百天の大樹』と呼ばれ、何千年と続くエルフの集落を象徴し続けていた。
しかし、それが牙を剥くとは、誰が想像出来たのだろうか。
「あぁ……あぁ……」
一人の年若いエルフが腰を抜かして百天の大樹を仰ぎ見る。その眼に映るのは、これまで自分達エルフの集落として、産まれた時から変わらずに生え続けていた大木。
その大木が意志を持って動き出し、自分達を虫けらのように踏み潰していく光景であった。
『ブォォォォオッォ』
百天の大樹に空いた空洞から入っていく風が循環すると、それが野獣の放つ咆哮のように荒々しく森に響き、土の中から解き放たれた根は、まるで無数の触手であるかのように地面を侵食しながら、既に百人の腕にも収まらないほどの太い本体を動かす。
「何としても食い止めるのだ!!だが決して傷つけてはならぬぞ!!アレはこの集落の象徴だ!!」
「は、はい!!」
百天の大樹から離れた木の上で、そんな見当外れなエルロンの指示が飛び、それに従ったエルフ達は、木に括り付けた蔦を鏃に巻いた矢を放ったり、足元の根を真空波で斬るなど、それぞれが動きを止めようと必死に動く。
しかし、それらの全ては、あの無限に生え変わり伸び続ける枝に羽虫の如く叩き落とされるか、蠢く根に絡め捕られて幹に踏み潰されていくのか、いずれかの結末となっていた。
そうしている間にも、今まで住み慣れた木々や思い出の場所は完膚なきまで蹂躙されていく。あの根が動く度に草木や地面は下から丸ごと掘り起こされ引っくり返り、あの枝がしなる度に巻き込まれた木々は脆く折れてしまい、あの木が動く度に森に破壊が撒き散らされる。
そもそも、アレを止められるエルフは居るのだろうか?例え、此処に居るエルフ達が一丸となって破壊しようとしても、集落が滅んだその後で同胞の亡骸の上で変わらず動き続ける光景が目に浮かぶ。最早、どう足掻いても既に自分たちの運命は決まっていたのではないだろうか。
その時になって、そのエルフの頭の中で、アルシャの言葉が思い返される。アルシャが伝えようとしていたのは、この事だったのだろうか。そうだとすれば、自分達がこの未来を回避する方法は、あの忌み子の声に耳を傾ける事だったのであろうか。
理性や価値観で否定したいが、本能でそれを分からされてしまう。それこそが最善であり、生き残る唯一の方法であったと。
いや違う筈だ。あの忌み子の言葉を信じるな、あの忌み子は村に災いを持ってくる。生まれた時から親に、大人に、長老に教え込まれた道理は間違っていない筈である。事実、アルシャはロクでもない奴らを村に連れてきている。
しかし考えても見れば、その原因は全て、自分達エルフが拒絶して弓を引いた事から始まっているのではないか?もしも、何もしなければ、あの人間達も何もしなかったのではないか?
そうだとしたら、厄災を招いたのはアルシャでも人間でも無く。
「俺……達?」
アルシャの言葉を信じず、人間に牙を剥いた自分達じゃないのか。
それに気づいた瞬間に、エルフの頭の中がグチャグチャに掻き乱されていく。今まで正しいと思っていた常識や論理が根元から崩れ去って行くような音が内側で聞こえていた。
何が正しくて、何が最善だったのか。何をすれば良かったのか、長老の言っていたことが間違っていたのか、アルシャを信じるべきだったのか。選択の積み重ねが思考を壊し、自分という概念すらも曖昧に崩していく。
「あっ……」
その時になって、若いエルフは直ぐ向こうにアルシャが横たわっているのをようやく認識した。処刑が行われる寸前に動き出した百天の大樹を前にして、アルシャの事など忘れ去られてしまったのだろう。
混乱が起こった際に突き飛ばされたのか、アルシャは気を失っているようでピクリとも動かない。今であれば、例え子供であっても容易く殺せるだろう。
「……」
若いエルフは這う這うの体でアルシャに近づく。長老の教えを守るのであれば、きっと正解は此処でアルシャを殺すべきなのだろう。
しかし常識を疑い、教えを否定した頭では、最早次の瞬間に何をするのか、本人ですら予測が付かない。全て忌み子のせいだと激情のままに首を絞めるのか、こんな奴に構う暇などないと放って置くのか。最早、一秒先の未来すら考えられなかった。
だからこそ、若いエルフは動いてしまった。
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アルシャが目を覚ました時には、既に予期した滅亡が現実の光景となっていた。
「間に合わなかったですかぁ……」
魔力の溜まり場を調査した時には、アルシャは既にこの未来が訪れるであろう事は分かっていた。魔力が影響を及ぼすのは、何も生物だけでない、植物もまた同様に影響を受ける。
そもそも魔力とは、魔法を行使するための源でもあり、同時に生態系を狂わせる毒ともなる。魔物という存在自体がその事例を表す最たる例であった。
ネジレバイコーンやフォレストベアのような魔物と、馬や熊のような動物の違いは何なのか。生物学からして同種と目される二種類の差異は、その内に蓄えている魔力の保有量である。動物は極微量しか持たないのに対し、魔物は人間以上に魔力を蓄えているのだ。
だからこそ、荒々しい言い方をしてしまうのであれば極論として、ただの動物であっても魔力が濃い場所に住んでいれば、魔力に当てられ、そして魔物に変異する。
それが植物であっても例外ではない。百天の大樹のような何千年と地下から魔力を受けていたのであれば、猶更おかしくはなかった。
今、手を付いている地面には、エルフ達が守り続けた宝玉から漏れだす魔力が染み込んでいる。それがどれだけ広がっているのか分からないが、目の前で百天の大樹が動き出すくらいである。恐らく集落など容易く飲み込むぐらいの周囲一帯は、既に染み付いているだろう。
今や、このガラゴスの森はアルシャの知っている森ではない。最早、この森全てがトレント達の巣窟と化している。
その事実に絶望を隠しきれず、奥歯を噛んでアルシャ。しかしそんな感傷に浸る余裕は無かった。
「なぁ、忌み……アルシャ」
それは若い男のエルフ。半ば村八分にされていたアルシャでも知っている顔だ。両親が生きていた頃に、良く集落に来ていた際に遊んでいた、俗に言う幼馴染と言う奴だろうか。
その若いエルフはアルシャの肩を縋り付くように掴み、そして求める。
「教えてくれよ、どうやったら集落を、皆を助けられるんだ……?今なら、お前の言う事は何でも聞く、だから助けてくれよぉ!!」
顔を涙と鼻水で濡らし、悲痛な叫びを上げるエルフ。エルロンのような歴史や誇りを持っていなくとも、この集落は若いエルフに取っては、大切な場所であった。
家族と和気藹々と暮らしていた家や追いかっけっこしてはしゃぎ回った思い出の場所は無残に破壊されてしまっている。
人間よりも何十年と付き合っていた友や家族も、あの巨大な大木の前に傷つき、貫かれ、呆気なく踏み潰されていく。
エルロン達のような歳を取ったエルフ達はに、それでも百天の大樹を守れと、先祖からの象徴を失うなと叫び続けているが、若いエルフには、そんな事はどうでも良い。
歴史、誇り、伝統、教え、過去、掟、それ以前に。
此処にある物を、守りたかった。
「……私にはぁ、もうどうにも出来ませんぅ……」
「あぁ……」
そんな思いとは裏腹に、アルシャの返答は過酷であった。
若いエルフは差して落胆はしない。そりゃそうだ、今まで忌み子と罵り、信じようとはしなかった者達を許す筈も無いだろう。そもそも、薬を作るのが得意なだけのエルフに何かできる筈も無い。
しかし、アルシャの目は諦めていなかった。
「ですけど、私は諦めません」
アルシャが立ち上がる。まだ気絶の余韻が残っているか、フラフラと覚束ない足取りながらもだ。
「私は……あの人達みたいにぃ……」
そして、近くに落ちていた木の枝を拾う。エルフが風刃で切断したであろう木の枝は、百天の大樹からすれば、糸同然である。
「リュクシスさん達みたいにぃ……」
そこら辺に散らばった家屋の残骸にまだ燃えカスとなって僅かに残る火を移す。そして火のついた木の枝を携えたまま、目前に遥か遠くから見下ろす脅威に向かって、歩み出し始めた。
こんな小さな灯火一つで、あの巨大な大木を全て燃やせる筈が無い。薬学以外は頭の悪いアルシャでも分かる事実だ。しかし、それでも諦めきれない願いがある。
―――本当はずっと、自分が壊れていたのには気づいていた。エルロンは自分の薬学を欲していただけで、その為だけにずっと依存させるようにに仕向けた事も。
だけどずっとそれを認めるのが怖かった。それを認めてしまえば、両親との思い出を依存で塗り替えた自分に耐え切れなくなってしまう。だから気づかないフリをして、馬鹿のフリをして、自分の心を騙して、森の異変に気づいてからは、集落を救う為に研究を進めて来た。
しかし、リュクシス達に会ってから、アルシャの心は変わり始めた。お世辞にも善人とは得ず、どっちかと言えば悪人よりのロクデナシ達である。
だが、あのロクデナシ達は自由だった。何かに依存せずには生きていけないアルシャとは違い、エルロンや他のエルフなど気にせず、やりたいように好き勝手に暴れる様は、誰にも縛られない風のような人であった。
そんな姿を見てしまったせいだろうか、リュクシス達と関わっている内に、アルシャの心境には少しばかりの変化があった。それは依存とは違い、産まれて初めての感情、後ろに縋りたいというよりかは、横で笑っていたいという気持ち。
あの日、夜の森の中で家を焼いた火を囲んだ夜。フォレストベアの肉の早食い勝負をするリュクシスとシヴァル、それに混ざろうとして喉を詰まらせるラキとウル、その光景を笑ってみているアリアと呆れているミレーヌ。
その光景を思い返す度に、思い出すまいとしていた両親との記憶が蘇り、そして失った筈の温かさが戻ったように胸の内が熱くなる。しかし、それと同時に、そこに依存しか出来ない自分が相応しくないという自覚に心が突き刺される。
だから、アルシャはリュクシスの手を取らなかった。こんな自分では、きっと彼らを縛ってしまうから。
それでもアルシャは、リュクシス達と笑えるように、いや、リュクシス達のようになりたかった。壊れてしまってからは諦めていた自由な背中に憧れを抱いてしまった。
ならばせめて、リュクシス達の横に立てずとも、背中を見つめることが出来るように、今はまだ、出来なくとも、この鬱蒼とした檻から抜け出そう。
その為に、先ずエルフの集落を救う。忌み子と罵り、石を投げられようとも、もしあの日エルロンが来なければ、アルシャは人知れず森の中で死んでいた。その恩に報いなければ、きっとこの心は抜け出せないだろう。
故にアルシャは依存を演じる為ではなく、憧れの人達に近づく為に。
そして、依存しか出来ない自分を、少しだけ許せるようになる為に、集落を救う。
「生きたいんですぅ!!」
踏み出した脚は転ばぬように強く踏み締め、握った篝火は絶やさぬように風から守る。足取りは遅くとも、巨大な怪物に恐れず前に進む。
「あっ……」
だが、次に踏み締めた足元は挫け、握った篝火は消える。
背中から斬り裂いた風刃が、アルシャの歩みを砕いた。