狂った少女の依存心は、誰に向かえば?
狂い始めてから幾ばくか経った日の事だった。その日、アルシャは何時もとは違い、陽が昇り始めたばかり頃に目を覚ました。
理由はない。朝早くに目が覚めてしまい、そのままもう一度眠ろうにも、中々寝付けなかったというだけだ。嫌な予感に意識が覚醒したと言う訳では無い。
だからこそ、アルシャには現実を受け止める覚悟は出来ていなかった。
「あれぇ?お母様ぁ?」
家の中を彷徨うが、何処にもいない。両親の部屋も台所もお風呂場も、何処を探しても母親を見つける事は出来なかった。
「お父様ぁ?」
ならばと父親を捜す。決まって何時も部屋に籠っている父親であれば見つかるだろうと、母親が居ない不安を紛らわそうと、研究室の扉を開ける。しかし、そこには父親の姿は無い。
「どこぉ、どこなのぉ……」
突如として、家の中で一人になってしまったアルシャ。まだ孤独に慣れない年頃であり、変わっていく日常を経験している事も相まって、不安と恐怖が胸の内に募っていく。
だが再び台所に戻って来た時に、机の上に置かれていた2通の書置きに気づいて読んだ時、全て払拭された。
『夜までには帰って来る!それまで留守番を頼んだぞぉ!!』
『パパと一緒にお出かけして来ます。帰って来たらご馳走を作るからねぇ』
周りが暗くて少し見えにくいが、文言や書き方は紛れもなく父親と母親の物である。何処へ、そして何の為に出掛けたのかは分からないが、消えたのではなく帰って来る事実だけでも、アルシャの沈んだ気持ちは晴れていく。
そうだ。最近は様子がおかしかったけども、あんなに優しい父親と母親が自分を置いて行く訳がない。
きっと、あの玄関の扉を開けて帰って来た時には、留守番を頑張ったねと一杯褒めてくれる。そう思うとアルシャは、胸の中でわだかまっていた何かが温かみで溶けていくような気がした。
だから待っていよう。父親が大きい手で私を撫でまわしてくれるまで。母親が美味しいご馳走を作ってくれるまで。2人が帰ってくるまで。
そして、玄関の扉が開くのを、アルシャは心待ちにしていた。
何度目かの夜を超えても。
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父親の研究室は、アルシャにとって大人になれる場所である。
自分だと足が宙に浮いてしまう椅子、机の上に置かれた独特の匂いがするインクとペン、そして部屋の至る所に積み上げられたうず紙束や書物。どれを取っても、アルシャには未知の物ばかりで、父親が居ない間にコッソリ入っては、大人の気分に浸って遊んでいた。
だが今となっては、この場所は大人になれる場所ではなく、父親の面影を感じる為の場所になっている。
「……お父様ぁ」
扉を開ければ、何時も椅子に座って何かを書いている父親が振り返って、どうしたんだと話しかけてくれる研究室。しかし今は中に入っても、誰もアルシャに気づかない。
そして、アルシャは誰にも気づかれないまま、今日もまた乱雑に積み上げられた本の中から一つを取り出し、読み始めていく。
その本の内容をアルシャは1割も理解はしていない。しかし、父親の文字で書かれた本を読んでいる間だけは、傍に父親が居るように思えた。
熱心に本を読む今の姿を見たら、お父様はどう思うだろう?お母様はどう思うだろう?お父様は自慢の娘だと鼻を高くするだろうか、お母様は勉強熱心ねぇと褒めてくれるだろうか。
此処には居ない両親の反応を考える度、孤独がアルシャの心を食い殺そうと襲い、本を読んで気持ちを紛らわせる。
そしてお腹が空けば、少しだけ家を出て森へ行き、母親と一緒に良く採取していた木の実や薬草を食べ、また家に戻ると、父親の研究室で本を読む。眠くなれば、両親の部屋のベッドに潜り、起きればまた研究室へ。
それが今のアルシャが過ごす一日であった。退廃的な日常を送る中で、受け入れるしかない現実が押し寄せる事もあったが、その度に二人が残した書置きや本を何度も読み返し、目を反らす毎日でもあった。
そうして、同じ一日を何度繰り返したのだろうか。もう研究室に残っていた本や紙束は、頭の中で全て思い返せるぐらいに読み込んだ。2人が書き残した手紙も、文字が読めないくらいに劣化している。
それほどの年月を経ても、未だにアルシャは同じ毎日を繰り返していた。それは最早、孤独を紛らわす為だけではなく、ただ漠然と時間を過ごすための作業となっていた。
だが、そんな日々にも遂に終止符が打たれる。
それは何時ものように父親の研究室で、何度読んだか分からない本をアルシャが読み返していた時であった。
『コンコンッ』
久しく聞き慣れない音がする。最初、何の音なのか困惑してしまうアルシャだったが、直ぐにその正体が分かった。
それは、誰かが玄関の扉を叩く音だ。
「お父様ぁ!!お母様ぁ!!」
すぐさま弾かれるように研究室から飛び出し、玄関へと走り出すアルシャ。それが二人が帰って来た合図だと分かったからであった。
あれから何年、何十年経ったのだろう。今まで会えなかった分だけ、伝えたい事や話したい事が山ほど積もっていた。先ず何を話そうか、勝手に研究室の本を読んでしまった事か、それとも母親と一緒に埋めた苗木が立派な大木に育った事か。
いや、それよりも先ず、最初にして欲しいことがある。
身体は前より大きくなってしまったけど、また父親に抱き上げて欲しい。昔食べた味はもう朧気だけど、また母親の料理を食べたい。
それで、今までゴメンね。これからは家族一緒だよとそう言って欲しい。そこまで思った時には、アルシャは既に玄関の扉の前に辿り着いていた。
ドアノブを握る掌が異常に汗ばむ。久しぶりに会う両親に緊張しているせいでもあるが、この扉を開けた瞬間に何かが変わってしまうような気がしたからだ。だがそれでも、両親に会いたいという気持ちには抗えない。
一度息を吸い込み、そしてアルシャは扉を開く。
そこに待っていたのは。
両親では無かった。
「ちょう、ろう、さまぁ……?」
そこに居たのは、数人の弓を持つエルフを連れた妙齢の女性のエルフ。そのエルフにはアルシャは見覚えがある。集落の中で一番偉いエルフであり、父親が何度も話をしに行っていた相手、長老だ。
そして、長老はこう言った。
「貴様の両親は、貴様を置いてこの森を去った」
突然家に来て、そんな事を吐き捨てられようと、信じられる筈がない。
だが、長い孤独の日々を過ごす中で、未だ返ってくることのない両親を待ち続けたアルシャの心は、既に言葉一つで崩れ去ってしまうほど、壊れていた。
自分を見下ろす長老の目など憚らず、アルシャは足元からその場に崩れ落ちる。そして、受け入れまいとしていた現実に直面し、胃の中から吐しゃ物が迫り上げる。
そんな事は分かり切っていた筈なのに、ただ目を反らして、紛らわさせて、先延ばしにしていただけなのに、それを突き付けられた今、温かい日常の記憶が砕けて、欠片が刃となって突き刺さる。
もう父親の大きな手の感触はなくなってしまうのか、もう母親の優しい目つきは向けられないのか。
もう父親の愉快な声は聞けないのか。もう母親のおっとりとした声は聞けないのか。
もう父親の熱心に研究する姿は見られないのか。もう母親の鼻歌交じりに料理する姿は見られないのか。
もう、父親と母親に会えないのか。
「どうじでぇ……どうじでぇ……」
吐しゃ物を撒き散らした喉で、嗚咽交じりに問いかける。しかし、それに応える者は此処に誰一人として居ない。独りぼっちになったアルシャの慟哭は、一番に届けたい二人には、最早届かないのだから。
「行くぞ」
喉が潰れる程の嗚咽に混じり、長老の声が飛ぶ。それを合図にエルフ達が家の中へ侵入するが、今のアルシャには、それを気にするほどの余裕が無かった。
そして顔を濡らす涙が流れ尽き、慟哭を漏らす喉が涸れ果てた頃、アルシャの顎に手を差し伸べられ、持ち上げられる。
目に映るのは、自分を真っすぐ射貫くように見つめる長老の顔。
「貴様、何処まで知っておる?」
長老から投げかけられたその質問の意図を、アルシャは分からなかった。それ故に首を横に振る。
「そうか、ならば次の質問だ。父親が残した書物だが、お前はその内容をどこまで知っている?」
「全部、読みましたぁ……」
「その内容は全て覚えているか?」
「はいぃ……」
その問答を不思議に思うも、沈黙や嘘を付くほどの気力が湧かない。ただ聞かれた事に対して、アルシャは素直に答えるしかなかった。
少しの間、眉を潜めて押し黙る長老。そして口を開く。
「お前の両親は禁忌を犯した」
「きん……き?」
「だから、その娘である貴様も『忌み子』として殺さねばならない」
未熟な世界で生きていた子供に、無慈悲な宣告を大人が振りかざす。
それに対して、アルシャが感じたのは理不尽に殺される怒りや死の恐怖、ではなく絶望だった。
父親も、母親も、この幸せだった思い出も、たった今過去となってしまったのだから。どれだけ望もうとも、もう二度と手に入れる事すら叶わない事実を前に、生きる理由を失ってしまうのは、容易い事である。
「しかし、その知識を我らの為に活かすというのなら、殺すのを止めよう」
顔を持ち上げていた手が引いていく。なのにアルシャは長老から目が離せない。
「貴様の父親は奇しくも、薬を作る事に関しては素晴らしい腕前を持っていた。その知識を受け継いでいるというのであれば、我らの為に薬を作れ」
「……わぁ、だじにぃ……」
喉が枯れて、マトモに声を発することが出来ないアルシャは、それでも濁音交じりの言葉を上げる。
「いぎるりゆうぉ……ぐれる、んでずぅがぁ……?」
現実を突き付けられるよりも前に、アルシャは既に壊れていた。両親が自分を置いて逃げたというのは、単なるキッカケにしかならなかった。幸せな日常に縋り、孤独を思い出で紛らわした日々は、依存という毒で確実にアルシャを侵していた。
だから、アルシャが恐れるのは死ではなく、縋る何かを失ってしまう事だ。縋らなければ、生きていけないから、ではない。死よりも辛い事が待っている。
縋らなければ、失った悲しみで狂ってしまうから。
そして。
両親よりも縋ることが出来ない現実に悲しんでしまうこの心が、もう壊れ切っていると分かってしまうから。
それを知ってか知らずか、いや、長老は喜んだように口角を上げて、アルシャの頭を撫でる。
「そうだ、貴様を生斬る理由をくれてやろう」
その手は父親の手よりも、母親の手よりも、アルシャには心地よく思ってしまう。まるで神が祝福してくれるようだった。
―――最早、アルシャには縋る事でしか許されない。
「喜べ。忌み子である貴様が、我らの役に立てるという事を」
そして、これから先に幾重にも重ねられていく言葉は、アルシャを縛り付ける呪縛となる。