空を飛んだドラゴンの最期と空と
ウルザードの背中から降り立ち、地面へ足を付いた時、リュクシスがまず最初に感じたのは、不安定な足場からの解放感でも、安心感でもなく、もう二度と見る事のない大空への寂しさであった。
それでも少しばかりの余韻に浸ろうと、雲に覆われて何も見えない空を見上げていると、現実へ引き戻すようにミレーヌが話しかけてきた。
「どうでした、空の旅は?」
「最高だったよ。そっちは?」
「問題ない、と言いたい所ですが、途中で魔物が同士討ちや逃走をしなければ、確実に死んでいたでしょうね」
恐らく、それは本当だとリュクシスは直ぐに分かった。少しでも視線を外せば、そこにはラキが侵攻した際の魔物の大群以上の数に昇るであろう。そして、良く凝らして見れば、大半の致命傷は槍や殴打によるではなく、明らかに魔物の牙や嘴に付けられていた。
「大将!戻って来てたのかよ!!」
「リュー君おかえり!」
リュクシスが名前を呼ばれて、向こう側からその死屍累々の草原を踏み荒らしながら、アリアとシヴァルの姿を捉える。そして、こちら側まで歩いて来ると、まるで何事も無かったように、いつもの調子で喋り始めた。
「折角これから面白そうだっていうのに、魔物が逃げてよぉ!!もう少しで魔物殺しの新記録超えそうだって言うのによぉ!!」
シヴァルは快活に笑うが、片足だけでなく、左腕までもが叩かれた粘土のようにひしゃげて紫色に変色している。そしてオーガの一撃に耐えうる鋼のような身体も、今や傷だらけで、中の肉色まで生々しく見えている。
「貴方、いつから数を数えられるようになったのですか?どうせ適当言っているだけでしょう」
ミレーヌは平然と装っているが、ご自慢のチェインメイルは何か所も切り裂かれて、ボロキレのようになっており、そこに自身の決して少なくない血が滲んで、より一層無残さに磨きをかけている。
「それよりもリュー君!空中でラキちゃんと二人きりだったんだよね!!何かされてない!?」
アリアは疲れを見せないが、真っ白な肌や長く瑞々しかった髪は草原の土で薄汚れてしまって見る影もなかった。可愛らしい顔も破裂しそうなほど充血した虚ろな瞳や、鼻から流れる流血のせいで、痛々しさしか感じない。
三人とも医者にでも見せれば、生きているのが不思議だと言われそうな重症であった。それでも表に出さないのは、意地故か、それとも痛みを感じる神経や頭がぶっ壊れているのか、どちらかだろう。
「何もねぇよ……それより、空から何か落ちて来なかったか?」
生憎とリュクシスは、そんな痩せ我慢大会に付き合う余力はない。疲れや痛みを隠すことなく、崩れ落ちるかの如く、身体を地面に投げ出し、深く一呼吸を挟んだ後にアリアへそう聞いた。
「へっ?そんなの見てないよ。ミレーヌちゃんは見た?」
「見ていませんね。シヴァル、貴方は?」
「鳥以外は知らねぇな。何か大切な物でも落としたのか?」
どうやら誰も、空から落ちていったクロックスと、投げたフランザッパの行方を知らないようであった。
「そうか」
それを確認すると、リュクシスは短い返事で区切り終える。
正直に言えば、フランザッパはともかく、クロックスの方は放っておいて良い問題ではない。遥か空中から放り出されたとは言え、死体を確認していない以上、生きている可能性もなる。いや、それぐらいはやって退けて見せるだろうという確信めいた勘は、リュクシスにはあった。
しかし、今だけは忘れるとしよう。
「別れの時ぐらい、重苦しい気持ちは要らないよな」
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長き時を生きたウルザードは、最期を前にして、大空を見上げる訳でもなく、ただ地上の草原に静かに横たわっていた。
「ねぇ!ねぇってば!目を開けなさいよ!!」
ラキがウルザードの大きな頬を力の限り叩き、精一杯の声で訴えるが、何も返ってこない。ただ、そこに静かに時を待つばかりであった。
「何でよ……折角、空を飛べたのに!!どうしてなのよ!!」
訴えはやがて悲痛な鳴き声へと変化し、ラキの瞳から零れ落ちた涙は、ウルザードをほんの僅かに濡らす。
ウルザードが空を飛んだ時には、既にこうなる事をラキは理解していた。従属契約により繋がった思考から、その決死の覚悟は既に伝わっていたのだ。
だからと言って、受け入れられるはずが無い。ウルザードが操られた弟を信じられなかったように、ラキもまた、ウルザードに死が近づいている事は信じられなかった。
ようやく、ウルザードの言葉が聞こえる。
『もうーーー良いーーー』
「ウルザード!でも!!」
『儂はーーーもう、生きたーーー』
どうやっても開かなかったウルザードの瞼が、僅かだが開く。その瞳にはラキのクシャクシャに歪んだ顔が視界一杯に映り込んでいる。
こんなにも、思ってくれる者が現れたのは、何時ぶりだろうか。新しくできた三人目に大事な者の泣き顔に、ウルザードは少しばかりの申し訳なさを感じてしまう。
だからと言ってどうすることも出来ない。この無駄に大きい身体は最早、自分の意志で動かすことすらも叶わず、呼吸を繰り返すのみ。意識は少しでも気を抜けばプツリと途切れてしまいそうなほど細い糸一本のみで支えるのみ。
既に死の予感はウルザードを侵食し始めていた。しかし、それを理解していても恐怖は無かった。
『もうーーー満足した』
最期の時に空を見上げ、叶わぬ思いに耽らずに済んだ。それだけでウルザードは満たされていた。それだけで、バルボッサを失った痛みや、少女と別れた悲しみも、その全てをひっくるめて、幸せだったと断言できる。
ただ、本当に一つだけ心残りがあるとするのならば。
卵から孵ったドラゴンと共に、ラキが成長する様を見ることが出来ない事だろうか。
「だったら……だったら見ていなさいよ!最後の最後まで生きて、見届けなさいよ!!」
そんなウルザードの浅はかな考えを読み取ったラキは、もっと叫び出す。
ウルザードと繋がり、初めて感じた悲しみや、寂しさ。それは生まれた時から一人だったラキには、まるで自分の事のように思えた。だからこそ、その思いを救いたいと思ったのだ。
あの日、魔王様が自分を救ってくれたように、今度は自分がウルザードを救いたいと。
だから、こんな所で死なれては困る。まだ、何も為しえてない。何も救えていないのだから。
『優しいなーーーお主―――お前は』
そんなラキの心はウルザードにも届く。叶う事ならば、この少女の言う通り生きてみせたいと言う、少しばかりの我儘が芽生えるが、直ぐに消える。
何せ、もう生きていなくとも、託すことは出来る。死んでいても望みは叶える事は出来る。
『ラキーーー頼みをーーー聞いてくれるか』
「何を言うのよ!何でもしてやるわよ!!」
そう言うウルザードに、ラキは一言一句漏らさぬようにと、静かに頭の中に流れる声に集中する。
恐らく、これが最後の言葉になるかも知れない。既に言葉を伝えるための魔力は、ウルザードには残っていない。生命力を魔力に無理矢理変換して、どうにか伝えているが、それももう尽きるころ合いだった。
だから、最後にこの意志を、願いを、欲望を、その全てを一言にして、ラキに送る。
『儂の願いーーー欲望ーーーその全てをーーー叶えてくれ』
最期まで終ぞ見つけられなかった弟の姿。この耳に届くことが無かった少女の歌、拝む事すら出来なかった卵の成長。長い命を持っていたのにも関わらず、叶えることが出来なかった願いが多すぎた。
しかし、折角死にかけている上に、それを叶えたいという奇特な者が居るのだ。これくらいの我儘は許されるだろう。
それを伝え終わると、ウルザードはまた瞼を閉じる。
「良いわよ!それくらい、この魔王軍四天王であるラキ・ルーメンスが叶えてやるわよ!!だから!!」
そこまで言いかけ、ラキは気づいた。ウルザードは返事を求めていないことに。
繋がりが切れた従属契約が、それを証明していた。
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ラキとウルザードの語らい、その様子を遠くから見ていたリュクシスは、上を向く。
いつの間にか晴れていたようだ。あれだけ覆っていた雲はサッパリと消え失せ、代わりに、あの大空から見えた満天の星空と輝く三日月が昇っていた。
「別れの挨拶をしなくて良いんですか?」
「俺達如きじゃ、アイツの関係に割り込めるはずが無いしな。だったら、黙って見守るしかねぇだろ」
ミレーヌに問われ、リュクシスは投げやりに吐き捨てる。所詮、ウルザードとの関係はその程度である。差し伸べた手を振り払ったのに、感傷に浸るなど烏滸がましいにも程がある。
「あっ……」
その時、リュクシスは三日月の中央に何かを見たような気がした。
それは二匹の空飛ぶ生物のようにも、目の錯覚、もしくはただの雲の影のようにも見え、確かめようとする前に、その影は夜空の向こうへとまるで吸い込まれるように消えていってしまう。
「何か見えたのか大将?」
突然、驚いたように空を凝視するリュクシスに、不思議に思ったのか、シヴァルは声を掛ける。
それにリュクシスは、どう答えた物かと考え、捻り出した結果、ようやく自分が納得する答えを見つけた。
「あぁ、でっかいドラゴンが、空を飛んでたんでな」