ドラゴンに叶う奴なぞ、この世に居ない。
ドラゴン、より具体的にはドラゴン種というのは魔物には分類されていない。いや、正確には分類できないが正しいだろう。
たった一匹が迷い込んだだけでも国を滅ぼす力量と、人類の数十年先を行くという知恵を持つドラゴン種を魔物として分類するには、余りにも過少評価である。
故にドラゴンは魔物にあらず、『ドラゴン種』として、たった一匹の生物が起こす唯一の天災に数えられる。
つまり、リュクシス達は今から、大地震や津波、台風のような、人間の力では抗う事さえ出来ない存在を相手にしなければいけなかった。
「人んちで暴れすぎたから怒っちまったか?」
シヴァルが冗談めかしたように笑っているが、リュクシスは生憎と同意する気にはなれない。ジッと奥の闇を見据え、ただドラゴンが来るのを待つばかりであった。
「来るか……」
洞穴が崩れそうなぐらいに揺れる足鳴りが、段々と近くなるのに共鳴し、リュクシスの振動も鼓動がはち切れんばかりに早くなる。
当初のリュクシス達の予定は、寝ているドラゴンの住処からコッソリと抜け落ちた鱗を獲って、『ドラゴンを討伐したぞ!これが証拠だ!!』と騙くらかすつもりだった。ラキを連れて来たのだって、飽くまで最悪の事態になった時の保険である。
だが、こうなれば作戦も保険もクソもない。文字通り正面切っての勝負となるのだ。
「来たよ」
アリアが静かにそう告げると、奥に降りる暗闇の幕から、全容が浮かぶ。
遥か高みにある天井を掠らんばかりの巨躯、その身体を覆っているのは、洞穴の闇に良く馴染む漆黒の鱗。その背に付いた雄大な翼と、長く太い尾を広げれば、岩壁など軽く砕くだろう。
それだけなら、一五毒蛇の方が脅威になる。だが目前にして初めて理解する強者の覇気。気を抜けば戦わずして生きる事さえも諦めてしまいそうなほどの絶望が、生物としての原始的本能を狂わせる。
そこに居るのは、間違いなくドラゴンであった。
「あっ……」
ドラゴンが此処までの存在だとは、リュクシスは思いもしなかった。
例えるのなら、余命を宣告する死神が鎌を振るおうとしているように、その絶対的とも言える抗えない諦観の衝動に暫しの間、俺達は呆然と見上げる他ない。それほどまでに、このドラゴンは、今まで出会った魔物の中で、桁外れでいた。
宝石のように鮮やかな金色の双眼が、威圧を押し付けるようにリュクシス達を見下ろす。
『誰だ、主らは』
「っ!?」
腹の底に響くような咆哮が、勝手に脳内で言葉に変換される。その気持ち悪さに眩暈を覚えるが、胃から迫り上げる吐き気を飲み干して、代わりにありったけの虚勢でリュクシスは返した。
「こっちから来てやったんだ。名乗るなら、そっちからだろ」
『これは済まんかった。人に会うのは久しぶりでな』
威圧に似合わない真摯な対応に、緊張の糸が解けそうになるが、頬肉が千切れそうなほど噛み締めて、現実を再認識させる。意思疎通できようが、ドラゴンはドラゴン。話が通じるからと獲物を狩らない獣など居ない。
ドラゴンは、手と思われる前足を、金剛石でも粉砕できそうな顎に当てる。
『我の名はウルザードと申す。お主達は我を討伐しに来た者達か?』
「……あぁ、その通りだ」
敢えてドラゴンーーウルザードには噓を付かず、リュクシスは正直に答える。頭の中に言葉を送ってくるような相手だ。嘘など付いても直ぐにバレるからだ。
『ほぅ、ドラゴンが居ると知って踏み込んだとは、余程の勇者か馬鹿か……いや、お主達は、そのどちらでもないか。何はともかく、話せる相手が居るというのは嬉しいものだ』
討伐しに来たと宣言したのに、ウルザードの声色からは敵意を感じない。いや、寧ろ喜ばしいと言ったように、語尾が僅かに弾んでいた。
「随分と余裕かましてんじゃねぇか」
会話の途中でシヴァルが喋り出した。
「お前、もしかして死にてぇのか?」
それは挑発ではなく、純粋な疑問だった。それにウルザードは答えを示す。
即ち、頭を地に伏せて首を差し出した。
『あぁ、そうだ』
己の死を望むかのような言動に拍子抜けしてしまい、身体を縛り付けていた威圧感がシヴァルの意識から吹き飛んでしまう。
「やっぱりな。この見掛け倒しのトカゲは、最初から俺達を殺すつもりはねぇ」
『トカゲとは随分な物言いだ。しかし、今の儂には丁度良い』
シヴァルは野性的な勘で、このドラゴンに殺気が無いのを察知してたようだ。それより、総じてプライドが高いと言われるドラゴン種が、シヴァルにトカゲと侮辱されても笑っている光景に、リュクシスは自分の目を疑う。
一体どうなっているんだ?とリュクシスがウルザードの真意を考える前に、もう早速二人程動いてた。
「知ってるミレーヌちゃん?ドラゴンの血液って滋養強壮と魔力上昇の効果があるんだって、取り合えず血液は3分の2は欲しいなぁ」
「私は不老不死になると聞きましたが?それよりも鱗、鱗です!ドラゴンの鱗は盾、鎧、壁、いずれにしても伝説級の素材になります!!このサイズからするに、1,2,3……あぁ、何枚作れるでしょうか」
「ミレーヌちゃんは夢が無いなぁ。もっとお金の事だけじゃなくて、オシャレとかに目を向けようよ!例えばぁ、目をくり抜いて指輪の宝石にするとか」
「貴方みたいな砂糖漬けの脳味噌はしておりません。オシャレで身を包むくらいなら金貨に包まれたいです」
アリアとミレーヌが、ウルザードの背中で全く可愛くない女子会を開いていた。
ドラゴンの背に登って素材の使い道をどうするか相談するなんて、笑い話を通り越して悪夢でしかないが、図太すぎる女子達は全く意に介していない。
もう此処まですれば、ドラゴンへの侮蔑とか以前に、冒涜に等しい。幾らウルザードに自殺願望が有っても、キレられたらリュクシス達など、一瞬でプチッと潰されるであろう、
「シヴァル!あの恐れ知らずの二人止めて来い!!」
「テメェら!いい加減にしろよ!!」
リュクシスがそう怒号を飛ばすと、シヴァルが同じくウルザードの背中をよじ登って行く。戦闘意欲の塊であるシヴァルでも、この暴挙は看破できなかったようだ。
「肉を忘れてんじゃねぇぞ!肉を俺に寄越せ!!」
違っていた、こいつも命知らずであった。
『随分と命知らずな仲間じゃのう……』
「本当にすみません!ウチの馬鹿共はもう煮るなり焼くなりしてください!!割と真面目に!!」
これには流石のウルザードも苦笑いを呈する。幸いにも怒ってはいないようだが、それでもリュクシスは土下座をして許しを請う。ドラゴン出なくとも、これは謝るべき案件である。
『構わぬよ。死した後の事など興味などない。それよりも最後に面白い人間に出会えてよかった。いやはや、ここまで愚かな人間は、儂も長く生きておるが初めて見たぞ。逆に笑いが止まらんわ』
何だか馬鹿にされているような気もするが、ウルザードが愉快そうに喉を鳴らして笑っているので、リュクシスは良しとした。
―――さて、馬鹿共がウルザードの背中で、取り分の争いをしている内に、せめて俺だけでも真剣になろうか。
三本の剣を腰から外し、リュクシスは地面に座り込む。どうせ持っていたところで、その大木よりデカい首を刎ね落とせる気がしない。それに暴れられでもしたら、持っていても意味が無いからだ。
『主は、この醜き争いに参加せぬのか?』
「それはアンタが死んでから考えるよ。それよりもだ。どうして最強の生物であるドラゴン様が死にたがっている?死にたがりのドラゴンなんか聞いたことないぞ」
『何、そのように難しい顔をせずとも、簡単な話だ』
ウルザードは教えを説くかのような穏やかさで、死を望む理由をたった一言で明してみせた。
『儂はもうすぐ寿命を迎える』
俄かに信じられない事実が、リュクシスの深慮を貫いた。
『何を驚いておる。人も魔物も、この世に生きる者皆、いずれ寿命を迎える。であれば、儂のようなドラゴンであっても、至極当然の理屈であろう?』
そんな事は、この世に生きている奴なら誰もが知っている。だが、何百年何千年の寿命を持つと言われ、不滅の象徴として帝国の旗にも描かれているドラゴン種がそれを語るなど、何の冗談だろうか。
「……本当かよ、それ」
『嘘を言ってどうする。儂もドラゴンにしては随分と長生きをしてもうた。そろそろ頃合いなのだろうな』
ドラゴンとして生まれた故の強靭な巨体と両翼を、ウルザードは長い首を曲げて見下げる。
『かつては、この空を自由に羽ばたいていた翼も飛べやせん。この無駄に巨大な図体も、今では支えるだけで精一杯で歩くことすらままならん。それでも老いた肉体は目を瞑って寝るだけでも、衰えていく。いやはや、これでは最強と呼ばれるドラゴンも形無しであるな』
「……」
自分を蔑んで自傷するウルザードの煤けた表情に、リュクシスは言葉を失ってしまった。仮にも生物最強と名高いドラゴンが、このような弱音を吐くなんて、想像できるものか。
いや、それよりも驚くことがある。それも年齢を重ねるごとにその脅威が増すと言われるドラゴンが、衰えるまで歳を重ねるとは、このウルザードは一体、どれほどの年月を生きているのだろうか。
『安心せぃ、全盛期を過ぎたこの身体では、並みのドラゴンよりも劣っている。仮に力が戻ったとしても、世界を滅ぼそうとも思わんわ』
杞憂を感じ取ったウルザードが先取りして答える。それは全盛期であれば、世界を滅ぼすことが出来ると言っているのと同じである。
だとしたら、俺達は魔王なんかよりも脅威となる存在を相手にしようとしていたのか。リュクシスは改めて自分の愚かさにリュクシスは笑いが込み上げてくる。そんなのは、どう足搔こうが、考えるまでも無く一瞬で塵殺されるのは決まっているからだ。
「リューくぅん!皆の取り分が決まったよぉー」
そんな気持ちをつゆ知らず、呑気にアリアがウルザードの背中から手を振る。俺が話している間に、分け前が決まったようだ。
「そうか、どうなったんだ?」
捨てた雷斬を拾い上げると、リュクシスもウルザードの背中に乗り上げ、折角なのでその成果を聞いてやる。するとミレーヌが代わりに答えてくれた。
「先ず、鱗の三割と両眼玉、そして血液の七割はアリアに、肉の6割をシヴァルに、それ以外は私という取り分です」
「シヴァルが6割で良く妥協したな。丸ごと寄越せとか言ったろ?」
「説明したら快く承諾してくれましたよ」
「フゴォォ!!フゴフゴォォ!!」
身体が奇妙な方向に捻じれて、黒い靄に口を塞がれているシヴァルを見るに、隷呪で無理矢理納得させたらしい。交渉に慣れているミレーヌならではの手法である。
『ほほぅ、随分とシッカリした小娘じゃ』
会話を聞いて、ウルザードが感心しているようだが、その内容が自分から獲れた素材の内訳である。と言うか、その分け前に俺が含まれていないじゃないか。
素材は後で誰かから奪うとして、リュクシスは背中から首を渡り歩き、ウルザードの頭頂部に辿り着く。
そして、雷斬を鞘から抜き出して、その切っ先を額の鱗の継ぎ目を狙って突き付けた。
「本当に良いんだな?ん」
リュクシスが話している限りだと、嘘を付いている様子は無かったが、それでも念の為に聞いておく。
そしたら、何を今更とばかりにウルザードはせせら笑う。
『まさか最後にこのような面白い人間、それも実力ある若者に看取ってもらうなど、この洞穴の奥で死を待つよりか、上等な死に様であろう』
「そりゃ違いねぇ、なんたってこの勇者様の伝説に書き加えられるぐらいだからな」
『ほう、主が勇者の後継であったか、全く世も末であるな』
今から頭を貫かれて殺されると言うのに、そんな事を微塵も感じさせず、ウルザードは大層愉快そうに笑っている。
リュクシスとしては、その方が都合良い。仕事で殺すこともあるが、大概は言葉が通じない奴や、頭がイカレた奴だった。しかし今回は状況が違う。
ウルザードは言葉を話せる、そしてこうして軽口を言えるくらいに話が通じる相手なのだ。
だからこそ、死ぬ間際に一言だけ聞きたいことがある。
「人生の最後に言い残すことはあるか?遺言ぐらいなら付き合うぞ」
『殊勝な心掛けであるな。であれば、この老いぼれの最後の願いを叶えてもらうとするか』
「おう、遠慮なく言えよ」
その言葉を聞き漏らすことなく、リュクシスは耳を澄ませていると、不意にこの場に似つかわしくない間抜けな声が劈いた。
「アレ?私、どうして気絶……って、ギャァァ臓物ぅぅぅ!!」
散らばった魔物達の死骸の中から、突如として叫ぶラキが現れた。ウルザードと同じ視点であるリュクシスは今なら分かるが、臓物に塗れて赤くなっているメスガキは、見事に溶け込んでいて、立ち上がるまで見事に溶け込んでいたのだ。
そう言えば、コイツの存在をまた忘れていたなとリュクシスは思い出すが、今はラキを気にしている暇はない。
しかし、ウルザードにはそうではなかったようだ。
『その角は魔族の証……魔族が何故此処に……!!』
穏やかに死を迎えようとしていたウルザードが、焦燥に満ちた叫びを上げ、驚愕で半端閉じ切っていた眼が全開する。
『まさか、まさか魔王が……魔王が復活したのか……!何故だ、何故だ!奴はあの時、あの時に!アァ!ドウホウ!!バルボッサ!!バルボッサ!!ユルサヌ!!』
「ちょ、落ち着け!どうしたってんだ!!」
宥めようにもにも、リュクシスの言葉は全く届いていない。ひたすらに訳の分からない単語の羅列が頭に雪崩れ込み、最後にはタダの唸りに変わってしまう。
だが、最後だけは確かに聞き取ることが出来た。
『ユルサンゾ!マオウゥゥゥゥ!!』
次の瞬間、ウルザード、いやドラゴンの金色の瞳を黒い眼が縦に裂けた。