40km
病院まではタクシーで移動した。もう夜の二〇時を超えている。とっくに見舞い時間を過ぎていて、どう夏奈の病室まで行けばいいかわからなかった。
とりあえず緊急外来の入り口から嘘をついて侵入して、通された待合室からこっそり病棟へ行ってみると、すんなり夏奈の病室まで行けた。
すぅ――っと静かに開く横開きのドアを慎重に開けて忍び込んだ。
病室のカーテンは開かれていて、そこから月の光が入っている。
夏奈はベッドにいた。月の光に照らされ、しゅん、しゅん、とすすり泣いている。
「だれです?」
足音で気づかれてしまった。
「サンタクロースです」
「はは。早淵さんですね~」
「面会謝絶じゃなかったっけ?」
「冗談ですよ~。いや~困っちゃいましたよ。明日の大会キャンセルになっちゃいますね」
俺だとわかるとすぐに気丈な態度に変わる夏奈。
「いいよ。本番は十一月だし」
「私、走れないですよ」
その言葉は、おどけているようには聞こえなかった。
「ちょっと外の風に当たりにいこうか」
そう言って、無理やり夏奈を病室から出した。
夏奈と手を繋いで院内を歩いた。階段を上る際は腰に手を添えて、足を踏み外しても危なくないように歩いた。
屋上に繋がる通路を見つけ、俺たちは屋上に出てきた。
重たいドアを開くと、屋上は月明かりに照らされていた。
「潮の匂いがしますね」
夏奈はフリルの付いた可愛らしいパジャマを着ていた。
月明かりの下の妖精かもしんない。
「あ、夏奈、パジャマか~。ごめんなそんな格好で連れ出して」
「どうです? 似合ってますか?」
俺は屋上で座れる場所を見つけて夏奈を座らせた。
屋上から見える月は東の低い位置にあった。上弦の月だろうか。半分の月だ。
「どのくらい悪いの?」
尋ねると、夏奈の表情が一瞬止まった。そして眉を寄せながら困ったように微笑んだ。
「視覚障がい者の大会ってクラス分けがあるんです。T11、T12ってあるんですけど、T11っていうのが、障がい度が一番上なんです。私も、ひとつランクが上がって、T11の仲間入りをしちゃいました。T11クラスの認定条件は、『光覚までで、距離・方向は認知できないもの』なんです。つまりちょっとした光を感じれるだけでほぼ見えないです」
「いつから?」
「つのしまマラソンでゴールした直後からです。夕暮れで見えづらいのかなーって思っていたんですけど」
えへへ。やっちゃいました……と、おどけた感じで頭を掻く夏奈。
「もう、海響マラソン走れないかもしれません」
「珍しいな。夏奈が弱音なんて」
「さすがにこれは堪えました……」
「昼間のアレ、後でちゃんと両親には謝りなよ。どうであっても、親にあんな言い方したらダメだよ」
聞いていたんですか? と夏奈は目を見開く。
「ずるいですよ。盗み聞きなんて……」
「ごめん。聞くつもりじゃなかったんだけど」
「あーあ。見られたくないところ、見られちゃったなあ……」
そう言って、空を仰ぐ夏奈。その瞳には何も映っていないのかもしれない。
「やっぱり来月の海響マラソンはやめませんか? こんなに見えないと、走るのも怖いです」
二度目だった。念押しのように夏奈がやめるって言った。
「海響マラソンやめるのは無理だな」
「なんでです? 私は無理かもしれませんよ」
「俺さ、マラソン走りきったら、告白しようって、思っていたんだ」
夏奈は「そんな死亡フラグみたいな言い方しないでくださいよ」とつっこみを入れて笑った。
「音葉さんか、お姉ちゃんですか?」
「はは。違う違う。全然違うよ」
「え~~。じゃあ、私の全然知らない人への告白のために、悪化した目をおして出場しろと? 早淵さん、なかなかひどいことを言いますね」
「全然知らない人じゃないよ」
「じゃあ、だれなんです? 待って、当てます」
俺は高鳴る心臓に手を当てて、沈ませようとする。
「その人は、かわいいんだよ。目が合うと緊張するくらいかわいい」
「え。早淵さんってメンクイなんですか?」
つっこみを入れてくる夏奈。
「しかも、がんばり屋」
「早淵さんも大概がんばり屋さんじゃないですか」
「その人は、ハンディキャップを跳ね返そうとすっごくポジティブに振る舞うんだ」
「ポジティブな人っていいですよね!」
「そして感謝を忘れない」
「さっきから聞いていたら、すっごい性格いい人じゃないですか? そんな人いるんです?」
「その人は、走るのが好きで、俺もその人がいっしょに走ろうっていうから、俺も走ることにハマったんだ」
「……え」
夏奈が固まる。
俺の言っている意味《、、》を理解しだしたのか、どんどん顔を赤らめていく。
そして恥ずかしさからか夏奈は口を両手で覆った。
「えええ、え。なんで!?」
「驚くことないだろ。昔、口がすべって、告白まがいのこと言っちゃって、そのときは笑って誤魔化したけどさ」
俺は夏奈の正面に移動して、膝を折る。
そして夏奈の両手を掴んだ。夏奈の膝の上で手と手を握り合う。
「ちゃんと告白したいんだ。だから、夏奈には俺と走りきってもらわないと困る」
夏奈は瞳に雫を溜めながら、俺の腕を伝って顔まで手を運んだ。
そのまま俺の頬を両手で包んだ。
「なんで早淵さんも泣いているんですか」
「あ、あれ? 俺、泣いているの?」
夏奈に指摘されて初めて涙が溢れていることに気が付いた。
俺の顔をペタペタと触って、夏奈は俺の表情を読んでいる。
そして夏奈が湿った声で口を開いた。
「その人、わがままで意地っ張りで案外扱いにくいですよ」
「だろ? 隠しているけど、そうだよな? そんな気はしてたよ」
「その人、実は嫉妬深いんですよ。お姉ちゃんと仲良く話していると、実はちょっとムカッとしているそうです」
「そうなの!? 大丈夫、俺一途な方だと思う」
「その人、たぶん付き合ったらくっつき虫かもしれませんよ。寂しがり屋ですし」
「なにそれ超ポイント高い」
「あと、その人、目が見えませんよ?」
「大丈夫。俺が目になる」
「全然見えないんですよ」
「大丈夫。心配すんな」
夏奈は俺を覗きこむようにしておでこをくっつけてきた。
ぽたぽたと夏奈の涙が零れてくる。
「もっといい人、いるんじゃないですか?」
なんでその人なんですか……と消え入る声で訊いてくる。
「世の中にさ、かわいくて素直でまっすぐで、ハンディキャップを持ってもあきらめない人で、いっしょにいると俺までポジティブな気持ちにさせられて、趣味まで一致するような女の子ってどんだけいるのかな。目が悪いってだけで好きになっちゃダメってこと? それを帳消しにするほど、その人にはいいところがあってさ。俺にはその人しかいないんだよ」
だからさ、と夏奈に向けて言う。
「俺と走ってくれないかな。まだ目標の途中じゃん。フルマラソンを走破するんじゃなかったの? 目が悪くなる前に出来たこと全部、あきらめないんじゃなかったの?」
「怖いんですよぉ」
肩に手を添え、頭を撫でた。絹のようなさらさらの髪。
「大丈夫」
「けど、怖いんですよぉ」
ぼたぼた、と夏奈は大粒の涙を落とす。
――大丈夫、俺がいる。
その言葉を、夏奈の背中をさすりながら、何度も口にした。
きっと心が折れたとき、支えとなるのは人なんだ。だれかが背中を支えてあげるだけで大丈夫になってくる。そういうものだと思う。そういう人間になれたのか別として、今日、夏奈の背中をさすったのは、紛れもなく俺だった。




