39km
関門海峡沿いにある国立の病院に、夏奈は入院していた。
秋穂さんからのメールに、今から行きますと返信して、俺は病院に向かった。
リノリウムの床を走っていると、女子トイレから秋穂さんが出てきた。
「あ、秋穂さん」
「あ……」
こっちへ顔を向けた秋穂さんの目元はうっすら晴れている。
「夏奈は大丈夫なんですか?」
首を横にふる秋穂さん。
「先週の大会あったでしょ? あのとき、夕日の色が見えなかったんだって。帰ってからもよくものを落としたり、躓いたり、なんか変だなって思って検査したら……病状は悪化してたわ。検査入院だからすぐに退院するだろうけど」
「今、夏奈は?」
「会わない方がいいよ」
「どういう意味です?」
秋穂さんは髪をかき上げてうつむいた。そして胸が詰まったような声を出した。目頭に涙が溜まりだす。
「あの子、こういうとき荒れるのよ。大声出す夏奈を見たことないでしょ? たぶん、あの子も見られたくないと思う。ごめん。連絡しておいてなんだけど、やっぱり今日は帰って」
「そんなに悪いんですか?」
「っていうより心よ。もう、どこにぶつけていいのかあの子もわかんないのよ」
ここまで来て引き返せませんよ、そう言いかけたときだった。
少し先の病室から、夏奈の大きな声が聞こえたのだ。
声が裏返ったヒステリックな声。こんな声、俺は聞いたことがない。
――ほっといてよ!
――病院変えたって治んないって!
病室の前で立ち呆けて、扉を開くことができない。そんな悲痛な叫びだった。
「もう、ほっといてよ! なんでこんな……体……嫌だよぉ……嫌だよぉ」
足の裏が床と縫い付けられているみたいだった。
そっか。
そうだったんだ。
怖かったんだ。
いつもは気丈に振る舞っていただけなんだ。
どんな想いを心の奥底に仕舞って、いつもニコニコしていたのだろうか。
それなら俺は……夏奈の何を見ていたと言うんだろう。かわゆすかわゆすってひとりで盛り上がって……。今の俺が何て言える? 今の俺が、本当何て言えるっていうんだ。
俺は、ドアの手すりから手を離して、踵を返すことしか、できなった。
◎
「で? 見舞いもせず、引き返したと……」
その日の夜、一九時からバイトだったので、店長と音葉に昼間あったことを伝えた。
カウンターの内側には店長がいて、俺と夏奈は隣で座っている。
「友くんはどうするの?」
「それがわかんないから相談してんだよ」
その日、店に客がひとりも入っていなかった。こういうときは二〇時ぐらいにぶらっと常連が入って来るか、二二時ぐらいに二件目の団体が入って来るか、どちらかの場合が多い。つまりそれまでは暇である。
店長も自分で揚げたポテトフライを食べて、指についた塩を舐めた。
「夏奈もさ、小学校のときから、病院たらいまわしにされて辛かっただろうからなあ……」
「昔からこういうことあったんですか?」
「左目が完全に失明したってときも大変だったって聞いたな」
水をちびちび飲みながら、考えていた。
「どうしたらいいんだろう……」
ぼそりと漏れた瞬間――
ガタッ!
音葉が椅子をひっくり返して急に立ち上がった。
目をひん剥いて俺を見ている。なにこのデジャブ。
「今……なんて言ったの?」
「え……いや……どうしたらいいんだろう……って」
「だれが?」
「いや、俺が」
はぁあああああ、と深い溜息をついた音葉は椅子を起こし上げて再び座った。
「あのね、友くん」
音葉の声には怒気があった。
「これだけははっきりさせて欲しいんだけど、夏奈ちゃんのこと好きじゃないの?」
椅子に横向きに座って、まっすぐ見つめてくる音葉。
「え、俺好きなの?」
「まさかあれで、好きじゃないの?」
「え。早淵、夏奈のことが好きなの? 叔父である俺の」
「店長はちょっと口挟まないでもらえますか?」
はい、と店長が静かになる。
「えっとね、友くん。好きな人はなりふり構わず励ませってもんなんだよ」
「けどさ……」
そのとき、俺のスマホが震え、LINEにひとつのメッセージが入った。
そして読んでいくうちに、メッセージは増えていく。
なつな 20:54
【こんばんは! 早淵さん、お見舞い来てくれていないじゃないですか! 薄情ものです】
なつな 20:56
【うそうそ。うそです。実は面会謝絶なので、来ても会えないんですよ】
なつな 20:57
【私の目、前よりも見えなくなっているみたいで、ちょっとまずいかもしれません】
なつな 20:59
【早淵さんには今まで練習を付き合ってくれてありがとうございました】
なつな 20:59
【けど今回ばかりは無理かもしれません】
なつな 20:59
【大会、棄権しようと思います】
なつな 21:00
【ごめんなさい。いままで、ごめんなさい】
そのメッセージにすべて既読をつけ、俺は音葉を真っ直ぐ見た。
「やっぱ、俺行くわ」
音葉は、悲しそうに、優しい表情をして、「いってらっしゃい」と送り出してくれた。