3km
陸上競技場のトラックに、五月初旬の涼しくて乾いた風が吹いた。なんだかほのぼのしていて、時間がゆっくり流れているような気がする。
「俺も走っていいんすか?」
「おう。心の準備は出来ているか?」
「走ったら死ぬとでも?」
そんな清水の舞台から飛び降りるわけじゃなし。
「早淵……デブのランニングがどんだけ心臓に悪いか知らねえだろ。痩せろ痩せろ言ってくる医者から心配されるレベルだぜ?」
「……まあ、俺が大学のうちは生きながらえてくださいよ。バイト替えるの面倒なんで」
「可愛くねえなあ」と店長は嘆息して、「そうそう」と付け加えた。
「早淵に紹介したい子がいるんだよ」
そう言って、店長は「夏奈!」とトラックの反対側へ声を上げた。
店長の方に手を振って、向こうから女の子が小走りでやってくる。トラックと芝生の間にある白い木枠に足を取られて躓きそうになった。「大丈夫か~!」店長が声を上げ、「大丈夫ー」と帰ってきた。澄んだ、鈴のような声だった。
ランニングシャツに短パン姿の女の子が到着すると、店長はその子の肩に手を置いた。
「倉林夏奈。俺の姪」
「初めまして、夏奈です。よろしくお願いします」
その女の子は深々と頭を下げた。あまりに深々と下げるものだから、結ったポニーテイルがばさっと裏返しになった。それに気がついてか、さっと頭を上げて、髪を撫でながら「見られちゃいました?」みたいに頬を紅潮させた。
……姪っ子を送り迎えしている、っていうから小学生だと思っていたけど、どう見ても高校生くらいに見える。
やわらかい光が彼女の笑顔を包んでいた。にこりと目を細めて口角を上げるその一瞬が、スローモーションのようだった。
――倉林夏奈さんと初めて会ったときの印象を教えていただけますか?
早淵:そうですね。ひと言で言うと「なんだこの美少女!」でしょうか。なんせ顔が整いすぎていますからね。それに小顔で華奢でしょ? 目の前にいるのに、こんな人類いるんだーってまるで他人事でしたよ、ハハ。
こんな脳内インタビューが繰り広げられる。そしてやっぱりこう思った。
な ん だ こ の 美 少 女 !
スノードームの中で舞う、小さなラメのようなキラキラが瞳の中で光っている。それにさっきからなぜか目線が合わない。遠くをみているような、ぼーっとしているような。そのほんわかした雰囲気が好印象に好印象を重ね掛けしてくる。何コレ魅了の魔法とかかけてんじゃねえかな。
卑怯だよ。卑怯! そんな可愛さ正義を通りこして卑怯と訴えられるレベルだかんね。さっき頭下げたときに胸元見えそうだったよ。見えちゃったら一生瞳に焼き付いて離れなくなっちゃうよ。
表情に出さないけど内心混乱している。
「友くん、にやにやしすぎ」
ドンッ、と音葉が足を踏んできた。踵を使ってぐりぐりと。
訂正。表情に出ていたらしい。ぐりぐりしないで痛いから。
店長の姪と言う割には、ても似つかない顔立ちだった。顔はちっちゃく、薄い唇に筋の通った鼻、目はアーモンド形。
「え。店長の姪って……じゃあ将来店長みたく?」
つい緊張して軽口をたたいてしまう。そんなレベル。
「お前失礼だな。この子は、俺の嫁の、姉の子ども」
「てんちょーの奥さん美人ですよねー」
音葉が店長の姪っ子さんを舐めまわすように見て、それからいかがわしい声を出した。
「ねーねー帰り道にお姉さんと大盛りチャーシュー麺を替え玉しちゃおうよ」
「さらっと太らせんな」
音葉の悪魔のささやきをチョップで止めると、店長の姪っ子さんはくすくす笑った。そして店長の袖をひっぱって店長に耳打ちする。「大丈夫かな」「大丈夫、大丈夫」ふたりで何やら相談している。
そして、すー、はー、と姪っ子さんが深呼吸。
なんだろう。なんだか俺まで緊張してきた。
それにしてもかわいい……ARなんじゃないかな。
「お願いがあります」
「わかりました」
即 答 !
この子だったら何されてもいい。
即金で全財産あげちゃってもいい。
「え! いいんですか?」
「もちろんです!」
「じゃ、じゃあ、ちょっと顔がこの辺になるまでしゃがんでもらえませんか?」
姪っ子様はあきらかに俺のテンションについてこれてない。音葉はキモチワルイって顔をしている。無視だ無視。
言われるがまましゃがむ。
……なにするんだろう。
すると店長の姪っ子さんが頬を赤らめて、すっと俺の頬に両手を伸ばしてきた。キスでもされるんじゃないかと思って心臓が跳ねた。その瞬間、ひんやりとした手の平が俺の頬を包む。
くぁwせdrftgyふじこlp!
「嫌じゃないですか?」
「……ら、らいじょうぶ、れふ」
いきなりのことで脳が火花を上げている。
「わー、ほっぺた柔らかい。もち肌ですね~羨ましい……。本当だ。おじさんが言っていた通りにやさしい顔をしてる」
ペタペタと俺の顔を触ってくる。
「あっ♡」
我慢できなくなって変な声が出た。
すると姪っ子さんは「す、すみません」と手を離して、我に返ったようにモジモジしだす。
「やっぱり変ですよね、顔を触らせてとか」
「いくらでも触ってください!」
ついに音葉が左ボディを俺に打ってきた。的確に肝臓を突いてくる。
「……な……なにすんっ……だよ」
「夏奈ちゃん夏奈ちゃん。音葉のも触っていいよ~」
「え! いいんですか? 嫌じゃないですか?」
全然! と言って、音葉が姪っ子さんの前でしゃがんだ。
「お、お姉さんって感じですっ」
「えへへそうかな~」
ご満悦の音葉。見た目は中学生ぐらいの色気も何もないロリなんだけど、どこをどう見てお姉さんと感じたのだろうか。
「っていうかそんなにかしこまらなくていいよ。敬語とかいいから」
「そういうわけにはいきません。私まだ高校生なんですから」
やっぱり年下だったか。学年を訊いたら二年生らしい。若いね~と茶化したら、私とふたつしか変わんないのに子ども扱いですかー、姪っ子さんは笑っていた。
「あ、それと夏奈でいいですよ~。年上の方にかしこまれるとくすぐったいです」
そうは言われても、顔が整っている人を前にすると逆にかしこまってしまうDNAレベルに刻み込まれた劣等種としての習性が俺を襲っている。
信仰のあついキリスト教徒の方は神を口にすること避け、オーマイゴッドをオーマイと止める人もいると聞く。信仰のあつい美少女教徒になった俺に、まさか神の名を呼べと?
「滅相もござ――痛ッ!」
今度はローキックをかましてきた音葉。的確に脛を折ろうとしてくる。そしてしゃがみ込んだ俺に、悪魔のような笑顔でこうおっしゃいました。
「セイ、夏奈ちゃん」
え。
「セイ、夏奈ちゃん」
目が笑っていない。これは……殺されちゃうな。
「わかったわかったわかりました。言いますですハイ」
立ち上がって夏奈に向かう。
その瞬間、風が吹いて夏奈のポニーテイルを揺らした。目を伏せた夏奈は髪を押える。その仕草がなんとも大人っぽくて……。
かわゆ~。
「夏奈?」
そう呼ぶと、
「はい?」
小首をかしげる天使。
……かわゆす!
そう思った刹那――
「これからもよろしくお願いします!」
俺は腰を九〇度に曲げ、腕を真っ直ぐ伸ばしたまま、プリーズシェイクハンズ状態で固まっていた。こんな美少女に出会えただけで奇跡!
神 に 感 謝 !
そのちっちゃなおててを握らせてください!
こんな訳もわからない俺の行動に、目の前の天使様は後光がさす勢いで微笑んでいる。
一方、握手を求めた俺の右手をガン無視なさっているわけで……。
??
『いきなり握手とか馴れ馴れしいにもほどがありますよ。貴方のようなデブが馴れ馴れしい。もっと適切な挨拶もあったでしょう。ひれ伏せゴミが』
もしかして、そういうことだろうか?
どうしよう……ご褒美かもしれない。
目覚めちゃうかもしれない。
「あ、夏奈ちゃん。友くんが握手だって」音葉が夏奈の肩をぽんとたたく。
「わーごめんなさい。気づきませんでしたっ! よろしくお願いしますっ!」
俺の手を探して、夏奈の手が空中をいったりきたりした。
?? どういうことだろうか?
夏奈の指先が俺の手のひらにそっと触れ、それから夏奈は俺の手をぎゅっと握った。
?? 本当にどういうことだろうか。
まるで……。
見えていないといった反応だ……。
すると店長はがははっと笑って、こんなことを言った。
「早淵、夏奈と走ってくんね?」
「どういうこと?」
すると夏奈が困ったように眉を寄せて笑った。
「私、目が見えないんです」