35km
九月一三日(木)
毎日の炎天下から一転、今日はときたま涼しい風が吹いた。練習も追い込みに入る。
キロ五分のペースで二〇キロ。なんとか走れたが、きっつい。
その後ジョギング一〇分。ちゃんと体をほぐせとのこと。
九月一五日(土)
今日は休憩なしでぶっ続けで走った。
LSDを二時間。その後一時間のペース走(キロ五分)。
合計二九キロ走った。三〇キロは走りたかった!
最近、長い距離を走るとガクッと終盤失速する。スタミナをつけなきゃ。
九月一八日(火)
インターバルトレーニングが進化した。
今までは一〇〇メートルの直線から、トラックを用いるようになる。
四〇〇メートル。伴走しながらふたりでダッシュ。次の一周はジョグで流す。その後またダッシュ。距離が伸びる分、ダッシュ後の酸欠ぶりが半端じゃない。脳に酸素がまったくなくなる印象だ。
四〇〇メートル、ダッシュで一〇周、ジョグで一〇周。
これは鬼畜だ。こんな練習メニュー考える奴は人間じゃない。
九月二〇日(木)
毎日の炎天下から一転、今日はときたま涼しい風が吹いた。日焼け止めを塗ったのに、俺も夏奈も小麦色に焼けている。
インターバルトレーニングの次の練習はLSDをする。鬼木さんはいつもそう。
LSDを二時間。夏奈と伴走について会話した。曲がる方向を時計に例える短澤さんの手法を話してみると、それ凄いですね! と驚いていた。もっと夏奈のことを知ろうと高校生活のことも教えてもらった。友達はいて、みんな優しいけど、少しだけよそよそしいらしい。プライベートでも遊びに誘って欲しいらしい。
◎
ペース走のバリエーションが増えた。
キロ四分三〇秒ペースで四キロ走り、残り一キロになったら四分ペースで走る。
距離にして五キロ。時間にして二二分。いつもより短めのメニューだなあ、なんて考えていると、そうではなかった。
「ハイ。五分休憩~」
……なん…………だと……。複数セットさせるつもり、だとッ!
鬼木さんに言われるままこの地獄の所業が四セット続いた。
最終セットなんかぐだぐだで、四分三〇秒ペースすらキープすることができなかった。
やはり終盤失速する。スタミナ強化が課題なのだろうか?
練習後、鬼木さんが俺を心配してこんなことを言った。
「マラソンで一番怖いのは何か知っているか?」
「え。なんです?」
鬼木さんは顎に手をやって答える。
「ガス欠だ」
「ガス欠?」
「ちょうど車のガソリンタンクみたいに人間は肝臓に糖分を溜めているんだよ。人間のエネルギー源は糖だからな。肝臓満タンで四〇キロ。そんくらいが人間の限界だ。ガス欠を起こしたら一歩も足が動かなくなる。ラスト二キロ。されど二キロ。人間の限界を超えて人は走るんだ」
悔しいぞ~、あと二キロで棄権するって、と鬼木さんは笑う。
きっと経験済みなんだと思った。
ここまで毎日練習して、あと二キロが走れずにリタイアする……。
死にたくなるくらい悔しいだろうな。
「んで、早淵に確認だが。お前、ふだん何食ってる?」
?? 急な問いに何が訊きたいのかわからなくなる。
「サラダですね」
「他には?」
「サラダです」
「だから他には?」
「サラダですってば」
え……と夏奈の声が漏れた。
鬼木さんは唖然とした顔をしている。
「あ、勘違いしないでくださいよ~。音葉がね、野菜だけじゃ味気ないでしょ? って言って塩をかけてくれるんですよ~。優しいんでしょ~うふふ。塩うまーって。一日ボウル三杯ぐらいサラダ食べるんですよ~。うまーって。あとはソイプロテインを水で溶いたやつとか、うまーって」
「炭水化物……とか、ほら、米とか、食べてるか?」
恐る恐ると言った感じで鬼木さんが確認してきた。
「お米? お米ってなんですか? あーあの白い粒々ですか。あれって毒なんですよね? ランナーが食べたら二粒で死ぬんですよね?」
「…………」
「…………」
なぜか二人が黙っちゃった。どうしたんだろう。
俺の食生活そんなに変かなあ……。毎日音葉が美味しい料理を作ってくれるから気にしたことないけど。俺の幼馴染まじ優しい♡
「あー帰って塩舐めたいなー」
呟くと、鬼木さんがぼそりと言った。
「(ダメだ。洗脳されてる)」
?? いったいなんの話だろう?
鬼木さんがグランドを見渡して音葉を呼んだ。
「音葉ちゃ――――――んッ!」
「なんです~?」とぴよぴよ走ってきた音葉に対して、鬼木さんは俺の食事に関して再確認を行っていた。基本的にサラダに塩をかけて食べている食生活が伝えられる。
「米とか、食べさせないのか?」
「ダメですよ~ダイエットの敵です」
そうか、と鬼木さんは頷く。
「肉とか与えているか?」
「いい子にできたら茹でたささみ肉をあげています♪」
そうか、犬みたいだなと鬼木さんは頷く。
そして目をつむったまま空仰いで、夏奈に訊いた。
「夏奈は、いつもどんな食事をとってる?」
「私は、ふつうに三食バランスよく食べていますよ?」
「主食はどのくらい食べる?」
夏奈は恥ずかしそう答える。
「そういえば、いつもご飯おかわりしちゃいます。それに練習後は夕食前におにぎり食べちゃいます」
「音葉ちゃん?」
鬼木さんは諭すように言った。溢れる母性で、あけみちゃんが顔を覗かせていた。
「これがふつうなのよ。走る人は、人より炭水化物が必要なの。最近、早淵くんが終盤失速するのは完全に、肝臓のグリコーゲン不足よ。これからは、ゆっくりでいいから人並みの食事に戻してもらってもいい?」
「え……友くんに、ご飯食べさせてもいいの?」
「油ものは避けてね。お米はどんぶり一杯ぐらいだったら問題ないわ。早淵くんも、もうお米、食べていいのよ」
お米、食べて、いい?
「け、けどお米は毒だって」
「違うわ。走るためのエネルギーよ」
「内臓が爛れて、脳が溶けるって……」
「そんなことはないわ。安心して。お米は食べれるの!」
ガタガタガタガタガタ。
なぜだろう。お米のことを考えたら脳の奥が締め付けられるように痛い! 昔俺は米を食べていた? あれは食べ物なのか? 思い出せない。オモイダセナイ。
すると……。
パンッ!
と音葉が俺の顔の前で手を叩いた。
そして優しく微笑んだ。
「終わり。お米、食べていいんだよ」
手を叩かれた途端、口いっぱいに炊き立てのお米の香りが広がった。
ぐうっとお腹が鳴る。
「今日は何食べたい?」
「おにぎり! 大きいやつ!」
「(さっきの音、手を叩いたんですか?)」「(音葉ちゃんが催眠術を解いたみたい)」
夏奈と鬼木さんがひそひそ話していただけど、俺には何の話なのかさっぱりわからなった。