33km
九月に入って、夏奈は高校が始まっていた。
俺は九月いっぱいまで夏休み。
走る、バイト、以外は基本的にダラダラ過ごしている。
八月の間のトレーニングは、とにかく俺は痩せる&肉体づくり。
下半身の筋肉を増やして、逆に上半身の筋肉は落とせと言われた。
間違っても腕立てとかするなよ、とか釘を刺されたぐらいだ。おかげ様でMAX期に比べて一五キロは落ちた。今BMIで二〇。あと五キロ減らしたら完全なランナー体型を得ることができる。
今日は店長の送迎で夏奈と音葉で市民プールに来ていた。肺活量を増やせと言われた夏奈さんが出した結論が水泳だった。
バチャバチャと夏奈が水を蹴っている。
俺は夏奈の手を引いて後ろ向きに水の中を歩いていた。
「ぷはっ」
さすがに女子更衣室で夏奈の介助はできないから、音葉に付き添いをお願いした。その際、
「そんなに私の水着見たいの」みたいな反応されてちょっとイラッとしたけど、それでも付き添いを快諾してくれてよかった。
「ぷはっ」
ああ塩素の匂い。懐かしい……。中・高、六年間嗅ぎ続けた匂いだ。流しでまずは一〇〇〇メートルくらい泳ぎたい。あ、けど腕の筋肉付けちゃだめだったんだ。
「ぷはっ」
夏奈がさっきから、ぷはぷは一生懸命息継ぎしている。半分溺れかけながら。
「夏奈ちゃん! 友くんが手を引いてくれているから安心だよ! もっと思いっきり泳いでいいんだよ!」
プールサイドから音葉が夏奈に向かって叫んでいる。
「ぷはっ」
一生懸命な夏奈……いとかわゆすであった。
犬かきのようなフォームで必死にしがみ付いてくる感じ。
俺たちがさっきから何をやっているか。簡単である。夏奈に泳ぎを教えている。
夏奈にプール行きましょう! と誘われたはいいが、行ってみると「私、泳げないんです」から始まった。
水に顔を付ける練習。浮かぶ練習。プールサイドに手を付いてバタ足する練習。その三段階を経て、俺が手を引きながらの実戦練習であった。
もうかれこれ三時間はやっている。
素人だと力の抜き方もわかんないだろうから、疲れるだろうに。
二五メートルを泳ぎきった夏奈をプールサイドに上げて、ベンチまで誘導させた。
「ぜえ、ぜえ、ぜえ、ぜえ、ぜえ」
……夏奈が息も絶え絶えだ。珍しい。
「はい。スポーツドリンク」
音葉が持ってきてくれたスポーツドリンクを貰って、くぴくぴかわいく飲むかわいい夏奈。
「いやー! いいトレーニングになりますねっ!」
超嬉しそうである。
競泳水着姿の夏奈は、なんというか、目に毒だった。
全国競泳水着コンテストがあれば二位以下に圧倒的大差をつけ優勝するだろうこの夏奈さんは、自分のスタイルの良さをわかっていない。こんな市営の競泳プールには老人ばかりだからいいものを、若い男がいたら大変なことになる。SNSにアップされて一五分後には男どもが全国から大挙して押し寄せてくるだろう。
中学・高校と、女子部員の競泳水着姿を直視することはせず視線の端で追い続けた俺だから言える。めちゃめちゃいいぞ。夏奈の競泳水着。
「こんなことなら小学校のときもっと水泳練習しておけばよかったです」
本人曰く、目が悪くなってからプールに行ったことすらないそうだ。しかも中・高水泳の授業もない高校で、ほとんど泳いだことがないと言う。水着も昨日買ったくらいだと。
「いや、けど、のみ込み早いと思うよ。すぐ泳げるようになるって」
「ホントですか!? ちなみに早淵さんなら二五メートルって何秒くらいで泳ぐんですか?」
「ん? 飛び込みありなら、一〇秒くらいで泳ぐよ。っていうか飛び込んだら半分くらい進んじゃうし」
「一〇秒……私、勝てないじゃないですか」
「競争するつもりかよ」
「私が勝ったら、早淵さんに何かおねだりしちゃうかもです」
「おねだりってなに?」
「どうしましょう……買い物付き合ってもらうとか?」
それってデートじゃん。なんだよ~じゃあ手を抜いてあげちゃおうかな~えへへ~♡
「友くん、顔がエロいよ顔が」
「し、失礼な!」
「ひとりで泳げるようになったらふたりでこよっか」と音葉。
「そうですねっ! 早淵さんを抜くべく秘密特訓ですっ」
「おいおい。目的変わってねえか?」
笑うふたり。なんだかんだで音葉もお姉さんみたいで優しいところがある。
「よかったです」
夏奈がペットボトルを手のひらで挟んでくるくる回しだした。
「最初は水に顔を付けることすら怖かったですけど。慣れたらそうでもなかったです。水の中って光しか見えないですけど、よく考えたらいつもそうだって気がついて。なんとなく恐くなくなりました」
そして顔を上げてニコリと微笑んだ。
「また、『出来ない』って思ってたことが『出来る』に変わりました。ありがとうございます!」
もうね。
もうこの笑顔見れただけで満足だよね。いいよね。気持ちがすうっと天に昇っていく気がした。このまま満足して天に召される。満足逝きである。
すると音葉がこんなことを訊いたのだ。
「じゃあさ、夏奈ちゃんがやりたかったことって他にはないの?」
「う~ん。そうですね……」