32km
少し人が開けた場所に出て、ふたりで息を整える。
「もう、あんな場所で大声出さないでくださいよ」
「だって君が、わからず屋、だから」
秋穂さんの方が息切れしていた。
「君は、息が、切れていない、のね」
「練習してますからね。秋穂さんを見返すために。夏奈を無駄な努力って言ったの、謝ってもらいますから」
そう言うと、秋穂さんは目を丸くした。
「そんなこと気にしてたの?」
「そんなことじゃないです。人を馬鹿にするやつ超嫌いなんで」
すると、秋穂さんはハハッと笑った。
「なんで笑うんですか」
尋ねると、秋穂さんは少しだけ考えてから静かに答えた。
「私さ、胸が大きくなって、大好きだった陸上をやめて、そのとき辛かった想いを、夏奈にしてほしくなかっただけなんだと思うの。ただそれだけだったと思うのよ……」
素直じゃないなー、と言って、秋穂さんは空を仰いだ。そして、「あの金星ひとりで寂しそうね」と呟いた。西の空には金星だけがぽつんと見える。「別にひとりで輝いている人を笑いたかったわけじゃないのよ」そう続けて、秋穂さんは少し寂しそうな目をしていた。
「ごめん。言い方が悪かった」
素直に謝られて、呆けてしまう俺。俺としては、マラソン走りきって、どうだ! って言いたかったんだけど。なんか急にふっと肩の力が抜けた。
「なんで花火苦手そうなのに、今日は夏奈を?」
「『やりたいことやらしてあげればいいじゃないですか!』って言ったの、君でしょ?」
破裂音がしてしゃがみ込むぐらい大きな音が苦手なのに、花火大会なんて来れるのだろうか。いや来れないだろう。それはひとえに夏奈のために何かしたいって思ったからだ。
「秋穂さん……もしかして……」
「何?」
「夏奈のこと、好きなんですか?」
まさかの妹想いの良い姉なんだろうか。
すると、秋穂さんは「バカ言わないでよ」と鼻で笑った。
んなわけないか。こんな女王様が。
思ったのも束の間、秋穂さんはいきなり目を見開いて鼻息を荒くして言った。
「好きかって? 好きじゃないわ! 愛しているわ! だってあの夏奈よ! かわいい性格最高いい匂いするし、目に入れても痛くないわ! 現世に降りた天使よ天使! マイエンジェル夏奈たんよ!」
えぇえええ! 俺と同じこと言っている――ッ!
人が言っているの聞くとちょっとひく――ッ!
「あー就活で夏奈との時間が少なくて私がどれだけ寂しかったか! そんな中、男と走ってるって言うじゃない!? 殺してやろうかと思ったわよね。どういうやつか見に行ったわよね。小太りなやつがデレデレしてたわよね。毒殺してやろうかと思ったわよね!」
一瞬、狂気を覗かせて、べらべらべらと夏奈のかわいさについて口から漏れだす秋穂さん。
「君ね! 夏奈がかわいいからって変なことしたら、君が私の胸を揉んでた写真を家族に見せて、倉林家と関係を断絶させてやるんだからね! ネットにアップして社会的にも殺すわ。散々苦しんだ、反省したわねってところで、刺して殺すから」
コロスと発音するとき目に光が宿っていないのはなぜだろう……。
この人、やばい、本物かもしれない。
たまに見せる俺への熾烈な視線。それは夏奈を守ろうとする視線だったのか。
急に真面目な顔をして秋穂さんは俺へ視線を向けた。
「なんで君は夏奈の伴走をやってるの?」
目をまっすぐ見てくる。俺の中の何かを探っているのだろうか。息が詰まりそうになった。
しばらく、たぶん五分は考えていた。なぜ俺は夏奈と走っているのか。
考えて、考えて、考えて、俺の奥底から答えをひっぱりあげる。
「最初は誘られるからなんとなくだったんですけど」
気づいたことは、どうしようもない俺の性格。
たぶんこれからも、ずっと逃げられない呪いのようなもの。
「俺、だれかのためになりたいんですよ」
そう言うと、秋穂さんはハッと小馬鹿にするように笑った。
「偽善者」
「違いますよ」
そうじゃなくって、と俺は続ける。
「ただただ俺が楽しいんです。だれかのためになっていること。ただの性癖みたいなもんです」
「自己満足じゃない」
「ダメですか?」
イエスともノーとも言わず、秋穂さんは答える。
「就活でさ、面接で訊かれるのよ。『会社に入って何がしたいですか?』って。集団面接とかで大半は『地域のためです』とか『社会のためです』とか口裏合わせたように答えるわ。自己犠牲主義のオンパレードで胸やけしそうになる。私、そういう偽善じみたこと嫌いだったから、たぶん態度に出ちゃってたのね。全部落ちたわ」
秋穂さんは下を向いて、落ちていた小石を蹴った。そして空を見上げたのだ。少し笑っている気がする。
「でも気づいたの。ものは言いようだって。結局、『だれかに褒められる自分が気持ちいい』とか、『大きな仕事をして自分の小ささを忘れたい』とか、みんな根本には自己満足があるのよ。けど別に否定できないし、それでだれかのためになっているんだし。それに気がついたら、不思議よね、就職先が見つかったわ」
君はさ、と秋穂さんは続けた。
「自分のしていることを『自分のためだ』って言える人なんだね」
「はい。夏奈と走っていて、俺の方が楽しんでるって、言えますよ」
そう言うと、秋穂さんは安心したような柔らかい表情をした。
「私は夏奈の喜ぶ顔がみたい。けど、私じゃブランクあるし、きっと走りきれない」
少し、声が震えている気がした。
「夏奈を、あの子を、支えてあげて」
「はい」
俺は力強く答えた。
何か、秋穂さんから託された気になった。
走ろう。練習して、いっぱい走ろう。
練習して練習して、マラソンを走りきった先には何があるんだろう。
想像すると、心が躍らずにはいられなかった。
その後、俺たちは神社に戻り花火を見た。
下関港と門司港のふたつの大輪がリンクするように交互に打ち上がった。協調するように、ときには競うように、ひとつの空に色が広げていく。その光が夏奈の嬉しそうな横顔を照らしていた。
ドンドン、と響く夜の咆哮が俺の腹の底まで響いていた。
その破裂音は俺の中で閉ざしていた扉をドンドンと叩いていく。
どこかで押し殺していた感情が呼び起されるようだ。
だれかのためになりたい。
――けど失敗したらどうする?
「関係ねえよ」
失敗しないように努力したらいいんだ。
花火大会のフィナーレは夜空を埋めつくすほどの二尺玉だった。
ドンッ!
聴覚を奪うような、ひときわ大きな爆音が、俺の心臓を強く突いた。
ついに何かが壊れるような音がした。
だれかのためになりたい。
そうしている自分が一番自分らしい。
押さえつける必要なんてない。自分を殺す必要なんてない。
「あるじゃん。俺もやりたいこと」
一瞬でもいい。この花火のように夏奈を照らせる光になりたい。
がんばろう。走りきろう。支えられる人間になろう。
『大丈夫、俺がいる』
いつか夏奈が俺に言ってくれた言葉を、俺も言える人間になろう。
高鳴る心臓が、いつまでも落ち着くことはなかった。
次の練習日、陸上競技場に行くと夏奈がスマホ片手に駆け寄ってきた。
「早淵さん!」
夏奈の画面に映っているものは、海響マラソン大会の出生権の譲受が完了した画面だった。
「うそ! まじか! え、うそ!」
目ん玉飛び出るかと思うくらい驚いた。
「匿名の方が、私を指名して譲ってくれたんです! このアドレスの方なんですけど、お礼を送った方がいいですかね!?」
夏奈も興奮気味だ
画面を覗いたとき、相手のメールアドレスを見て思わず笑ってしまった。
【ears_of_autumn(秋の穂)】
あのツンデレ女王様……。素直じゃねえな。エントリーしてたんかい!
「絶対走りきりますって送ろうよ。絶対その人喜ぶから」
はい! と言って、夏奈は輝く笑顔を見せてくれた。




