30km
もう一度言おう、夏奈は今、浴衣である。
最後にもう一回言わせてくれ。
浴衣夏奈きたぁあああああああああああああああああああ!
――このときの早淵さんは駆け足とも早歩きとも言えない競歩に似たフォームで歩き駆け寄っていましたが、そんなに浴衣姿が見たかったんですか?
早淵:まあこれからの長い人生、夏奈の浴衣姿を見る機会は何度かあるかもしれません。しかし私は、毎日食べるからって米粒を茶碗に残すような人間にはなりたくないと、そう思っています。美少女がいたら目に焼き付ける。それが俺ですから。
近くで見たい近くで見たい近くで見たい近くで見たい近くで見たい近くで見たい。
水色の淡い浴衣を着た夏奈は髪をアップにして結わっている。首筋が開いて中々セクシーだ。うわめっちゃかわいい。うわめっちゃかわいい! ……もう夏奈しか見えていなかった。
「はーい。それ以上はお金取りまーす」
急に目の前に腕が伸びて静止させられる。
んだよ、邪魔すんじぇねえよ!
怒りのまま腕の主を睨んでみると。
その方も浴衣を着た絶世の美女だった。黒色の落ち着いた、けど質が良さそうな浴衣を着ていらっしゃる。夏奈に似たアーモンド形の瞳。夏奈に似たすっとした鼻筋。夏奈よりもぷっくりした唇。ほんわりした夏奈に比べ、凛とした表情を浮かべるこの方は……。
「お姉さま……」
「君にお姉さま呼ばわりされる筋合いないんだけど」
冗談交じりの嫌悪感ではなく、本気で俺を嫌悪している顔を向ける秋穂さん。
どうしよう……今度こそ本当に目覚めちゃうかもしれない。ドM人生始まっちゃう。
「秋穂さんこんばんわー」
「あ、音葉ちゃんこんばんわー」
陸上競技場で知り合ったふたりは仲良さげだった。女子は二秒で仲良くなれるのだろうか。秋穂さん、俺にはあんな笑顔見せないのに……音葉にはちゃんとニコニコしている。
「早淵さんと音葉さんですかー」
夏奈が声の方を向いてニコリと笑った。夕日が落ちた黄昏の暗い中で笑う夏奈が、いつもより儚く見えた。浴衣という落ち着いた和装がそう見えさせるのか。とにかく夏奈は何着ても似合うな。
「似合いますか? 浴衣?」
「めっちゃ似合ってる」
ありがとうございます。嬉しいです。と夏奈が微笑んだ。
「夏奈も毎年、花火見に来ているクチか?」
「いえ。目が悪くなってからは初めて来ました。お姉ちゃんが連れてきてくれるって。どう見えるんでしょう」
空を仰ぐ夏奈。雲ひとつない快晴。まだ星は見えない。たぶん街が明るすぎて、ずっと星は見えそうにない。
「俺たちもここで見ていいか?」
「そりゃもう。となりで花火の風景教えてください~」
そう微笑む夏奈はマジ天使。
一方、顔をくしゃっとして嫌そうな顔をする秋穂さん。
「別に私は君なんかと見たくないんだけど」
「す、すみません……」
音葉が秋穂さんの肩をぽんと叩いた。
「まあまあ秋穂さん。こう見えて友くんは便利だよ~。下の屋台に厭わずおつかいに行ってくれるし、いざとなったら四つん這いになって椅子になってくれる!」
「とんでもないドM野郎じゃねえか!」
秋穂さんは呆れた顔をして、「ええ! 早淵さん椅子になるんですか!」と夏奈が驚いている。
「おいおい。俺、椅子になって喜んだりしねえぞ」
まあ夏奈の椅子ならありかもしんない。秋穂さんでもいいな。音葉でも……いける……かも。アレ? 案外、俺椅子になれるのかもしんない。
「夏奈ちゃん、綿菓子食べた?」
「えっ! 綿菓子あるんですか!? ずっと座っていたので知らなかったです!」
「じゃあ俺買ってこようか?」
自然な流れで言うと、音葉が「ほらね」と笑う。ああ、どうせパシられ体質だよ。
「じゃ、じゃあ、いか焼きとたこ焼きが食べたいです!」と夏奈。
「音葉はジュース! 炭酸じゃないやつ! あと夏奈ちゃんに人形焼きも追加で」
「人形焼き!? いいですね!」
「おいおい、ちょっと待てよ。綿菓子、いか焼き、たこ焼き、人形焼きに人数分の飲み物だろ? ひとりじゃ持てねえって。音葉もついてこいよ」
指を折ってから音葉を見ると、音葉は足をもじもじさせて気まずそうな顔をした。
どうした? と訊くと、音葉は顔を近づけて耳打ちしてきた。
「さっきから鼻緒のところが痛いの」
よくよく見ると、親指の間が赤くなっている。靴擦れならぬ下駄擦れって言うのかな。
「……絆創膏も追加な」
しゃーない。ひとりで行くか。
肩を落としていると、秋穂お姉さまが、はぁと深く息を吐いた。
「夏奈の分は私が買うわよ。ほら、行かないの」
……なん…………だと……。
秋穂さんが優しさをみせたのだ。
唖然。俺、え、唖然。
すたすた歩いていく秋穂さんが振り返って、ほら、と言う。




