2km
集合場所は近くにある市営の陸上競技場だった。
店長からの話を要約すると、店長はどうやら最近、姪っ子さんなる少女の送り迎えのために市民で結成されたランニングサークルなる団体に通っているらしい。走るのが大好きな姪っ子さんらしいのだがさすがにひとりじゃ通えないそうだ。そこにお前も走りに来ないかということだった。
正直言うと、走ることは好きじゃない。元水泳部だからか、陸で重力に抗うよりも泳ぐことが好きだ。ダイエットの為とはいえ嫌々だった俺は、すでに一五分遅刻していた。自転車を駐輪場に置いてダッシュで競技場に入る。
そこは予想よりも立派な競技場だった。外見は横になった卵のような建物で、中に入るとサッカーができるほど広い芝生があった。芝の周りには八レーンのトラックがあり、トラックの周囲には観客席が設けられている。屋根は観客席だけを覆っており、トラック付近からは空が良く見えた。
トラックには現在、二〇人くらいの人がバラバラと走っていて、観客席には誰もいなかった。目を凝らして店長を探す。すると音葉の声が聞こえた。
「やっぱり友くん遅刻~」
ぴよぴよと小走りでやってくるのはワンピース姿の音葉。
いっしょに走らないかと音葉も誘われていたが「絶対嫌」と宣言したとおり、音葉に走る気はないようだ。走る気はないしにてもランチボックス片手って……ピクニックじゃないんだから。
音葉の顔をよく見ると、目元がうっすら腫れていた。
昨夜、店長がランニングサークルに俺を誘ったはいいが、音葉の大反対は続いた。
痩せてどうするの!
せっかくここまで育てたのに!
世界には食べたくても食べられない人がいるんだよ!
そりゃもう泣いて訴えていた。散々説得した結果、納得したように見えたが……音葉の野郎、走って消費したカロリーをすぐさま補給させる算段のようだ。なんという悪魔の所業だろうか。苦しい思いまでして走ったとしても、走った分食わされプラマイゼロ。むしろプラスに傾けて逆に太らせる気だ。
「終わったら、おにぎりあるよ」
露骨ぅッ!
目が笑っていない。どうやら是が非でも俺のダイエットを阻止する気のようだ。
音葉から逃げ出したい気持ちであふれていたそのときだった。
「早淵!」
半袖Tシャツを汗でびっしょりと濡らした巨漢が俺を見つけるなりトラックの直線を駆け足とも早歩きとも言えない競歩に似たフォームで歩き駆け寄ってくる。店長だ。
「はぁ、おっせー、はぁはぁ、よ。はぁ、はぁ。はぁ、はぁ。ちょ、ちょっと待てよ。はぁ、はぁはぁはぁ、うん。はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
俺の前で止まって膝に手をついた。
しばし店長の声を待つ。
その第一声。
「ひ、膝痛てぇ……」
膝痛い(笑)。
「店長、死にそうじゃないですか。まさか本当に走ってたんですか? 体に悪いですよ」
「そうですよ~てんちょ~。無理しちゃダメです。脂肪が泣いてますよ。バナナ食べます?」
店長は屈んで息を整えながら、ずんぐりした片手でピースサインをした。
「も、はぁ、もう、二周。はぁ、走ったぜ」
四〇〇メートル×二周。
つまり八〇〇メートルでこんな状況になっているらしい。ひゅう、ひゅう、と喉の奥が鳴っている。まるで肺がんを患った老犬のようだ。店長はノールックでバナナを受け取り食べ始める。食うのかよ。
はぁ、と嘆息しし一瞬目を閉じたその瞬間だった。
俺は本当に老犬のようなご老人方に俺は取り囲まれていたのだ。
ッ!! 心臓が止まりかける。
「この人が」「さっき言っとった」「兄さん、走るのは得意かね」「ふっくらして可愛いね~」「最初はゆっくりで自分のペースでええ」「人生と同じじゃ」「そう言って田中んとこのじじいはこの前コケて骨折したじゃろうが」「人生コケたらそれまでじゃ」「わしらは骨が折れたら寝たきりじゃけんのぉ」
うぇっへっへ、うぇっへっへ、とご老人方の笑い声に包まれる。
ご老人ブラックジョークに笑っていいのだろうか、とたじろいでいる俺。
一方の音葉はそんなご老人方に、「そんなことないですよ~」と話を合わせていた。恐るべしコミュニケーション能力である。
「このランニングサークルは三つの勢力があってだな」
バナナ片手の店長が俺の肩に手を置いた。ずしっと肩に重みが加わる。
「サークルを支える相談役――」
店長は太い喉を鳴らして巻き舌で言った。
「長老ぅ会のぉォォォォ! 方々ぁアア!」
「ちょ、長老会!! なんかすごそうじゃないっすか!」
「人生の先輩は仲良くしとけよ! 右から、ウメ・ツヨシ・タエコ・シゲル・ヨシオさん」
昭和生まれかもあやしい風貌は、もし仮に元気よく駆けていたら妖怪かと思う。
そんな事を考えていると、トラックの直線から、だっだっだ、疾走してくる集団が来た。びゅー、と全力疾走のようなペースで目の前を横切っていく。短距離走のようなスピードだ。
「ストイックに己のタイムと向き合う孤独なスプリンター――」
ふたたび店長は喉を鳴らして巻き舌で言う。これちゃんと三パターンやんのかな。
「ガチ勢ェのぉォォォォ! 方々ぁアア!」
「ガ、ガチ勢ッ!?」
「気軽に話しかけることは許されず、彼らが走るレーンは空けておくことがルールだ。なかでも、あの先頭を走る鬼木というおっさん。このサークルで唯一フルマラソンを二時間半で走る走力を持つらしい。人間じゃないぜ」
四二・一九五キロメートルを二時間半切る――いまいち早いか遅いかピンと来ないが、あのペースで走っているところを見ると、とてつもなく早いのだろう。
「最後は多勢無勢の俺たち――」
ふたたび店長は喉を鳴らしてタメを作った。
「まあ、最後は、アレだ。ふつうの人。俺たちふつうの一般ランナーだ」
やれや。
最後まで巻き舌でやれや。
店長曰く、このランニングサークルは、主に社会人が参加しているサークルで、火曜日、木曜日の夕方、そして土曜日の午前中にこの陸上競技場を借りて、皆で汗を輝かせているらしい。初老の人が多い気がする。他にも綺麗めなお姉さんもいるし、おばさまもいる。総勢、二〇数人。思ったよりもいろんな人がいた。
「店長、あの人たちは?」
俺からちょうどトラックの反対側に二人三脚みたいにして走るふたりがいた。ふたりとも中年男性で、ザ・ランナーって格好で、サングラスして、ふたりして一本のロープを握り合っている。
店長は目で追うと「ああ」と言った。
「『伴走』って言うんだ。右側の人が視覚に障がいを持っていて、左側の人がガイドランナーっていう伴走者」
「目が見えなくて、あんなに早く走れるんですか?」
さっきのガチ勢の人まではいかないまでも、けっこうなペースで走っている。気が付けばトラックの直線に差し掛かっていて、そのまま俺の前を通り過ぎていった。
「キロ四分二一! いいペース! これからカーブ!」
左側の人が腕に付けたタイムウォッチを確認して短い言葉で隣に伝える。そして右側の人はこくんと頷き駆けていく。ふたりは腕の振りを合わせ、歩幅を合わせ、まるで一体となり走っているようだ。
「あのふたりはもう一〇年もペア組んでるらしいからな。マラソンとか出てるらしいぞ」
「目が見えないのに……走るんですね」
ぼそりと言うと、店長が俺の頭にバナナの皮を置いてきた。
「なんすかなんすか!」
「ん?」
なんとなく、と笑って店長は首に巻いたタオルで汗を拭いた。グレーのTシャツの胸元部分と背中部分が汗で濃い色に変わっている。それを音葉がうっとりとした視線で見ていた。まるで俺にあそこまで太ることを期待しているような目だ。はいはい記憶からデリートしました。