28km
大学の試験って、こんなにきついと思わなかった。ノート持ち込み可っていうからカンニングし放題じゃんって思っていたら、「身近な経済活動について好きな経済理論を用いて論じなさい」という鬼出題。ノート意味ねえ……絶望感満載だった。だれが「お、この経済活動好きだわ~」ってノートにメモメモしている人間がいるだろうか。マジ舐めていたわ。必須科目じゃなくてよかったわ。さくっと落としました。
何はともあれ、試験から解放されて夏休みの突入した、八月九日の木曜日。俺の心は夏だった。常夏サンシャインだった。
いつものように家からジョギングで陸上競技場に向かうと、三キロの道のりでどしゃぶりでも振られたかのような汗が出た。陸上競技場に着いて水分補給。この頃、スポーツドリンク代が馬鹿にならない。
汗を拭いてからまた日焼け止めを塗った。ちなみに男でも日焼け止めを塗らないと死ぬ。あれは日焼けというより火傷だ。水シャワーしか浴びれなくて風邪引きそうになった。
夏奈と合流して、まずは流しでLSDを八キロ、走った。一〇分間、水分補給と休憩をして、ペース走を五キロ。その後再度LSD。
ペース走とは、決めたペースを守りながら走るトレーニングだ。マラソンを四時間完走――サブ4目標にしている俺たちは、キロ五分のペースで走っている。キロ五分というペースは、マラソン換算で約三時間三一分。後半ペースが落ちるからまずはこのキロ五分というペースに体を慣らしたら大丈夫だそうだ。
汗が尋常じゃなくでる。せっかく塗った日焼け止めがタオルで拭き取られていく。後でまた塗り直そう。塗る意味あんのかな。塗らないよりましか。
夏奈はランニングキャップを被っていて、つばの陰から真剣な顔が見える。いつもより辛いのか、真剣そのものって顔だ。
「夏奈、リラックスリラックス。腕の振りが悪くなってるよ」
「はい!」
夏奈の腕の振りに意識が戻る。
はぁ、はぁ、はぁ、夏奈の息遣いがいつもより聞こえる。それだけ荒い。
夏はランナーにとって嫌な季節だ。気温的に。三〇度を越える気温で走ったりしたら最悪熱中症で死んでしまう。だから夏に開催されるマラソン大会は多くない。というよりほぼない。
気温の低い早朝か、日が暮れかけの夕方か、その時間しか走るタイミングがないのである。今日は早朝を選んで走っていた。しかし……こんなにきついのか。夏奈と俺、お互いに夏休みを迎えて、今がレベルアップする時間が作れるのに。
五キロ走は二五分で走る予定が二七分かかってしまった。鬼木さん曰く、これがマラソン終盤でバテてきた感覚で、本番はもっときついらしい。
走ったら日陰に退避+水分補給。
近頃、トレーニングメニューも、よりハードなものになっていってる。それだけ実力がついてきたということなんだろうけど、こんな炎天下の中、本当に気を付けないと危ないと思った。夏奈にドリンクを渡して十分な量を飲ました。
あとはLSD八キロを走って、今日は終わりだ!
そう思った、朝の一〇時三〇分。市立競技場に激震が走った。
「なつなー!」
聞き覚えのある声が快晴の空に響いたのだ。
声の方を見る。
ボルン。
ボルン。
ボルン。
手を振り駆け寄って美女(しかも巨乳)! お乳さまがお揺れになられていらっしゃるあのお乳には見覚えがあった。今でも感触が蘇る一度揉んだ乳。
ま さ か の お 姉 さ ま !
「え。お姉ちゃん来ているんですか?」
夏奈が反応。
「あばばばばばば」
と俺氏。
どうしていいかわからず泡を吹きかけている。
何故? 何故? 何故? 何故? 何故? 何故?
何されるんだろう。あの日の写真で揺すってくるんじゃねえかな。下僕のようにこき使われちゃうんじゃないのかな。どうしよう……ご褒美かもしれない。本当に目覚めちゃうかもしれない。目覚める前に逃げるしかない? けどどこに!?
混乱してあばあばしているうちに、秋穂さんは俺たちが休憩している日陰に到着した。
「なつな~走っている? 君も元気? あれ? ちょっと痩せた?」
……信じられない。
あの女王様が……笑顔……だとッ……!
思うよか、態度がふつうなことに呆気にとられる。というより笑っていると美人さん過ぎて見蕩れてしまう。
「せ……先月から……本格的にダイエット始めたので……」
今の俺は、鬼木さんのガチメニュー+音葉のコミット系食事管理により一〇キロ痩せて標準体型ぐらいになっていた。そんな俺の体型を下から上まで見て、
「うんうん。痩せた方がかっこいいよ」
秋穂さんはニコッとした。うそ……好感度上げにかかっているぞこの人。
本日の秋穂さんはランナーの格好をしていた。肌を焼きたくないのか、長袖だけどぴたっとしているトップスにレギンス&スカートだ。ボディライン丸わかり。やはりいい体してる。
「え。お姉ちゃん、早淵さんと面識あるの?」
「うーん。この前、ちょっとねー」
「早淵さん? お姉ちゃんと何したんです?」
夏奈の笑顔が少し怖かった。内緒にされたことを怒っているのだろうか。
さすがに「ホテル行ってんだ~」なんて言えまい。
「まあまあ、なつな。無粋なことは訊いちゃダメ」
「むー。教えてよぉ」
姉に甘えた声を出す夏奈。見ていたらキュンキュンする。どれだけ秋穂さんが優しくて美人であっても、まじ俺が夏奈推しなことは変わらない。
美人姉妹……いいわあ♡
ほっこりしていると、「お姉ちゃん。今日はどうしたの?」と夏奈が訊いた。
すると秋穂さんは髪をかき上げながらこんなことを口にした。
それまで美人姉妹にデレデレしていた俺であったが、この言葉を聞いた瞬間凍りつかずにはいられなかった。やはり秋穂さんは秋穂さんだ。
「そうそう。就活終わったから夏奈の伴走は私がしようかなって思って。君は帰っていいよ。今までおつかれ」
ガラス板がガッシャンと割れる音が頭の中で響いた。
秋穂さんは俺の手からキズナをひったくるように奪い取っていった。