18km
満身創痍――人間、四時間も走るとこうなるのか。足は棒。呼吸器官は破裂寸前。汗は滝のように流れていた。あの夏奈でさえ、口数が減ってへたり込んでいる。とにかく水が飲みたい。
そういえば鬼木のおっさん……「四時間走ってみろ~」なんて言って、自分は途中で帰っていた。なんだそれ。最後まで見届けてくれよ……。
ふたりしてトラックの脇で座り込んでいると、どこからか現れた着物姿のマダムがやってきた。
「あらやだ。本当に四時間走ったのぉ~? 頑張ったじゃない。は~いスポーツドリンク♡」
だれだ? このイカツイ顔したダミ声のマダムは。背丈は一七〇ぐらいだろうか。
油絵かッ! てぐらい化粧が濃かった。ランニングクラブの人なんだろうか……。
不審者を見つめる目でマダムを見ていた。夏奈の身の安全を確保しつつ、いざとなれば俺の命を賭す覚悟だった。
すると夏奈が想像を遥か先ゆく言葉を発した。
「もしかして、鬼木さんですか?」
「いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや夏奈さん! それはないでしょう!
「けど、足音と声が鬼木さんですし……」
俺の否定に夏奈はきょとん。え、うそ。え、うそん! 軽く混乱していると、マダムは笑いながら夏奈に抱きついた。
「もうっ夏奈ちゃん昼間の名前で呼ばないでッ。着物のときは『あけみ』なのっ。あ・け・み・ちゃ・ん♡」
よくよく見ると唇の刀傷がファンデーションと口紅で隠されている。まさか……本当に鬼木さん……。脳がキャパオーバーを起こして、同時四時間走り続けた疲れが襲ってきた。
「大丈夫ですか早淵さん!」
「ちょっとー吐かないで~着物にかかっちゃうぅ」
…………まじかよ。
醜悪なテンションお化け《これ》があの鬼木さん?
あのヤク〇さんかと思った人が、女装されて……こんなお姿に……。
唖然としていると、鬼木さんはご丁寧に名刺を取り出して、
「あたし、駅前でスナックやってるの~。よかったら若い男の子の集団で来てね~」
「ご丁寧にどうもどうも」
新感覚ラウンジ バタフライ
ママ あけみ
生まれて初めて受け取った名刺がオネェの名刺だった。俺の人生、どこをどう間違ってお初名刺交換がオネェママなんだろう……。そういえば親父が貢いだキャバ嬢もアケミちゃんだったな……なにこの偶然。
「早淵さんって、そういうお店にはよく行かれるんですか?」
「まさか! 俺、未成年だからそういうお店いかないよ。行っても酒飲めないし」
そ、そうですよね、と明るい顔をする夏奈。ちょうかわいい。
「あっら~。早淵くん夜のお店童貞なの~?」
「夜のお店童貞ってなんすか」
「じゃあ、ただの童貞?」
「そういうことを大きな声で言わない!」
「あけみちゃんで、ど・お?」
鬼木さんは腰をくねらせながら近寄ってきて耳元でささやきやがった。ゾクッとする。インフルエンザで四〇度の熱を出したときよりひどい悪寒がする。
「……勘弁してくださいよ」
嘆息交じりで話を切った。
「で、鬼木さん」
「あけみちゃん」
「……鬼木さん」
「あけみちゃん♡」
「……あけみちゃん……の言うとおり四時間走りましたけど、これは何だったんですか?」
正直終盤は放置プレイの何ものでもなかった。最近、とあるお姉さまからドМ顔となじられたけれど、実際のところは放置されて喜ぶドМってわけでもない。
三時間を過ぎたあたりから足先の感覚がなくなって、走れなくなって、終盤はほぼ歩いていた。振り続けた腕も、今じゃ上がらないほど筋肉が披露している。明日から筋肉痛だなあ……。この四時間にどんな意味があったんだろう。死ぬほど辛い四時間だった。
「素人がどんなに早くても、マラソンを走りきるには四時間以上かかるって知ってる? つまり、四時間は動き続けないといけないの。この四時間って時間が最初の鬼門なのよ♡ 結局、四時間でどのくらい走ったか聞いてい~?」
「二九キロってところです」
「う~ん。マラソン換算で六時間……ゴールできるかできないかってペースねぇ」
「どういう意味です?」
「マラソン大会ってふつうは制限時間があるの」
「制限時間?」
「朝九時にスタートしてね、一五時にはゴールしてねぇ~って感じで、ゴールまで制限時間があるのよ~。それ以降はゴールしようが何しようが棄権~みたいなのよ。大体六時間が多いかな」
「じゃあ、俺たちはゴールできるかできないかって感じなんでしょうか」
東京マラソンみたいに初心者ウェルカムな大会は制限時間が長いし、逆に○○国際マラソンみたいな大会だと制限四時間、初心者お断り、みたいな大会もあるらしい。今までの経験では、制限時間六時間ってところが多かったそうだ。
つまり、今の俺たちでは完走できるか出来ないかの微妙なところ。
夏奈もそれに気が付いたのか、「そっか」と短く漏らす。実力が足りない。それを突きつけられたわけだ。
「まあ、今日は第一段階クリアってところかしら♡ ちゃんとマラソン走りきれるように、あけみちゃんがビシバシ鍛えちゃうから安心してぇ~」
すると夏奈が被せるようにこう言った。
「マラソン走るなら、サブ4したいです!」
「サブ4?」
するとあけみちゃんが、「欲張りね♡」と腰をくねらせた。
「サブ4? って四時間を切って、三時間台で走るって意味。ランナーの登竜門かしら。けど、三時間台で走る女性ランナーって全体の一二パーセントぐらいなのよ? 男の子でも全体の二〇パーセントもいない。イメージだけで言ってな~い?」
「目指すなら、目標が高い方がいいじゃないですか」
そう、まっすぐな言葉を夏奈は口にした。
「やーん。そういうの好き~。じゃーがんばっちゃおうかな~」
あけみちゃんはそう言って、妖艶に微笑む。
「そ・の・か・わ・り♡ 早淵きゅん♡ 若い男の子♡ 紹介してよねぇ~」
「…………」
ウィンクされても……リアクションに困る。
「コーチするの止めちゃおうかしら」
くっそ! 変な駆け引きを持ちかけられた俺は、手のひらをコネコネして、精一杯へりくだるのであった。
「いえいえそんな喜んで紹介しますよ~! 大学のダチに細川と田村っていう奴がいてですね」
今日、俺は友人を売った。ついでに魂も売った。夏奈のためなら何でも売ってやる。
俺たちにオネェのおっさんコーチが付いた。