17km
人間、走り続けられる限界ってどれくらいだろう。たぶん、特別な訓練を受けない限り、一時間がやっとなんだろう。今日それを、身をもって経験した。
開始が夕方四時。つまり夜の八時まで動き続けないといけない計算になる。
ゆっくり走って歩いてを繰り返してもう二時間が経過しようとしている。GPS機能付きのスポーツウォッチが計測するに、もう一四キロ走っている。横っ腹は肋骨の内側から小爆発したみたいに痛くて、口の中は血の味がする。肺からはひゅーひゅーと風が漏れる音がした。きつい。人間のやることじゃない。
マジでなんで俺走っているんだろう。辛すぎて人間の生きている意味とか考えだす。人は何故生きるのか――宇宙との融和、輪廻転生、魂の行く末……待て待て意味不明になってきた。やばい頭回んない。
隣を見ると、夏奈も口数が減っている。たぶん思考が宇宙に飛んでいるかもしれない。
「夏奈は帰ってもいいんだぜ。俺が鬼木さんに持ち掛けた話だし」
「早淵さんが走るなら、私も走りますよ!」
俺がひとりで始めると、夏奈が「私も走ります!」と合流してきた。俺的には「これは俺の戦いだから」と断りたかったんだけど、断ると夏奈のやつはひとりで走れもしないくせに走り出しそうなので断るに断りきれず今に至る。
早歩きとジョギングの間ぐらいのスピードで走っていたが、もう無理だ!
「ちょ、ちょっと歩こう」
ぜえぜえ、はあはあ、空気を深く吸う。が、肺への取り込み量が少ない感じ。足は重くて、鉛の靴を履いているような感覚すらある。
「大丈夫ですか?」
「夏奈は? 余裕?」
「余裕じゃないですよ!」
そう言う割に夏奈は肩で息するぐらいで余裕を感じる。俺みたく死にかけている印象は受けない。スタミナお化けが。
ふたりでトラックを歩いた。
顔を上げると、夕方の空は幻想的な色合いをしていた。
「夕焼けが綺麗だよ」
「この赤色は見えてますよ。絵具で塗ったような色していますね」
「綺麗だな」
「雲はないんですか?」
「なんか珍しく雨雲が散ってる」
「そういえば前から訊きたかったんですけど、いいですか?」
「ん?」
「音葉さんと付き合っているんですか?」
思ってもいなかった急な質問に吹き出しそうになる。
「音葉? ないない絶対ない」
「けど仲いいじゃないですか……」
「あいつは妹か姉みたいなもんだよ。お互い恋愛対象には入っていないって」
そう言うと、「へぇ……」と夏奈はうわの空のような声を出した。
しばらく夕日を見ていた夏奈はぼそりと言った。
「じゃあ……私と手とか、繋ぎます?」
「手かぁ」
……手!?
いきなりの言葉に心臓が飛び出しようになった。
「え。ちょ、待って。何? 手って?」
振り向くと、夏奈は顔を真っ赤にしている。それは夕焼けのせいか、それとも別の理由か。珍しく挙動不審な夏奈さん。ちょうかわいい。
「あ、いえ。え? 私、何て言いました?」
「いや、手を繋ごうって」
「ですよね? 言ってましたよね」
「ええ。おっしゃいましたね」
夏奈は恥ずかしそうに俺の方に向いて、
「考えたことが、つい、口から……」
一瞬でも俺と手を繋ごうとか考えたってことだろうか。
どうしよう。嬉死ぬ。嬉死ぬぜ。
俺はキズナから手を離して夏奈の手のひらを掴んだ。ひんやりと冷たい。
一瞬、夏奈が驚いた声を出したけど、その後俺の手を握り返してきた。俺は鼻息が荒くなった。心臓がバグバグしる。夏奈と手を繋いでる! ホントに嬉死ぬ。
「私、不安だったんです。あのまま早淵さんが走るのをやめちゃうんじゃないかって」
夏奈の声はどこか震えていて、湿り気があった。
「早淵さんが断れない性格だってわかってて、無理させて、怪我までさせて、走ることすら嫌いになったらどうしようって……」
ここ数日会えないうちに、こういうことを夏奈は抱えていたのか。
俺は手を握り直してから、歩みを軽いジョグに変えた。夏奈が歩幅を合わせてくる。
「違う違う」笑いながら言った。「俺昔からこうなんだよ」
「どういう意味です?」
「聞くかい、俺の黒歴史」
「ええーなんですかそれ」
はは~、と夏奈が笑った。
「小学校のとき、就学旅行の班長でさ、みんな迷わないように、迷わないようにって考えてたら、結局どこかわかんなくなって、全員で迷子になったりさ」
「大丈夫だったんですか?」
「先生が見つけてくれた」
おっちょこちょいなんですね~、と夏奈は笑顔を崩さない。
「中学のときなんか合唱祭で指揮者やらされてさ、ん? 別に音楽やったことないよ。まあ、くじ引きで決まっただけ。練習も超がんばっててさ、クラスも団結して、超いい雰囲気だったんだよ。いざ当日! みんなのためにちゃんと指揮をしよう! って息巻いたわけ。結果……曲の途中で頭真っ白になっちゃって、音楽止めたりさ」
「うわー。大丈夫だったんですか?」
「女子とかむせび泣いていたよ。あのときは本気で遺書書いたなー」
ええ! 死んじゃダメですよ! と夏奈が驚くので、冗談冗談と夏奈を制す。
「高校のときは、部活、あ、水泳部だったんだけど。三年の引退試合……リレーのアンカーでさ、この前といっしょよ。チームのため、チームのため、そんなこと考えてたら、泳いでる途中足つって、結局棄権……」
懺悔に似た吐露は止められなかった。さすがに夏奈も笑顔を止めていた。
「だれかのため、だれかのため、って。それでいつもポカしてさ。恨まれるやら友達失うやらで大変でさ。結局知ったのは、俺はだれかのために生きられないってこと。かと言って、自分のためにしたいこととかなんもない。空っぽ星人ってこと」
空が悲しみを帯びた濃い赤に変わっていく。そろそろ日が落ちる。
「だから、もう安請け合いはしない、って思ってたんだけど、やっぱり頼られるとほっとけないくてさ」
「…………」
夕日の中、俺と夏奈は黙っていた。静かに落日を眺めていた。
日が落ちてから、夏奈が俺の手を握り直して、口を開いた。
「やんないよりいいです! やんないよりは一千倍いいんです!」
はっきりとした大きな声だった。
「けど、結局失敗するんだぜ? 裏切ってばかりだ」
「私は目がほとんど見えません」
焦点の合わない目線でぼうっと空を見上げる夏奈。
「だから、だれかそばで走ってくれないと走れないんです。やんないよりいいんです。やんないよりは一千倍いいんですよ? 早淵さんが踏み出してくれたその一歩のおかげで、私は走れています」
――ありがとうございます。早淵さんのおかげで大好きなことが出来ています。
そう……夏奈は続けた。
ふいに目頭が熱くなって、視界が滲む。
「きっと早淵さんに助けられた人だってずっとたくさんいるはずなんです。失敗にだけ目を向けてちゃもったいないですよ」
返事ができなかった。今返事をすると泣いていることがバレる。
「光の中をひとりで歩むよりも闇の中を友とともに歩むほうがいい」
そんな言葉を、夏奈が口にした。
「だれの言葉か知っていますか?」
「だれかな……」
「ヘレン・ケラーさんです」
すう、と息を吸って夏奈は続ける。
「目も見えなくて、耳も聞こえない。本当の暗闇の世界で、そんな言葉を口にしたらしいんです」
私はその言葉に憧れてきたのかもしれません、と夏奈は微笑む。
競技場のライトは灯り始めたばかりであたりは真っ暗になっていた。
闇の中をふたりで走っている。不安はない。手のひらから夏奈の柔らかさが伝わるからだ。
「私の瞳は言葉どおり闇です。もう見え辛いったらありません。けど最近考えたんです。目が見えてひとりで走るより、目が見えなくても早淵さんに伴走してもらう方がずっといいんじゃないかって」
ニコッと笑って、夏奈はこんなことを言ったのだ。
「目が見えないことに逆に感謝です。早淵さんと出会えましたから。だから、これからも私といっしょに走ってくれませんか?」
それは、うそだと思った。強がりだと思った。
けど、それは俺のためについた、優しいうそだとわかっていた。
俺のために、そんなことを言ってくれる夏奈に、もはや涙腺は決壊していた。
「ごちらごそ、お願いじまず」
夏奈のためなら何度失敗しても立ち直れる。そんな気がする。闇の中を四二・一九五キロだろうが一〇〇キロだろうが走れる気がした。
「え、え! 泣いているんですか! なんで!」
「あーもう、うるさいな!」
このまま俺たちは歩いたり走ったりを繰り返して、四時間ぶっつづけで走った。距離にして二九キロ。フルマラソンには遠く及ばない距離だ。
陸上競技場のライトは点灯されて、俺たち以外にはだれもいなくなっていた。俺と夏奈の影が四方向に伸びて、ステージの上でスポットライトを浴びているようだった。