15km
ソファーで浅い眠りに入っていると、秋穂さんの叫び声で目が醒めた。
「え? え!」
ピンクに彩られた部屋。キングサイズのベッド。ベッドの周りにはティッシュが散乱。秋穂さんは自分の置かれた情報を整理しているのだろう。
――なんでラブホ?
――なんでホテルのパジャマに着替えている?
――なんでノーブラ?
そんなことを思うに違いない。
明らかに事後《、、》である。状況証拠は揃い過ぎている。
秋穂さんは俺を見つけるなり、目を見開いて、顔をぐしゃぐしゃにして泣き出した。
「初めてだったのに……なんでこんな奴……」
……まさか本当にこの人を持ち帰ることになるとは。
あれから俺たちはタクシーの運転手ですごい嫌な顔をされながら近隣のホテルに向かった。こんなことをして、目が醒めた秋穂さんから激怒されると思ってはいた。
怒鳴り散らして責めてくると思ったけど、これはこれでムカつく反応だ。俺がどんだけ大変な目にあったか知らないくせに。さすがにムカついてきて、顔めがけてバスタオルを投げつけてやった。
「それよりシャワー浴びて来てください!」
しゅんとした秋穂さんは自分の胸元を嗅いだ。酸っぱい臭いに顔をしかめて、「お風呂はいる」と小さく呟いてシャワールームに入って行った。
一時間後。
シャワールームから秋穂さんはリクルートスーツに身を包んで颯爽と出て来た。いつもの凛とした秋穂さんだ。
「ブラウス洗ってくれたようね。感謝するわ」
全然感謝が伝わらない、上から目線の礼だった。
「一応、釈明は聞くけど?」
「釈明ってなんすか」
「酩酊した女性を合意なく犯したら強姦罪になるって知らないの?」
「ゲロ穂さんがよく言いますね」
「ゲッ! だって私着替えていたのよ?」
「自分で着替えてたでしょうが! 部屋から出てけって! 俺を追い出して!」
「それにこの散乱したティッシュは何?」
「自分が汚れた胸元を拭いたんでしょう! 汚いからゴミ箱入れてくださいよ」
くっ……とゲロ穂さんは悔しそうな顔をする。
「じゃ、じゃあ、なんで私ブラしてないの? 返してよ!」
「汚くなったから、袋ない~? って自分で袋に入れて鞄に仕舞ってますよ。確認してください」
そう言われゲロ穂さんは自分の鞄を確認する。それを見て、何か思い出したようにハッとした。攻めるならここだ。
「路上で脱ぎだすわ、ホテルについたらトイレで吐くわ、ブラウスは汚れてるしで大変だったんですよ。ブラウスは洗わないと着て帰るもんがないだろうから洗ってあげたんですけどね。それが強姦犯の冤罪を押し付けられるられるわけですからやってられないですよ。お酒飲むなら周りに迷惑が掛からないように飲んでくださいよ~。いったいいくつなんですか……ゲロ穂さん」
ちょっとした意趣返しをしてやると、ゲロ穂さんは早足で俺のところに来て、俺の手を掴んだ。そして……。
ぼるん。
俺の手のひらを自分の胸に押し付けた。ブラウスごしにノーブラの柔らかい感触が伝わってくる。
――えー、今日のヒーローは、初めてのおっぱいタッチを成功された早淵選手に来ていただきました。早淵選手、ずばり、今の気分はいかがでしょうか!
早淵:サイコーです!
――みごとな鷲掴みでしたが感触はいかがでした?
早淵:サイコーです!
――これからの人生、一度あるかないかのパイタッチ、最後にひと言よろしくお願いします!
早淵:サイコーでぇええええええええす!
秋穂さんはスマホの内側カメラでパシャリ。
気がつけば無我夢中でおっぱいを揉んでいた。
「な、な、なにしてるんですか!」
手をさっと離すと、秋穂さんはニヤリ。
「次ゲロ穂って呼んだら、ホテルに連れ込まれて胸を揉まれたって妹に言ってやる」
「何言っているんですか! 自分でしたんでしょ?」
「証拠写真ならあるのよ?」
「あ、悪魔だ」
フフ、と秋穂さんはほくそ笑んでいる。
「なんでそんな、俺につかっかってくるんですか……」
もう疲れて、ソファーに崩れるように座る。
すると、秋穂さんは自分の鞄から一枚の紙を取り出した。
「これは何?」
それはこの前のマラソン大会で貰った記録用紙だった。走りきれなかった俺たちには賞状を貰うことはできず、各ランナーの記録が記載された一覧をもらった。その一覧の一番下にこう書いてあった。
【倉林夏奈(早淵友弥)――棄権】
「棄権ってどういうこと?」
秋穂さんの目がマジで怖い。鞄から包丁でも取り出しそうな顔をしている。
「それは……俺が足つったんですよ。すみません。俺が最後まで走れなくて」
そう言うと、秋穂さんは、「そう、じゃあ夏奈には何もなかったのね」と呟いた。
安堵の表情を一瞬浮かべた秋穂さんは、俺の横に座って訊いてくる。
「君さ、また夏奈と走るの?」
「正直、辞めようと思っています。俺には無理なんですよ。いつも空回りするし。失敗するし」
……ああ思い出したら気分が落ちてきた。
「あら、なぜかしら。君が落ち込んでいると、気分がいいわね」
あんたがドSだからじゃないっすか?
「足つったって、上り? 下り?」
「下りでちょうどスパートかけていたときです」
「バカ。下りの方が筋肉に負担がかかるのにペース上げるとか愚行よ、愚行」
「詳しいんですね」
そして辛辣ですね。
なんで嬉しそうなんですか。
「昔やってたからね、駅伝」
秋穂さんはリクルートスーツの前ボタンが空いていたことに気づき、ボタンを閉める。
「私が陸上やっていたから夏奈も始めたのよ。目が悪くなる前にね」
「じゃあなんで夏奈が走ることをあんなに反対するんですか?」
「夏奈から聞いていない?」
「何をです?」
「目のこと」
「……そういう話はしませんから」
はぁ~と深いため息を秋穂さんは吐いた。
「あの子」秋穂さんは噛みしめるように一拍置いて、そして続けた。「あの子の病気っていうのは進行性の難病指定されているような病気で、要はいつか失明するのよ。しかも治せない。今は形や色くらいは見えるんでしょうけど、失明したらなにも見えなくなるのよ」
夏奈のことを考えると心がざわつく。今もそれほど見えなくて、それでも何とか生活しているんだろうけど、夏奈は今以上に目に悩まされるのだろうか。胸がつまる。
「何も見えなくなったら、走れなくなるわ。怖いもの」
秋穂さんは長いまつ毛を伏せた。
「夏奈……走るのが好きですもんね」
「あー。違う違う。そういう意味じゃない」
秋穂さんは髪をかき上げてはっと短く笑った。
私さ―― と続けた言葉を聞いた瞬間、耳を疑わずにはいられなかった。
「無駄な努力って見てて嫌な気分になるのよね。どうせ辞めるのに、そんなに頑張らなくていいじゃないって。時間を無駄にして、どうしたの? って」
「うそですよね?」
思わず、聞き返してしまう。
妹に「無駄な努力だ」って切り捨てる姉がいるんだろうか。
あんなに頑張っている夏奈を否定していいものなんだろうか。
いや、そんな人間、許されるわけがない。
「ぶっちゃけ君も付き合わされて迷惑しているんでしょ?」
脳の血液が突沸したかのように頭が弾けそうになった。
「はぁあああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
自分でも大きな声が出ていたことはわかっていた。
けれど抑えられるものでもなかった。
秋穂さんはきょとんとしている。
「見えなくなるってわかっているなら今のうちにやりたいことやらしてあげればいいじゃないですか! 走りたいなら走ればいい。どこか行きたいなら連れて行きますよ! お姉さんなんでしょ!? 夏奈はがんばっていますよ! 見えなくてもがんばってますよ! ふつう視力がほとんど無くなって、走りますか? 恐いでしょうよ! それでも頑張っているんですよ! ちょっとは応援くらいしてあげてくださいよ!」
「…………」
しんと部屋が静まり返る。
その静寂を秋穂さんが冷笑とともに破った。
「バカじゃないの? 頑張れない自分を夏奈に重ねるのやめてくんないかな。私は無駄なことは無駄だって言っているだけ! あの子が見えなくなったら君は本当に捨てられるのよ? いいの? そこまで尽くして、これ以上は走れませんごめんなさい、でポイされるのよ?」
こういうのを売り言葉に買い言葉って言うのだろうか。俺もどんどんカッカしていく。
「そういうこと言うんですね! そうですか、そうですか! わかりました、わかりましたよ! じゃあ俺が夏奈の目標を叶えてやればいいんすよねッ!? 要は目がもっと悪くなるまでにマラソン走りきればいいんでしょうが。やってやりますよ! 来年ッ! いや今年中ッ! 今年中にマラソン走りきってやりますからッ!」
怒りに任せたまま、部屋から出て行く。
「人としてね、最低なことは、頑張っている人を笑うことなんすよ! 俺そういうの大っ嫌いっすから!」
ダンッ! とホテルのドアを思いっきり閉めてやろうとして、重たいドアは油圧でゆっくりと閉まっていった。