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バンソー!  作者: 志馬なにがし
13/43

12km

 最初の三キロは地獄だった。


 全部上り坂。


 スタート前に夏奈とコースを確認していた。まずは森の中の一本道を進み目印となる風力発電機を回って同じ道を引き返す。復路の途中にある三叉路を展望台方向へまた上り、展望台から引き返すと、最後の三キロは下り坂になる。いつもの練習みたく平坦なレーンを走ることは訳が違う。アップダウンが激しく、体力が根こそぎ削られそうなハードな道のりだ。


 一〇キロを一時間で完走。


 それが、お姉さんに認められる結果だろう、と夏奈が言った。


 それが早いのか遅いのか、初心者の俺からピンとこないが、体力を温存しながら坂道を上って、下りでペースを上げていけば不可能ではない。そういう作戦だった。


 序盤、おばちゃんランナーのペースに合わせて、一キロを六分二〇秒――いつも陸上競技場を走るペースより少し遅めのペースで走っていた。


「夏奈! 最初の、チェックポイント! 右に、ぐるっと、回る。ペース落とすよ! あと水! いるか?」

「ください!」


 山の上に風力発電機を設置するだけあって、山道を上っていくにつれ風が強くなっていった。風の音に負けないように叫ぶように夏奈へ声をかける。


 この声を張る行為自体が、上り坂で疲弊していく体にボディブローのように利いてくる。


 最初のチェックポイントを回って、給水ポイントへ。夏奈に水を飲まして、夏奈が飲んだ紙コップを受けとりゴミ箱へ投げ捨てる。


 坂を下り始めると、風向きは強烈な向かい風に変わった。


 ここまで風が強いと……走っても走っても前に進まない感覚になる。


「四キロ通過! 六分一二! 夏奈! 大丈夫か!?」


 ここに来てこの風は嫌だな……。


 案の定、ペースが上がらない。体力だけが削られる。まだ四キロなのに、半分以上走ったくらい疲れている。となりの夏奈は、いつもより汗が多い。そういう俺も汗が滴って目に入って痛かった。


 目標タイムには届かないんじゃないか。


 ……そもそも、走りきれるだろうか。


 焦りが足先から頭のてっぺんまでじわじわと全身を侵蝕していく。


 息が上がる。全身が燃えるように熱い。しかしなぜか心臓が冷たい。


 ペースメーカーとして目印にしていたおばさんとの距離がどんどん開いていく。

 俺たちはペースを上げられない。

 ここで無理をすると、確実に走りきれない。


 まずい、まずい、まずい。どこかでペースを上げないと離される一方だぞ!


 ちくしょう! 悔しくて、つい大声をあげそうになった。


 そのときだった。


 いきなり夏奈が両手を広げたのだ。風が夏奈の髪を揺らしている。


「風が強くて涼しいですよ、早淵さんっ!」

 隣で夏奈がすげえ笑っている。

 笑顔。滴る汗。流れる髪。

 全てがキラキラと輝いていた。


 あはは、美少女過ぎて笑える。


「ちょ、笑わせるなって、息、切れるから」

「今走っている場所って、どんな所なんですか?」


 夏奈は息を上げながらも、頭上から降り注ぐ木漏れ日を見ていた。


「それよりペースを上げないと」

「いいじゃないですか。せっかくの森の中なんですから」


 俺の方に顔を向けて柔らかい表情をした。

 焦らなくていいですよ、そう言われている気がした。


「まずは、ここは森の中だ。森が深くて薄暗い」

「匂いが違いますもんね」

「頭の上には、木の枝が伸びていて、日光を遮っている。前を向くと、杉の木が道を挟んでいる。風が吹いて枝が揺れてるぞ」

「葉擦れの音が心地よいです。空気も清々しいです!」

「いや花粉症になりそうだ」

「もうっ」

「俺たちの前には二〇人くらいの人がいっしょに走っている」

「上り坂きつかったですー仲間だー!」

「ほら。右側! 瀬戸内海が見えてきたぞ!」

「見晴らし良さそうですね……」


 自分が見えないことを残念がる素振りも見せず、夏奈は俺の言葉を嬉しそうに聞いて、


「嬉しいです」

 そう続けた。

「目が見えなくなって! こんな森の中! 景色のいいところをまた走れるなんて、思ってもいませんでした! ありがとうございます! 私と走ってくれて! 楽しいです!」


 夏奈はその言葉の最後に大きな声でこう言ったのだ。


 ――早淵さんも楽しんでいますか?


 走る、というこんな辛いことをやっていて、

 それでもなお『楽しい』と言える。


 すげえ。この状況で、楽しんでますか、か。

 ふつう忘れるよな。そんな感覚。捨て去るよな。辛いもん……走る最中って。息が上がって横腹痛くなって足と腕が重くなって……走っているときにそんなことよく言えるよな。


 答えは、もちろん、


「俺も楽しい!」


 夏奈となら一〇キロでも、二〇キロでも、フルマラソンでも走りきれる気がした。どこまでも行ける気がした。


「これから展望台まで上り! ゆるく右に曲がっているから!」

「はい!」

「うおぉおお! ここに来てこの上り! けっこう急だよ。ペース上げられる?」

「余裕です!」


 五キロ――キロ、五分五五。


 六キロ――キロ、五分四七。


 最後の給水所で夏奈に水を飲ました。

 展望台を引き返して下りにさしかかる。


 七キロ――キロ、五分四〇。ペースが上がってきた。


「夏奈! あのおばさんが見えたよ! 追いついた」

「抜かしましょう!」

「抜かすべ!」


 うぉおおおおおおおおお!

 目標に、追いつき、そしてついに、


「抜いた!」

「このまま引き離しましょう!」

「八キロ! キロ、五分二六!」


 ここまでのタイムはトータル四八分ジャストだった。


 あとは残り二キロを、一二分の計算。一キロを六分ペースで走ればいい。

 下り坂でペースも上がっている。ちゃんと目標まで、手が届くところまできた。


 いける!

 いけるぞ!


 夏奈をチラッと見ると、まだしっかりと腕を振れている。夏奈はまだいけそうだ。


 正直、俺の方がまずい。体力がつきかけている。最後は気力頼みになりそうだ。


 しかし夏奈のために絶対ゴールする。死んでもゴールする。できる!

 夏奈のため、夏奈のため、夏奈のため。

 呪文のようにその言葉を繰り返していたら、力が無尽蔵に湧く気がした。体の奥底から滾々《こんこん》とエネルギーが沸き上がってくるイメージ。そのエネルギーが、一歩、また一歩と足を前に進める。


 今の俺は、無敵だ!


 そのときだった。

 ピキッ!

 なにかピンと張った糸が切れる音がした。遅れてやってくる激痛。


「痛ッ!」


 と思わず叫んで、足が絡まった。そのまま肩からアスファルトに倒れ込む。アスファルトで体の右側をガリガリ削られ、その部分から焼けるような痛みが伝わってきた。同時、ふくらはぎの筋肉がむしり取られたような激痛が両足を襲っている。


「がァアアアアアッ!」


 言葉にならない声を吐いて、倒れ込んだままうずくまる。

 意識が飛びそうになる。


「早淵さん! 早淵さん! 早淵さん!」


 夏奈の声が聞こえる。


 掠れていく視界にぼんやりと夏奈が見えた。まるで暗闇の中を手探りで俺を探しているような姿。視線が泳いで俺に焦点がまったくあっていない。大丈夫ですか、大丈夫ですか、と繰り返して、ようやく俺を見つける。俺の肩に触れた夏奈はそのまま手を添えてくれた。


「ごめん、ごめん」


 痛みに耐えながらそう呟く。

 ああ、いつもこうだ。

 裏切ってばかりだ。

 気が付けば涙が出ていた。


「走りきれなくてごめん」


 雲が出てきて小雨が降り出した。


 雨が避けられる場所に夏奈を連れていくことすらできなった。


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