11km
受付を済ましてゼッケンを受け取る。
スタート位置に向かうため、店長と音葉に手を振る。
「頑張れ~」と店長が手を振り、音葉は「友くん」と俺を呼び止めた。
何か食わされるのだろうか……と身構える。すると予想に反して音葉は優しい顔をして、両手を俺の頬に添えてきた。
「気張りすぎちゃダメだよ。リラックス。リラックス」
涙が、出そうになった。
がんばれ! とか、出来る! とか応援されるより、ずしっと心にくる。
スタート位置に集合すると、すでにぞろぞろとランナーの人たちが集合を始めていた。
「ねえ、あの人たち」「心臓麻痺」「救急車呼んどくか?」「だれだよエントリー通したの」
大会運営の方々なにやらざわついている。視線の先には、ランニングサークルの長寿会の方々がいた。米寿近い人間が一〇キロ走る……だとッ。運営泣かせだろうに。
スタート位置には老若男女が一〇〇人以上集合している。
ジャージ姿の人もいたが、ザ・ランナーっていう感じの格好の人が多かった。
ビビットカラーのランニングウェア、腰にはポシェット、腕にはスポーツウォッチ。ランナーたちの正装だ。レストランにドレスコードがあるように、ランナーにもランナーズコードがあるようだ。
皆、お互いの衣装を横目でチラチラ伺っている。勝った負けたの何かしらの戦いが始まっているようだ。俺はと言えば、夏奈に一式買わされたこともあって、この謎の戦いに片足をつっこんじゃっている。出来ることなら隅っこでじっとしておきたい。
小心者の俺が、大会こえ~ってどぎまぎしていると、夏奈は軽く息を吐きながらぴょんぴょん跳ねて体をほぐしていた。
「夏奈は緊張とかしないの?」
いつも笑っている夏奈が珍しくぶるっと身震いした。
「武者震いです!」
ちょうかわいい。
「落ち葉があるところはすべって危ないので教えてください。一キロ置きにタイム教えていただけますか?」
「わかった」
俺は夏奈を無事、ゴールまで送り届けることができるだろうか。
一〇キロ。この前八キロがやっとだった俺が。
「夏奈」
「どうしました?」
俺はひと呼吸置いて、夏奈に向かう。
「俺、がんばるから」
夏奈は反対側のロープをギュッと握った。それがロープ越しに伝わってきた。
「大丈夫です」
続けたのは、強い言葉だった。
「私がいます」
『みなさま大変長らくお待たせしました!』
会場にアナウンスが鳴り響く。
ピリッと周りのランナーたちの空気が変わった。スタンディングポジションからランニングウォッチのラックボタンに手を伸ばしている。
夏奈の顔つきも変わる。いつもニコニコしている顔が、真剣みを帯びた表情で目の前を向いていた。俺はロープを握り直した。
『スタート五秒前です! 五! 四! 三!』
カウントダウンより半秒早く、パンと乾いた音がした。
一斉に周りの人混みがスタートを切る。不意をつかれたスタートの合図に、夏奈との呼吸が合わず、一歩目がちぐはぐになる。
「早淵さん!?」
一歩先行した夏奈が振り返ると、他のランナーにぶつかって俺といっしょによろめいた。ぶつかったおばちゃんランナーが振り向いて眉間に皺を寄せる。すると倉林のゼッケンに書かれた文字《、、》見て、しかめっ面を一瞬で微笑みに変えた。
夏奈のゼッケンには『視覚障がい者』と書かれていて、俺のゼッケンには『伴走者』と書かれている。
ゼッケンを受け取ったとき、俺は平常心を保てなかった。『私には障がいがあります』と夏奈がさらし者になる――そう考えただけで心臓が張り裂けそうになった。それを平然と受け入れて夏奈は平気な顔で袖を通した。それは、それだけ自分を受け入れているということを意味していた。
「お姉さんごめんね~。お兄さん伴走者やろ? 偉いね~しっかり支えるんよ~」
夏奈は出会って初めてムッとした表情をした。
レース中に、そういう特別扱いは嫌いなのかもしれない。
限定された人生の中で見つけた好きなこと。そこでも特別扱いされる。夏奈にとってたまらないことなんだろう。
そして走り去るおばちゃんの背中に向け、夏奈はつぶやいた。
……嫌な予感がする。
「あの人抜かしましょう」
「けど結構なペースだぜ」
「あの人抜かしましょう!」
こう言い出したら夏奈は曲げそうにない。
夏奈がずんずん走り出す。俺はため息をついて歩幅を合わせる。そして夏奈の腕ふりに合わせていく。徐々に夏奈のストロークが大きくなっていく。
俺は輪っかにしたロープを夏奈と握り合い、夏奈を先導していく。夏奈の伴走者として彼女の横を走る。彼女の目となり、いっしょに風を切っていく。
たまに思うことがある。
目が見えない状況で、相手を信用して走れるだろうかと。
俺なら無理だ。足がすくんで走れない。
だから俺は夏奈に感謝していた。
俺という人間を信じてくれていることを。
俺と夏奈を繋ぐ、直径五〇センチメートルほどのロープの輪。
そのロープには名前がついている。
信頼しあい、握り合うそのロープに、いつからか「キズナ」と名が付いた。
その想いを感じ、夏奈との絆を離さぬよう、俺は右手に力を込める。




