10km
寝ぼけ眼に空を仰ぐと、空は突き抜けるほど青かった。風力発電のプロペラがゆっくりと回っていた。雀の泣く音。空気が冷たい。風が気持ちいい。寝起き直後で頭がぼうっとする。急に風が吹いて、緑の匂いがした。目の前が森だからだろうか。
「わー楽しみですね~」
後ろから弾んだ声がした。夏奈である。
店長の車からワクワク顔の女子高生が車から降りようとしていた。
手探りに車を降りようとしているので、「危ないよ」と言って、夏奈の腕を掴んだ。
「ありがとうございます」
「そういうのは言いなよ」
えへへ、と笑って、夏奈は車から軽くジャンプした。
「危なッ! 足とか挫いたらどうするんだよ」
「ちゃんと支えてくださ~い」
どうやらいつもよりテンションが高いようだ。零れそうな笑顔で俺の腕にしがみついてくる。マジ天使。
「友くん、目がエロい目がエロい」
音葉がランチボックス片手に車から降りてきた。まるで俺が夏奈をいやらしい目で見ているような口ぶりだった。失礼な。俺は夏奈をいやらしい目で見たことなんて一度もない。くんかくんかはぁあああ夏奈かわいい。
「なんで音葉まで着いてきてんだよ」
「友くん? トイチだからね」
そう言って、音葉は顔の横までランチボックスを持ち上げた。
一〇日で一割太る……借金の代償だった。
昨日は夜食にうどん三玉を食べさせられた。
おとといは音葉の手作りケーキをワンホール食わされた。
旨いんだけどさ! 旨いんだけどさ! 俺大丈夫かな? 人としての容姿が保てるかな……。あのランチボックスには何が入っているんだろう……。早く完済して、この責務から逃れたい。
「ところでなんで俺、今日連れてこられたの?」
「大会、出てくれるって約束してくれたんですよね?」
「昨日の今日とは聞いてないよ……」
『おう早淵。夏奈と大会出るよな?』
昨日、店長からそんなことを言われた。
要約すると、店長が夏奈と出るつもりでエントリーしていた大会があったらしい。「つーか俺走れねえし、早淵お前出るよな?」とのこと。
断る余地を与えられないまま安請け合いすると、今朝方、行くぞと車に乗せられた。そして今に至る。バイトの雇い主から強制出場を言い渡され、強制連行される。もしやこれがブラックバイトっていうやつなんじゃなかろうか。
「この前の、お姉さん……あれ、大丈夫だったの?」
あー、と夏奈は苦笑いした。
「お姉ちゃん、昔から心配性なんですー。私が走ることにも反対してて」
倉林秋穂――今年で大学四年になる夏奈の五つ上のお姉さん。そう夏奈は教えてくれた。いつもの陸上競技場の隣に建つカトリック系の私立大に通っているらしい。ちなみに、夏奈もその大学の付属高校に通っているそうだ。
秋穂さんも超が付くほど美人で、面影も重なる。しかし夏奈はどちらかというとおっとりした顔立ちをしているが、秋穂さんはもっと凛としている。
どうやら昔から、夏奈が何するにも反対してくるそうだ。女王様タイプで思い通りに人を動かしたいタイプなのだろうか。そういえば、この前店に来たときもオーダーしたものが届くのが遅いと怒っていたな……。
「お姉ちゃん、今日は就活セミナーで忙しそうなんです」
そう言って控えめに笑った。
「……出来るんだぞって実績を作るんです」
夏奈はそう言って、胸の前でちっちゃくガッツポーズを作った。
どうやら大会っていうものの大半は、タイムを印刷した賞状を配布してくれるらしい。それをお姉さんに自慢するんだ、とのこと。
だから今日の大会だ。
秋穂さんの了解を得てこれからもマラソンを続けるため――そういう意味がこの大会にはあるのだろう。
がんばろう。
絶対、良いタイムで走りきろう。
夏奈はすでにランニングスタイルだった。袖の短いTシャツから見える夏奈の腕が朝の柔らかい日を浴びて淡く白く光る。ショート丈のパンツからは黒いランニングタイツが伸び、そのタイツが足をぎゅっと引き締めている。足のラインがはっきりとわかる。夏奈は全体的に体の線が細い。
結論として……見蕩れちゃうよね。ずるいよね。
「まずは一〇キロ。フルマラソン挑戦の第一歩なんです」
フルマラソン、と聞いてピクンと体が反応した。
先日勢いで言ったあの告白――どうやら夏奈は気にしていないようだ。俺も助かる。
胸をなでおろしていると、スピーカーで拡張された快活な女性の声が聞こえてきた。
『この度はHIRAO風緑マラソン二〇一九にお集まりいただきありがとうございます。風力発電の町、平生で開催される年に一度のマラソン大会。みなさまはスタートから六基の風力発電機の周りをまわっていただき、このスタート地点に戻る、一〇キロメートルの道のりです。ぜひ自然豊かな平生の魅力を感じていただけたらと思います。スタート一五分前です。受付がお済みでないランナーの方は、受付にて……』
「受付行こうか」
俺たちは受付に向かった。