9km
「ナイラン!」「おつかれー!」「ナイスラン!」「ナイスランですー」「たくさん走ったねー」
やりきった感を出し過ぎたのか、他のランナーから声が送られた。
俺たちより長く走り続けている長老会のウメさんからも「よう走るね~」と賛辞が送られる。素直に喜べない感じもするが少しこそばゆい感じもした。
すると、同じく伴走練習していた竹川さんと短澤さんが手を振ってくる。
「ナイラン!」
同じ伴走ペアということもあって、俺たちと、竹・短ペアのふたりとはときたま会話する関係になっていた。
ブラインドランナーの竹川さんは、二〇代のとき病気で失明したらしく、病気との格闘で高校から続けた長距離走とは距離を置いていたらしい。しかし一〇年前に友人の短澤さんの誘いからブラインドランナーという道を歩み始めたそうだ。もう一〇年の関係で、フルマラソンには二〇回、一〇キロぐらいの短い距離の大会なら数えきれないほど出場しているらしい。ひと言でいうと、猛者だ。
竹川さんはすらっとした細身の頬のこけたおじさんで、短澤さんは背が低くて筋肉質だ。竹川さんは無口で、短澤さんは柔和な感じ。正反対、凸凹コンビって印象だけど、ふたりで息を合わせて走っている姿は、完全に呼吸が合っているという印象に変わる。
短澤さんがサングラスをおでこに乗せて微笑んだ。
「さっきの、何キロ何分ぐらいで走ったの?」
俺は今までのタイムを合計して答えた。
「あーじゃあ、フルマラソンで四時間半くらいだね~。最初の大会で四時間半なら大したもんだよ~」と短澤さんがにかっと笑う。
今の一瞬で八キロタイムを四二・一九五キロに置き換えたのだろうか。計算早すぎるだろ。それにしても、この人たちの基準はなぜにフルマラソンなんだろう。八キロでぜえぜえなのに、その五倍って。
「もう、フルマラソンなんてまだまだですよー」
「そんな事言って~。ちゃっかりサブ4したいとか考えてんじゃないの~?」
夏奈が否定して、短澤さんが茶化している。大人だけあって、夏奈じゃ短澤さんには敵わない。伴走ロープを夏奈がぶんぶん振ってきた。「助けて」の意味だろうか。まるでテーブルの下で足をツンツンされているみたいで可愛い。
「短澤さん、そろそろ」
竹川さんが低い声を出して、ふたりは練習を再開した。別れ際、竹川さんが夏奈に「がんばれ」と耳打ちする。
はい、と夏奈は両手を胸の前でグッと握った。
……どうしたんだろう。
すると、急にかしこまった感じで夏奈が俺の方へ向いてきた。
「早淵さん」
「な、なんでしょう」
夏奈は見えない瞳で一生懸命俺の顔を探っているように見えた。なるべく目線を合わせて俺を見ようとしてくれているのだろうか。それでも俺の表情が読めないからか不安で唇を噛んでいるようだった。とても辛そうな顔に見える。
嫌な予感がする。
なんだろう。なんの話なんだろう。
考えれば考えるほど、俺の思考は悪い方向にいく。嫌な汗が浮かぶ。
もっと足の速い人と練習するようにします、とか。
もっと距離の走れる人に誘われていてですね、とか。
そして夏奈はすぅと息を吸った。
彼女は俺を見据えて、そして、告げた。
「私、早淵さんとフルマラソンに出たいんです」
ドクンと心臓が跳ねた。
初めてだった。
初めて、夏奈の方から『やりたいこと』を言った。
言ってくれた。
しかも、その望みには……俺の名があった。
なぜだか無性に目頭が熱くなって鼻の奥が湿ってくる。油断すると涙が零れそうになってしまう。……よかった。また夏奈と走れるんだ。
夏奈の走ることに対する思いは知っていた。
いつか「大会に出たい」と言いだすんじゃないかとは思っていた。
夏奈なら、きっともっと上を目指したいんじゃないかと。
それに俺を……選んでくれた。
……嬉しい。
やっべえ超嬉しい!!
頭の中が焼けるほどカッと熱くなる。
「確かに、フルマラソンとか無謀な挑戦だと思います。けど、どうしても走りたいんです。自分の足で走りきってみたいんです。ずっと、ずっと夢だったんです。早淵さん、お願――」
「わかったがんばろう!」
食い気味に夏奈の言葉を遮って即答した。即答せずにはいられなかった。
それだけ脳内麻薬的なものがドバドバ頭の中を駆け巡ってハイになっていた。
そして勢い余ってこんなことを言っていたのだ。
「じゃあさ! もし走りきったらさ! ずっと俺のそばにいてくれないかな!」
――これは正式な求婚と捉えてもよいということでしょうか?
早淵:え。え? ちょま! 意味わかんない。俺なんつった! 俺なんつった!?
「どどど、ど、どういう意味です?」と夏奈。
「どどど、ど、どういう意味なんでしょう!」と答える俺。
夏奈が確認してくるが頭が回んない。
ごっめーん。わかりにくい冗談だったよねー!
とか笑い飛ばせばいいのに、喉からっからで言葉にならない。
何か言わなきゃ何か言わなきゃ何か言わなきゃ何か言わなきゃ何か言わなきゃ何か言わなきゃ何か言わなきゃ何か言わなきゃ何か言わなきゃ何か言わなきゃ夏奈かわいい何か言わなきゃ何か言わなきゃ何か言わなきゃ何か言わなきゃ何か言わなきゃ何か言わなきゃ何か言わなきゃ。
そんなときだった。
「なつな――――――――――――――――――――――――――――ッ!」
競技場の入り口から、女子大生風の人が夏奈に向かって声を張っている。
叫び声の主は、俺が(夢で)持ち帰ったあのオレンジの匂いのするお姉さん――もとい、この前店に合コンでやってきたお姉さんだったのだ。
そのお姉さんはずんずん近づいてきて、険しい顔をして夏奈の腕を掴んだ。
「あんた、目が見えないのになんで隠れてこそこそ走ったりしてんのよ。ほら、帰るよ!」
「……ご、ごめんなさい」
夏奈がしゅんとしてついていく。
え、え。どういう状況?
「ちょ、ちょっとどうしたんですか。急に腕なんか掴んで」
すると、(夢で)持ち帰ったお姉さんはくるりと顔を向けて、眉間に皺を寄せて言った。
「姉よ! 文句ある!?」
「ありません!」
即答ですよね。すごい剣幕だもん。
すたすたと去っていく夏奈とお姉さま。
空が陰ってきて冷たい風が吹いて鳥肌が立った。俺は鳥肌をさすることもせず、ただふたりの背中を見送っていた。